第十六声
俺は静かに志穂と美織を見渡した。
「まず聞きたいんだけど、この村の『姿が見えない者の声には返事をしてはいけない』っていう決まり、その理由は知ってる?」
先に口を開いたのは美織だった。
「私は小さい頃から、お父さんとお母さんにそう教えられて育ったよ。姿の見えないものが、この世のものじゃなかったら、返事をした人はあちらの世界へ連れて行かれるって。」
「やっぱり、小さい頃から?」
「うん。」
美織は苦笑いを浮かべる。
「実は私、この村を出るまで、それが全国どこでも当たり前のルールだと思ってたの。だから東京に出て、みんなが姿も見ないまま『はーい』とか『おかえり』って普通に返事してるのを見て、本当にびっくりした。」
俺は思わず笑いそうになったが、すぐに志穂へ視線を移した。
「志穂ちゃんも同じ?」
「はい……でも、少しだけ違う話も聞いていました。」
「違う話?」
志穂は静かに頷いた。
「私は、『声をかけてきたのが山のモノだったら、山の闇へ連れて行かれる』と教えられていました。」
「山のモノ……。」
その言葉を繰り返す。
「山のモノって、何なの?」
「詳しくは知りません。でも、人の恨みや憎しみみたいな、良くないものが山で一つになったものだって聞きました。」
「人の恨みが集まってできたもの……。」
志穂も、自信があるわけではないらしい。
「そういうふうに聞いて育ちました。」
俺は少し考え、それから別のことを尋ねた。
「実際に、『これは家族や知り合いの声じゃない』って思うような声を聞いたことはある?」
「私はないかな。」
美織はすぐに首を横へ振った。
「志穂は?」
志穂は少し考え込んでから、小さく口を開いた。
「……ある、かもしれません。」
「本当?」
「十九歳くらいだったと思います。兄がまだ生きていた頃です。」
志穂は当時を思い出すように視線を落とした。
「家の門の外から、兄を呼ぶ声が聞こえたんです。」
「門の外から?」
俺は眉をひそめる。
「この村の人なら、そんな呼び方はしないよね。」
「はい。」
志穂は頷いた。
「姿を見せない限り返事はもらえないって、みんな知っていますから。」
「その声は男? 女?」
「……どちらとも言えませんでした。」
少し考え込むように言葉を探す。
「子どもにも聞こえるし、大人にも聞こえるような……不思議な声でした。」
その話を聞いて、俺はある出来事を思い出していた。
東堂家へ来た初日。
祭壇を運び終えたあと、山の方から聞こえてきた、あの声。
――そっちへ行ってもいいかなぁ。
子どものような声だった。
そして、志穂が無意識に「いいよ」と答えた瞬間、山から一直線に何かが駆け下りてきた。
あれが――山のモノだったのだろうか。
あれが、人を「あちら側」へ引きずり込もうとするものなのか。
俺は志穂へ視線を戻した。
「さっき、人の恨みが集まったものだって言ってたよね。」
「はい。」
「その恨みって、何のことか聞いたことはある?」
志穂は首を横へ振る。
「詳しくは聞いたことがありません。」
「東堂家では、お籠もりまでして山のモノを避けてるんだろう? それだけ恐れているなら、もう少し何か伝わっていてもよさそうだけど。」
志穂はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「以前、東堂家は呪われているとお話ししましたよね。」
「うん。」
「東堂家の血を引く者は、二十五歳になる前に亡くなる。」
「その呪いをかけたのが山のモノ……そう伝えられているの?」
「はい。」
志穂は静かに頷いた。
「そう聞いて育ちました。」
「どうして東堂家は呪われたって言われてるの?」
「江戸時代の初め頃のお話だそうです。」
志穂はゆっくりと言葉を選び始めた。
「その頃の東堂家は、まだ今のような大地主ではなく、一人の農民だったと伝えられています。」
部屋の空気が少し静かになる。
「東堂家の先祖は、自分の土地を広げるために周囲の農民や地主を騙し、多くの土地を奪っていったそうです。」
声は少しずつ小さくなっていく。
「土地を失って暮らせなくなった人もいたそうですし、そのせいで命を絶った人も少なくなかったと聞きました。」
「つまり……。」
俺はゆっくり呟いた。
「東堂家を恨みながら亡くなった人が大勢いたってことか。」
「そう伝えられています。」
志穂は静かに頷く。
「どこまで本当なのかは分かりません。でも、子どもの頃から何度も聞かされてきました。」
「他には?」
「土地や財産だけじゃなく、その家の女性たちまで苦しめたとも聞きました。」
志穂は言いづらそうに俯く。
「若い娘や妻を連れ去って……飽きたら女郎屋へ売ったとも。」
「……最低。」
美織が思わず吐き捨てるように言った。
「だから私は……。」
志穂はゆっくり顔を上げる。
「東堂家が呪われたのは、当然の報いなんじゃないかって、ずっと思っていました。」
「その恨みや憎しみが集まって、山のモノになった……そう考えてるんだね。」
「はい。」
志穂は静かに頷いた。
「証拠はありません。でも、私はそうなんだと思っていました。」
筋は通っている。
そう考えれば、話の辻褄は合う。
なのに――。
胸の奥に、小さな違和感だけが残っていた。
何かが足りない。
何か大切なものを、誰かが隠している。
部屋に重たい沈黙が落ちる。
その時だった。
――ギシ。
古い廊下が、小さく軋んだ。
誰かが一歩、歩いたような音だった。
――ギシ。
また一歩。
ゆっくりと、この部屋へ近づいてくる。
全員が思わず廊下へ目を向けた。
けれど、その時間帯に廊下を歩く者はいないはずだった。




