歩み
轟音と振動に目を覚ます。
傍らには黒川が周囲の状況に戸惑ってトンネルの内を見回している。
そっとその手に触れる。感じるのは彼女の恐怖。はっとこちらに向き直る。僅かばかりの安堵と、そして疑心。
「よかった⋯⋯目を覚ましたんですね、茨木さん⋯⋯」
「茨木⋯⋯」
ぼんやりした意識の中に少しずつその名前が染み込んでいく。
自分は茨木、茨木童子。
だが、その名前は誰がつけてくれたのだったろうか。姉上か、愚かな妹か。
それとも――。
「犬童は⋯⋯?あやつは、何処に⋯⋯?」
何よりも先に彼の名前が口から溢れた。たったひとつ残された縁のように、消えそうな掠れ声で、呼ぶ。
「安心してください、犬童さんは後から絶対追いついて来ますから⋯⋯」
黒川の声は確かだった。
だが、嘘だ。
触れずとも、感情が伝わる。この童は震えている。どうしようもない絶望に、恐怖しているのだ。励ますような声色は、自分自身へ向けられたものだろうか。
茨木童子はゆっくりと身を起こす。
「駄目ですよ!まだ傷が塞がってない!」
「構わぬ」
黒川の制止を優しく拒みながら、立ち上がる。
立て掛けた自分の獲物を取り上げる。双刃の刀、あるいは両端先に刃を付けた弓。片腕の使い方を忘れつつある。だから、離して二振りにできないし、矢もつがえない。
一振りにしか使えぬのに。
だけど、行かねばならない。静かに、確かに、暗闇に向かっていく。轟音の元へ。傷つき続ける彼の元へ。
「茨木さん!行かないで⋯⋯」
黒川は追えなかった。
心身疲れ果てた少女はひとり残されて、鬼の背を見送ることしかできなかった。
廃都で犬童と坂田はしのぎを削っていた。
黒い大地を踏み砕き、灰色の建造物を破壊して、両者の刃は空間を轟かせる。
犬童が身を翻す。装甲を大斧が掠め、背後の灰壁に叩き込まれる。
剛圧。
歪な亀裂が走る。次の瞬間には崩落。砕けた瓦礫が道路へ振り注いだ。
犬童は刃の上に立っていた。
中途にて折れたなまくら刀を構え、坂田の首元へと一挙に圧した。
轟、と空気を斬り裂いて突き立てん。
だが、相対するもまた手練。
面頬の顎を、かっ、と開き、牙にて食い止めた。
瞬時の機転にて留められた錆び刃に力込められるも、貫くことはない。
坂田はそのまま大地を踏みしめ、犬童を上空へと振り上げた。
中空にて隙。
放り出された犬童に、坂田は大斧を翻す。
犬童は身を捻じる。竜骸の人工筋肉を多大に震わせて、頼る足場もない空にて凶刃を躱した。
巨躯の足元に着。
拳を振り込む。掌底。
二間もあろう巨体が後方へ一気に押し飛ばされた。
犬童は攻撃の手を緩めない。追う。刀を拾う。駆ける。
坂田が嗤った。先の衝撃を利用するように、大斧を振り子にして身を捻らせ、回し斬る。周囲の構造物ごと薙ぐ回転斬り。
飛礫が散弾と化して、追い縋る犬童へと来たる。彼はそれら縫うように機動する。赤のマフラーが稲妻の如き軌跡を残す。
故に追撃が一瞬遅れた。その一間で坂田は体勢を正した。
大斧を地面に突き立てる。外皮を引き剥がすように引きずりながら、迫る犬童に振り上げた。
直撃。
強烈なる剣戟の音。
圧。
犬童の身体が大きく弾かれる。錆び刀が粉々に砕ける。
坂田、更に踏み込む。空へ投げ出された竜骸へ追い打ちの一撃を振り落とす。
直撃。
赤い一筋が建造物へ突き刺さる。
崩壊。瓦解。砂埃、舞う。
衝撃が心許ない大気を震わせ、洞穴の奥深くまで響いた。
一方で茨木童子はゆっくりと音源の方へ歩を進めている。傷だらけの身体を無理矢理動かして、だが確かに進む。
「おや、誰かと思えば、鬼姫様ではございませんか」
前方の暗闇から蒼い瘴気がぬめりと地を這い進んだ。
陰陽兵たちを引き連れた孤月が正面から来る。
「世直し道楽は楽しめましたでしょうか?」
茨木童子は立ち止まり、見通す。
陣傘に廃れた軽鎧。錆びた欠け刀。
そこに、近代的な兵装を身に纏った姿も混ざる。見慣れたはずの土蜘蛛たちもまた、呪札を貼られて、涙を流して、虚空に口を空けている。
「孤月、か」
茨木童子はその悪意の根源をきっと睨む。
「天邪鬼の口車に乗せられた傀儡よ。いずれ使い捨てられとも知らずに、あはれよの」
孤月の表情が歪む。
「黙れ、魍魎風情が」
「呪札も竜骸も、愚かな妹の入れ知恵なのだろう?御せぬようでは安倍の名も呆れるな」
「その実妹に裏切られたのは、そなたらではございませぬか」
ひくつく表情筋を何とか落ち着かせながら、ホホホ、と負けじと嘲笑い返す。
「そうだな⋯⋯」
だが、茨木童子は言い返さなかった。ただ、悔いるように、諦めるように嘆息するのみだった。
「あやつの心内に気づいてやらねばいけなかったのは、家系たる我々だったのやもしれんな」
「家系だと⋯⋯?」
孤月の声にドス黒いものが滲む。
「そんなものはくだらん血の縛りよ。血脈など捨てた鬼風情が何を言う」
「縛られておるのはどちらかな、晴明の息子よ」
「黙れ、卑なる劣等種よ」
孤月が腕を振り上げる。支配の下、陰陽兵たちが茨木童子に襲い掛かる。
だが、彼女は躊躇わない。
両刃の刀を翻した。次々に斬り伏せる。無感情に、無遠慮に。
「いずれそなたたちの顔も、声も、思いも、何もかも忘れてしまうじゃろう」
孤月はたじろぐ。かつての仲間ごと切っておる。鬼め。情すら人とはかけ離れておる。
「だからこそこの刃に注ぐのじゃ」
だが、その実は違う。
「そなたらの無念も、絶望も、愛も、希望も」
陰陽兵となった土蜘蛛の肩に刃が食い込む。茨木童子はその顔を覗き込む。一筋の涙が兵士の頬を伝う。
「全て思い出にして、注ぐのじゃ」
袈裟斬り。鮮血が刃に宿る。
全ての陰陽兵を沈黙させた。
「化け物め」
孤月は苦々しく吐き捨てる。呪札で陣を張り、姿を消す。
「やはり一匹残らず踏み潰さねばならぬよな」
茨木童子はその場に立ち尽くす。生傷が癒えていく。同時に、たった今斬り伏せたかつての仲間たちの顔を忘れていく。刃を見つめる。
「大丈夫じゃ」
茨木童子は柄を握り締める。
「そなたらの声は、ここにある」
そして、また、歩を進める。




