第十九声
美織と志穂を後部座席に乗せ、俺は車を村の外にある小さなコンビニへ向けて走らせた。
夜の山道は昼間とは別の顔を見せていた。
街灯は少なく、ヘッドライトだけが細い一本道を白く照らし出している。
しばらく走ると、村の入口となる二股の分岐が見えてきた。
そこで、ふと村へ来た日のことを思い出す。
――そういえば、この分岐を越えた途端だった。
タイヤが路面を噛む音も、エアコンの風の音も、不自然なくらい大きく聞こえ始めた。
あれは何だったのだろう。
車はそのまま分岐を越える。
その瞬間だった。
ふっと、耳の奥が軽くなった。
耳鳴りが止んだような感覚。
いや、静かになったわけではない。
エンジン音も、タイヤがアスファルトを擦る音も、美織と志穂が後部座席で話す声も、普段通り聞こえている。
消えたのは、それらの音の隙間を埋め尽くしていた無数の囁きだけだった。
「……やっぱり。」
思わず小さく呟く。
あの得体の知れない声は、村の外までは追ってこない。
つまり、何かがあるのは村の中だけなのだ。
胸の奥に張り付いていた重苦しさが、ほんの少しだけ薄らいだ気がした。
やがて、暗闇の先にぽつんと灯る明かりが見えてくる。
あのコンビニだった。
美織の言った通り、まだ営業している。
店へ入ると、前回来た時と同じように、年配の女性が商品を棚へ補充していた。
「あら。」
俺たちを見ると、手を止めて柔らかく笑う。
「この前来てくれたカップルさんだねぇ。奥の村出身のお嬢さんと。」
「こんばんは。すみません。こんな遅い時間に。」
軽く頭を下げると、お婆さんは目尻を下げた。
「何言ってるの。普通のコンビニなら二十四時間開いてるんだろうけど、うちは朝七時から夜十一時までだからねぇ。不便で申し訳ないよ。」
「今日は友達と徹夜でおしゃべりする予定なんです。」
美織が笑いながら買い物かごを手に取る。
「夜食をいっぱい買い込みます!」
「それは楽しそうだねぇ。ゆっくり見ていきな。」
「ありがとうございます。」
美織と志穂は並んでお菓子売り場へ歩いていった。
その背中を見送りながら、俺は何気ない口調を装って尋ねる。
「お婆さんは、この店を長くやってるんですか?」
「三十年くらいになるかねぇ。もともとは亡くなった旦那が始めた店なんだよ。」
三十年。
それだけこの土地にいれば、何か知っていてもおかしくない。
「この辺のご出身なんですか?」
「そうだよ。私も旦那も生まれも育ちもこの辺り。都会なんて数えるほどしか行ったことないよ。」
「そうなんですね。」
少し間を置いてから、本題を切り出した。
「奥の村のことって、何か変わった話を聞いたことはありませんか?」
お婆さんは棚に缶コーヒーを並べる手を止め、少し考えるように目を細めた。
「変わった話かい……。」
やがて、苦笑する。
「まあ、奥の村は昔から少し変わってるって有名だったねぇ。」
思いがけない答えだった。
「有名だったんですか?」
「この近くには、奥の村から嫁いできたり、村を出て暮らしたりしてる人が案外いてね。昔話なんかを聞くうちに、『変わった村だなぁ』って思うようになったんだよ。」
「例えば、どんな話ですか?」
「お兄さんも言われたんじゃないかい?」
お婆さんは俺を見て笑った。
「姿の見えない相手には返事をしちゃいけないって。」
「ええ。」
「それは、この辺じゃ有名な話さ。」
少しだけ声を潜める。
「あとねぇ……昔は、村には”代わりになる人”がいる、なんて噂もあったよ。」
「代わりになる人……?」
思わず聞き返す。
「本当かどうかは知らないよ。」
お婆さんは肩をすくめた。
「年寄りがよく話してた昔話みたいなもんだからねぇ。」
「その人は、何の代わりになるんですか?」
「さあねぇ。」
お婆さんは首を横に振った。
「そこまでは聞かなかったよ。ただ、『その人が可哀想だから村を出た』なんて話をする人もいたねぇ。」
胸の奥がざわつく。
「そういう話をする人は、今でもいるんですか?」
「いやぁ。」
お婆さんは懐かしそうに目を細めた。
「そういう話をしてた人は、四十年くらい前までだったねぇ。」
「四十年前……。」
「最近は『閉鎖的な村が嫌だった』とか『外の世界を見たかった』って理由ばかりさ。」
四十年前を境に、何かが変わったのだろうか。
あるいは、本当の理由を知る人がいなくなっただけなのか。
「朔弥。」
背後から美織の声がした。
振り返ると、お菓子や飲み物を山ほど入れた買い物かごを抱え、呆れたように笑っている。
「朔弥は何も買わないの?」
「ああ……。」
俺はようやく我に返った。
――“代わりになる人”。
お婆さんは何気なく口にしただけなのだろう。
だが、その言葉だけが胸の奥に小さな棘のように引っ掛かったままだった。




