未来
「よ、よろしくお願いしますっ」
「はぁい、よろしくぅ〜」
夕焼け空がカーテンをおぼろげに色づける。部活動の掛け声が校庭から聞こえてくる。
放課後、ハナは大江と一対一で席についていた。
「そんなに固くならんでいいからねぇ、簡単に終わらせるつもりっすよ〜」
「は、はひっ」
かちかちの返事に大江は苦笑しながら、ファイルからプリントを幾つか取り出す。教員用の指導記録と、白紙の進路相談の紙。桜花の名前だけが書かれたプリントだ。
「まだ、決まらない?」
ハナは注意を紙面に注いだまま、返答は無かった。無言の肯定というものだろう。何処か沈んだ表情で、小さく、本当に、微かに頷いた。
大江は優しく微笑んだ。
「この紙はね、予言書でも、未来の決定稿でも、ないんだ」
顔の向きは変わらない。ただ視線だけが、ちらりと大江に向いた。
大江は、少し待ってから続ける。
「君の好きなことは何?」
「好きなこと⋯⋯」
ハナが消え入りそうな声で呟く。
走り込みの掛け声、吹奏楽部の演奏、校舎内に響くあらゆる生命の駆動がやけに大きく鼓膜を震わせた。微かに込められた熱量が伝わってくる。
みんな、出来るからやってるんじゃない。
好きだから、やりたいから、やってるんだ。
拳を握り締めた。肩に力込める。背筋伸ばす。顔を上げる。
「私はっ――!」
至極真面目に大江の目を見る。無言のままに、丸メガネの奥で、朱い目が穏やかに返す。一瞬だけ、キレイだな、と思った。
「みんなの笑顔を残したい、です!」
「"たい"、か」
「あ、ごめんなさい、質問の答えになってないですよね⋯⋯」
思わず、顔を逸らす。また間違えちゃった。
「いや、いい」
だが、大江は真剣な様子だった。ハナの横顔を真っ直ぐと見つめる。
何か考え事だろうか。そのままの沈黙が暫く続いた。ハナが気まずさに身を捻った。
「いや〜!いいじゃん!それぇ〜!」
大江がぱっと破顔した。へべれけでふにゃふにゃで煌々とした笑顔のまま身を乗り出した。
「桜ちゃんのアルバム見たけどさぁ〜、みんないい笑顔なんだよねぇ〜!で、すっごいキレイにまとめられててさぁ!一冊にぎゅっと固まったストーリーを感じるんだよねぇ!紅葉の写真も見たよぉ〜!絶景絶景!なんだか、その場にいるような感覚になっちゃったよ!これは随分と好きじゃなきゃできないことだよねぇ」
「あ、ありがと、ござます」
一気にまくし立てる大江にたじろぐ。うまく舌が回らなかった。
褒める言葉が後から染み入ってくる。
嬉しいけど、どこかこそばゆい。
顔が熱くなって、汗かいてきた。ちょっとだけ、目線を外す。
「私たち鬼はさ」
「え?」
大江がぼんやりと呟いた。ちらと一瞥すると、何処か遠くを見ているようだった。
「未来しか、無いんだよ」
視線が合う。目が離せなくなるほど澄んだ瞳だった。大江はハナの存在に気づいかのように微笑む。
「だから、君には残してほしいんだ、我々の笑顔を。楽しかった想い出、生きていた感情を」
「生きていた⋯⋯」
どういうことなのだろうか。全くわからない。確かに写真で場面を切り取ることは出来る。風景の美しさや笑顔を残すことは出来る。だが、感情も想い出も、見たものに想起させるものでしかない。記憶は外から来るものではなく、内から来るものだ。写真も映像も、その切っ先にしか過ぎない。だから、大江の言葉の真意は、ハナには推し量れなかった。
「だから先生ね!桜ちゃんには写真家が似合うと思うんだけど!どうかな!?」
大江がいきなり勢いづく。にやりと笑いながら、鞄からいくつかの紙を引っ張り出してきた。
「今、猫横丁の写真屋さんでアシスタントを探しているらしいんです!後、駅前のカメラショップでバイト募集中だし、印刷所でも作業スタッフが足りてないらしいんです!」
「わ、わぁー!」
大量の情報にハナがたじろぐ。大江は何故か普段よりも押しが強い。
どう?どう?と迫りくる。
「ちょ、ちょっとまだわかんないですっ」
そう言って席を立った。逃げるように離れる。
「焦らなくていいからねぇ〜!考えてみて〜!」
教室を小走りで出ていく教え子の背中にぺらぺらとチラシの束を振った。
カシャ――。
ハナの頭からカメちゃんが顔を出して、大江の姿を写真に収めた。
ぱたぱた、と走り去っていく音に耳を澄ませながら、大江はひとり座っていた。
次第に足音は聞こえなくなり、放課後の学校特有の騒音に消えていった。
「残酷だよ、全く」
教室に厳しい声が響く。
金童子がいつの間にか教室の隅にいた。
「彼女に、未来の話をせざるを得ないなんてな」
仏像のような表情のまま大江を詰った。
対する彼女の顔も同じく無表情だった。
「残酷か、妹たちと同じようなことを言うんだな、君も」
そう言い放つ大江の丸メガネには夕陽の光が反射して、瞳にどんな色が含まれているか伺い知れない。その頬は無感情に引き締められながらも、どこか諦観の疲れが滲んでいた。
金童子が溜息を吐いて、壁にもたれかかった。
「あの子に未来などありはしないのに」
「金童子」
顔は向けられないまま、言葉だけが冷たく彼を射抜いた。
「無駄口が過ぎるぞ」
「⋯⋯」
金童子は返答しなかった。ただ、陰に潜むように教室を黙って出ていくだけだった。
ひとり残された大江は静かに眼鏡を外した。
普段とは異なる燃え上がるような朱の瞳。音もなく揺らぎ、窓の外から射し込む陽の光を睨んだ。




