喪失
ノアとユカの移動は済んだ。
通常、人間の手当てなら動かさないに越したことはないが、彼女たちは不死の鬼だ。気を失っている手前、これ以上の損傷を防ぐために幾らか傷口を広げてまで安全な所に移す必要があった。幸いと言えるのかは分からないが、見たところ頭部に内出血の兆候もなく、脳震盪程度で収まった可能性が高い。
ハナはショックの中でも、どこか冷静に判断を下せている自分の姿に驚いた。
役に立てることを願って少しかじっておいた医療の知識がどんどんと脳内を巡っていく。トリアージというものだろうか。とりあえずはノアとユカは現状このままで大丈夫だろう。
2人の鬼力次第では数時間で目が覚める可能性もある。
問題は、ルカだ。
ハナは砂と血だらけの状態で彼女に寄り添った。
血の出処を手で探る。頭からの出血量が多い。側頭部。どくどくと脈打つ血管を辿ると、深く切り裂かれた傷に達した。その匂いに思わず視界がふらついた。消毒液で手元と傷口を洗い流し、包帯をあてがう。やはりルカもまた不死の鬼。固まった血の堰によって塞がりつつあるのだろう。ただその速度は緩やかで、多量の失血で酸素供給を断たれ、脳への多大なダメージに繋がる恐れもある。
そうなれば、1年前のノアと同じように大きな記憶喪失になってしまうだろう。
あるいは、祖母と同じく、何もかも忘れて、新しい彼女に。ツクモ狩り部のみんなを忘れて、ハナを忘れて、ルカは、今のルカじゃなくなってしまう。
そんなのは、嫌だ。
絶対に。
「ルカちゃん、ルカちゃん」
震えた声で呼び掛ける。熱のこもった手のひらで押さえる。
返答はない。目は開かない。
砂に塗れた身体が異様に冷たくて、曙光ですら温めきることはできなかった。
冷静な考えなど、吹き飛んだ。
「起きて、ねぇ、嫌だよ」
泣き叫び、取り乱す。
服装は血で汚れる。顔は砂がこびりつく。
それでもルカの胸元に頬を埋めることしかできなかった。
失う。
“今のルカ”を。
記憶を。
みんなとの記憶。
記憶。
血。
赤。
不意に気づく。
顔を上げる。
大蛇の姿。
悍ましき殺意の醜怪。
迸る瘴気の矛先が自分に向けられている。
「ひっ——」
嗚咽が止まる。息を切る。言葉を無くす。
寒い。背筋を冷たいものが走った。
眼前で大口が、がば、と開かれた。ずらりと並んだ赤錆びた牙が鋭く光る。
口蓋の奥に見える。無数の呪札。
臭う。蒼の腐臭。
重なって聞こえる。憎悪怨嗟の叫び。
肌を刺す。絶望。
知っている。
ハナは異様な状況を、知っていた。
記憶にはない。
だが、身体が、覚えていた。
そんな彼女を吞み込むように、巨口が閉じられた。
閃く。
衝撃の音。
薄暗闇に灯る。
なびく赤のマフラー。
「何、呆けているのッ!?」
サキ。
サキが大蛇のアギトを食い止めていた。二刀を両腕で支え、押し開くように留めている。顎の力とサキの腕力が拮抗し、両者は大きく震えて動きを止めていた。
「サキちゃ——」
「早く逃げてッ!」
ハナの呟きを遮って、サキが吠える。
負傷していた片腕から血潮が迸った。
「クソッ——」
拮抗が圧される。
姿勢が崩れる。
サキは身を捩じった。
大顎が噛み合う。
その一瞬に脱兎。
刀、捨て置く
ハナとルカを抱きかかえて、砂浜を転がった。
砂と血、汗に汚れ、3人は縺れ合う。
サキがすぐさま立ち上がる。ハナとルカを庇うように前へ。
大蛇はかま首をもたげ、高く位置していた。それは追撃の構えに入っていく。
サキの白刃が浜に落ちている。遠い。この状況、取りになんていけない。先の判断を後悔して、舌打ちした。
武器になるものはなく、体一つのみ。
「逃げなさい」
「でも」
サキは答えない。
ただ腕を広げて、ハナを守る。
鉄塊の口が開く。その巨首は後ろへと僅かに引かれる。
来る。
「だめだよ!」
ハナの声が遠く響く。
瘴気が濃く。
殺意。
来る。
轟、と。
風を切って、迫る。
思わず目をつむった。
カシャと、閃光。




