第十五声
杉山はすぐに柔らかな笑みに戻った。
「昔から皆、当たり前のように『声隠し、声隠し』って言ってきたからねぇ。何の声なのかなんて、考えたこともなかったよ。村では普通のことでも、外から来た人には奇妙に映るんだろうね。」
穏やかな口調だった。
だが、どこか肝心なところだけを避けられたような感覚が残る。
俺は簡単には引き下がらなかった。
「そういうものなのかもしれませんね。でも、余所者の僕からすると、他にも少し不思議だと思ったことがあるんです。」
「……ほう。」
「この村では、姿の見えない相手の声には返事をしちゃいけないんですよね。たとえば家族が『ただいま』と言って帰ってきても、姿を確認するまで『おかえり』とは返さない。」
「そうだね。」
杉山は静かに頷いた。
「私たちは、それが当たり前だと思って育ったからね。」
「もし余所者の僕が、その風習を知らずに返事をしたらどうします?」
「どうします、とは?」
「僕はこの村へ来てすぐ、美織からその話を聞きました。ということは、余所者にも守ってほしい決まりとして、この村では認識されているんですよね。」
「……そうだろうね。」
杉山は少し考えてから答えた。
「黒川くんが何度も返事をしていたら、誰かが注意すると思うよ。」
「どうしてなんですか。」
俺は杉山の目を見た。
「なぜ、姿の見えないものには返事をしてはいけないんですか。」
杉山は少しだけ黙った。
その目から、柔らかな色がふっと消えた気がした。
「私も母から聞いただけで、詳しいことは知らない。」
一拍置いて続ける。
「姿が見えない相手に返事をするとね、その相手は『自分に返事をしてくれた』と思うそうだ。」
杉山はそこで言葉を切った。
部屋が静まり返る。
「……それだけで、十分なんだと聞いたよ。」
それ以上は語らなかった。
だが、その短い言葉のほうが、かえって不気味だった。
「なるほど……。」
俺は静かに頷く。
「つまり、相手が人ではなかったら、その時点で関わりができてしまう、ということですか。」
「昔の人は、そう考えていたんだろうね。」
杉山は苦笑した。
「この村には、昔からの風習がたくさん残っている。でも、生活の一部になり過ぎてしまっているから、理由を聞かれても答えられない人がほとんどなんだ。私も、その一人だよ。」
笑っている。
それなのに、その目だけは少しも笑っていなかった。
「……そうですか。」
俺は息をつき、もう一つだけ尋ねた。
「最後に、もう一つだけ聞いてもいいですか。」
「何かな。」
「杉山さん、さっき『今日もお籠もりなんだろう』って言っていましたよね。」
「ああ。」
「つまり、東堂家のお籠もりは村中が知っている。」
「そういうことになるね。」
「東堂家って、村ではどういう家なんですか。」
「昔から、この辺り一帯の大地主だよ。」
杉山はあっさり答えた。
「土地も山も持っている。働かなくても暮らしていけるほどの家だって、有名だからね。」
「杉山さんは、おいくつですか。」
「五十八になったよ。」
「じゃあ……。」
俺は少し間を置いた。
「東堂家の人が二十五歳前後で亡くなっていくのを、ずっと見てきたわけですよね。」
「……。」
「警察として、不審に思ったことはないんですか。」
杉山は何も言わない。
「普通なら、ある家で何代にもわたって若い人ばかり亡くなるなんて、事件を疑ってもおかしくないはずです。」
俺はさらに踏み込んだ。
「東堂家を、本格的に調べたことはあるんですか。」
杉山の視線が、ゆっくり俺へ向けられた。
先ほどまでの穏やかな表情は残っている。
それでも、その目だけは冷たかった。
「……悪いね。」
杉山は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、画面へ一瞬だけ目を落とした。
「本部から呼ばれたようだ。今日は、この辺で失礼するよ。」
「そうですか。」
俺は小さく笑った。
「残念です。」
杉山は何も答えず立ち上がる。
斎藤も慌てて頭を下げ、二人は応接間を後にした。
玄関の戸が閉まる音を聞きながら、俺は静かに息を吐く。
本当に呼び出しだったのか。
それとも、これ以上話したくなかっただけなのか。
答えは分からない。
ただ一つだけ確かなのは、あの人は何かを知っているということだった。
二人の姿が門の向こうへ消えたのを見届けると、俺は志穂へ向き直った。
「志穂ちゃん。」
「はい。」
「知っていることを教えてほしい。」
志穂は少し戸惑ったように目を伏せる。
「でも……私も、昔から『そういうもの』だと思ってきたことばかりなので、うまく説明できないかもしれません。」
「それで十分だよ。」
俺は静かに首を振った。
「むしろ、そういう『当たり前』の話が聞きたい。この村では普通でも、外から来た人間には不思議に思えることが、きっとまだたくさんある。」
志穂はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かりました。」
その表情には、わずかな迷いと、何かを決意したような色が浮かんでいた。




