雨
穏やかな水の音に目を覚ます。
白い霧が辺りに立ち込めて、静かだ。
ここはあの世?
黒川は小舟の上に倒れるように座っていた。
白い影になった船頭が舟をこいでいる。静かにゆっくりと灰色の鏡面に小さな波を立てる。
反対側に座った誰かが此方を見ていた。霧靄に包まれて判然としないが、朱い双角と銀の長髪が際立って見えた。
寝ぼけまなこの黒川が思わずぼんやりと呟く。
「茨木さん⋯⋯?」
面影が非常に似ていた。
だが、鬼はかぶりを振った。
「妹が世話になったな」
妹――そんな風に茨木童子を呼びながら、その声色は冷酷で無感情で、白い霧のように実体が感じられなかった。
黒川は、はっ、と意識を正す。そうだ。茨木童子の片角は手折られていたはずだ。
傷ひとつ無くここにいる鬼は、姿形こそ茨木童子に思えたが、中身は全くもって別人であった。
「あなたが酒呑童子⋯⋯」
鬼が少しだけ笑った、ような気がした。人形のような笑顔は白々しく、微かな露すら押しのける。
「知っていたはずなのに、なぜ助けに来なかったの⋯⋯?」
黒川は掠れた声で訊ねる。
酒呑童子は整然と即答した。
「鬼ヶ島の総意は、それを望まなかったからだ」
と。
黒川は小舟の底がぐらりと大きく揺れた気がした。
茨木から話に聞いた通り。
姉上は残酷だ、と。
この表情を目の当たりにしてわかった。
情を持たない人形。ただ令するのみの番人。完璧な為政者たる器なのだ、と。
ふと気づいた傍らにはマフラーと両刃の刀。
黒川は出し抜けに刀を拾った。
白霞に閃く。
白刃を翻す。
鬼は動じない。
「なら、これも総意」
黒川は言い放つ。
「土蜘蛛たちの、いえ、茨木さんの」
言葉と刀を武器にして、酒呑童子の顔に突きつける。
「弱い」
鬼はその刃を掴んだ。
柔肌に食い込む。しかし、血など出なかった。
力など込められていないかのように軽々しく動かした。
「憎悪だけでは弱い。無念だけでは軽い。過去だけでは脆い。まだ注げるはずだ。汝の想いを」
黒川の身体から力が抜けていく。
視界が白み、ぐらりと足元が揺れた。
「死ぬために、生きよ」
次に気づいたときは鬼ヶ島でひとり。
雑踏の中にぽつんと佇んでいた。
赤いマフラーに赤いカチューシャ、学生服に、ギターケース。
傘もなく、そこには雨が降っていた。




