第十七声
廊下を軋ませる足音が、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
最初は、また自分にしか聞こえていない音なのだと思った。
しかし、向かいに座る志穂の肩がぴくりと震え、その隣の美織も息を詰めるように顔を上げた。
二人にも聞こえている。
俺は静かに息を呑んだ。
この足音には、覚えがあった。
東堂家へ来てから聞いた音ではない。
もっと昔――前世で、弥一郎だった頃から聞き続けてきた音だった。
毎日のように耳にしていた、廊下を歩く音。
姿を見たことは一度もない。ただ音だけが近づき、やがて止まる。その奇妙な気配だけは、今も身体が覚えている。
だから分かる。
この音は、この部屋の前を通り過ぎ、その先にある地下への階段へ向かうはずだった。
ギシ……
ギシ……
ギシ……
板張りの廊下を踏みしめる音が、少しずつ近づいてくる。
障子には人影一つ映らない。
それなのに、音だけが確かに移動していた。
やがて足音は部屋の前を横切り、そのまま廊下の奥へと進んでいく。
(やっぱりだ……。)
前世の記憶どおりだ。
地下へ向かう。
そう思った、その瞬間だった。
ギシ……
ギシ……
ギ……
音が、不意に止まった。
俺の胸の奥で心臓がひとつ大きく脈を打つ。
(……止まった?)
記憶の中でも、この音は決まって地下へ向かっていた。
途中で立ち止まることなど、一度もなかった。
沈黙が、重く部屋を満たす。
誰一人として口を開かない。
息をすることさえ憚られるほどの静寂の中――
ギシ……
ギシ……
ギシ……
足音が、戻ってきた。
ゆっくりと。
一歩ずつ。
まるで、誰かが考えを変えたように。
美織が堪えきれず、俺の袖を強く掴んだ。
その手は冷たく、小刻みに震えている。
足音は迷いなく部屋の前まで戻ると、
ギシ……
そこで止まった。
障子一枚を隔てた、すぐ向こう側。
姿は見えない。
けれど、いる。
そこに”何か”が立っていることだけは、本能が告げていた。
ギィ……
床板がかすかに軋む。
一歩踏み出した音ではない。
足先に体重を掛け、ゆっくりと身体の向きを変えたような音だった。
(……こっちを向いた。)
そう思った瞬間、背筋を冷たいものが這い上がる。
隣で美織が小さく息を呑んだ。
誰も動けない。
誰も声を出せない。
やがて、
カリ……
小さな音が障子から聞こえた。
カリ……
カリ……
乾いた爪で木を掻くような、不快な音だった。
縦框をゆっくりと引っ掻いている。
障子が微かに震えているのが分かる。
美織は耐えきれず俺の肩へ額を押し当て、向かいに座っていた志穂もいつの間にか美織の隣へ身を寄せていた。
三人とも、障子から目を離せない。
カリ……
カリ……
カリ……
その音だけが、部屋の静けさを少しずつ削り取っていく。
やがて、
スッ……
障子が指一本ほど、ゆっくりと開いた。
そこに、人影はなかった。
開いた隙間の向こうには、誰も立っていない。
それなのに。
何かが、入ってくる。
ギィ……
板張りの廊下から畳へと重みが移る気配がした。
目には映らない。
だが確かに、何者かが部屋へ足を踏み入れたのだ。
(来た――。)
俺は顔を上げなかった。
視線は畳へ落としたまま、ただ耳だけを澄ませる。
その方がいいと、本能が告げていた。
畳を擦るような、柔らかな足音が静かに部屋の中を歩き始める。
――スッ。
――スッ。
――スッ。
音は、ゆっくりと三人の周囲を巡り始めた。
そして真後ろで、衣擦れにも似た、ごく微かな音がした。
誰かが腰を折り、俺の耳元へ顔を寄せたような気配だった。
息は感じない。
だが、すぐそこに「いる」。
そして、頭の奥へ直接響くように、女の声が聞こえた。
──弥一郎様。
その瞬間、心臓が大きく脈打った。
この声だ。
前世で幾度となく耳にしていた声。
食事を運んでくる者の声とは違う。もっと静かで、もっと近くで、誰にも知られぬよう囁きかけてくる声。
(……女だったのか。)
前世の俺は全盲だった。
男と女の違いも、年齢も、姿形も知らない。
「音がする」ということだけが、その存在のすべてだった。
だから当時は、この声が男なのか女なのか考えたこともない。
今世で視覚を持ったことで、初めてその声に女性らしい柔らかさがあったのだと気付いた。
声は続く。
──山のアレに見つかる前に。
(山のアレ……。)
志穂が話していた「山のモノ」。
そのことを言っているのだろうか。
そして、さらに声が囁いた。
──お逃げください。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
この言葉も知っている。
初めて聞く言葉ではない。
前世でも、一度だけ聞いている。
記憶の中ほど。
もし前世の俺が二十五歳近くまで生きていたのなら、おそらく十歳前後の頃だったはずだ。
暗闇の中。
誰にも見えないその声だけが、俺に向かって同じように囁いた。
──お逃げください。
(あの時と同じ……。)
なぜ今になって。
東堂家の血を引く者でもない俺に向かって。
なぜ「逃げろ」と告げる。
俺まで山のモノに狙われているということなのか。
答えはない。
その声を最後に、背後の気配が音もなく消えた。
部屋を満たしていた異様な圧迫感が、潮が引くように薄れていく。
代わりに、窓の外から蝉の声が流れ込んできた。
ミーン、ミーン……
遠くを走る車のエンジン音も聞こえる。
日常の音が戻ってきたことで、ようやく現実へ引き戻された。
「……もう、大丈夫みたいだ。」
震える美織の背中をそっと叩く。
美織は恐る恐る顔を上げ、志穂もゆっくりと目を開いた。
「……何、今の。」
美織の声は震えていた。
「私も……こんなの、初めて。」
志穂の顔からも血の気が引いている。
「最初、廊下を歩いてきたよね。」
美織が廊下へ目を向ける。
「うん。突き当たりまで行くと思ったら、途中で引き返してきた。」
志穂も頷きながら、その動きを指先でなぞるように示した。
「それで、この部屋の前で止まって……。」
「障子を引っ掻いて……少しだけ開いて。」
二人は互いの記憶を確かめ合うように言葉を重ねていく。
「部屋に入ってきたよね。」
「うん。」
「最初はあっちを歩いて、それから部屋の中をぐるっと回って……。」
「最後は私たちの後ろで止まった。」
「そう。姿は見えなかったけど、気配だけははっきり分かった。」
「そのあと、急に消えたよね。」
二人の話は、そこで終わった。
俺は黙ったまま頷く。
耳元で聞いたあの女の声を、二人は聞いていない。
聞こえたのは、俺だけだった。




