9 鳥の気配
じゃがいもの皮は、日に日に薄くなっていった。
白い柄のナイフは、リュシアの手によく馴染んだ。ベルノーの大きな包丁で剥いていたときは、皮と一緒に実まで厚く削げていたのが、今では向こうが透けて見えそうなほど薄く剥ける。ハンナのように一本のリボンにはまだならないけれど、途中で切れる回数は少しずつ減っていた。
「上達したな」
ある夜、ベルノーが鍋の中のじゃがいもを見下ろして言った。
「ハンナさんみたいには、まだ」
「ハンナは四十年剥いとる。四日で追いつかれたら、あいつの立つ瀬がない」
リュシアは、くすりと笑った。
笑うことにも、少しずつ慣れてきていた。
◇
その日は、朝から薄曇りだった。
リュシアは作業場の窓辺の小さな机で、二つ目の木箱の部品を分けていた。ベルノーは奥の作業台で、町の商人から預かったという大きな置き時計の分解に取りかかっていた。
窓は、少しだけ開けてあった。
「油の匂いがこもる。開けとけ」
ベルノーがそう言ったからだ。
かちり、かちり、と部品が皿に落ちる音。ベルノーのピンセットの音。壁の時計の音。
ふと、リュシアは手を止めた。
何かが、来る。
理由はわからなかった。音がしたわけではない。影が差したわけでもない。ただ、窓の外の空気が、ほんのわずかに揺れたような気がした。
リュシアが顔を上げるのと、窓枠に琥珀色の影が舞い降りるのとは、ほとんど同時だった。
あの鳥だった。
数日前、広場でリュシアの肩にとまった鳥。フェリクスの指から、つんと顔を背けた鳥。王宮の窓の外を、太陽のように飛んでいた鳥。
鳥は窓枠の上で羽をたたみ、首を傾げてリュシアを見た。
羽ばたきの音は、聞こえなかった。
リュシアは、不思議に思った。鳥が窓枠に降り立つとき、ふつうは羽が空気を打つ音がするはずだ。雀でさえ、ぱたぱたと小さな音を立てる。けれどこの鳥は、まるで最初からそこにいたかのように、音もなく窓枠の上にいた。
いや、違う、とリュシアは思い直した。
音は、していたのかもしれない。ただ、それがリュシアの耳には、ひどく静かに聞こえたのだ。風が葉を揺らす音のように、自然で、穏やかで、驚くほど小さな音に。
「……こんにちは」
リュシアは、小さな声で言った。
鳥は、答えるように一度だけ首を振った。
リュシアは、そっと手を伸ばした。鳥は逃げなかった。指先が羽毛に触れる。温かかった。琥珀色の羽毛の下で、小さな心臓がとくとくと打っているのが、指先に伝わってきた。
◇
「爺さーん、昨日の部品——」
カラン、と扉の鈴が鳴り、フェリクスの声が作業場に響いた。
ごん、と鈍い音。
「いってえ……」
「学習しろ」
フェリクスは額をさすりながら作業場に入ってきて、窓辺のリュシアに気づいた。それから、窓枠の上の琥珀色の鳥に気づいた。
「あ、こいつ」
フェリクスは、ぱっと顔を輝かせた。
「この前の鳥じゃん。工房まで来たのか」
フェリクスが一歩近づいた。
その瞬間、リュシアにはわかった。
飛ぶ。
鳥の羽が、ほんのわずかに膨らんだ。脚に、かすかに力がこもった。尾羽が、ぴくりと動いた。それらは、ほとんど目に見えないほどの小さな変化だった。けれどリュシアには、それが手に取るようにわかった。まるで、自分の身体のことのように。
「あ……」
リュシアが小さく声を漏らしたのと同時に、鳥は窓枠を蹴った。
琥珀色の翼が、ふわりと広がる。やはり、羽音はほとんど聞こえなかった。鳥は窓の外の路地へ舞い出て、向かいの家の屋根の上に移り、そこからこちらを振り返った。
「ちぇっ。また逃げられた」
フェリクスは、窓の外を見ながら唇を尖らせた。
「俺、何かしたかなあ。あいつに嫌われるようなこと」
それから、フェリクスはリュシアのほうを見た。
「今、リュシア、あいつが飛ぶってわかってた?」
「……え?」
「いや、飛ぶ前に『あ』って言ったからさ」
リュシアは、言葉に詰まった。
わかっていた。けれど、どうしてわかったのかを説明することはできなかった。
「……なんとなく、です」
「なんとなく、かあ」
フェリクスは、窓枠に肘をついて、屋根の上の鳥を眺めた。鳥は、まだそこにいた。屋根の縁にとまって、じっとこちらを見ている。
「リュシアってさ、鳥のこと、よく見てるよな」
「……そう、でしょうか」
「うん。広場でもさ、雀が飛んでくる前に、いっつもそっちのほう見てるし。鳩が歩いてるのも、ずっと目で追ってるし」
フェリクスは、窓枠に頬杖をついたまま、リュシアのほうを向いた。
「鳥が好きなの?」
リュシアは、すぐには答えられなかった。
鳥が、好きか。
考えたこともなかった。
自分は、鳥だ。
真珠色の羽毛と、サファイアの瞳と、長い尾羽を持つ鳥。王の肩にとまり、王の籠で眠り、王のために羽根を差し出してきた鳥。それが、自分だった。
自分が鳥であることを、好きだとか嫌いだとか、考えたことはなかった。それは、ただそうであるだけのことだった。空が青いとか、水が冷たいとかいうのと同じように。
だから、鳥が好きかどうかなど、問うたこともなかった。
「……どうでしょうか」
リュシアは、ようやくそれだけ答えた。
フェリクスは、少し不思議そうな顔をした。けれど、それ以上は聞かなかった。
「ま、あいつはリュシアのこと、好きみたいだけどな」
フェリクスは屋根の上の鳥を指差して笑った。
「俺のことは嫌いみたいだけど」
◇
フェリクスが帰った後も、リュシアは窓辺に座っていた。
部品の仕分けの手は、止まったままだった。
屋根の上の琥珀色の鳥は、いつのまにかいなくなっていた。代わりに、雀が二羽、窓枠の上でちょんちょんと跳ねていた。
リュシアは、そっと人差し指を窓枠の上に差し出した。
一羽の雀が、ためらいもなくその指に跳び乗った。
小さかった。驚くほど軽かった。細い爪が、指の皮膚をかすかにつかむ。茶色い羽毛がふわりと膨らみ、黒い小さな目がこちらを見上げる。
リュシアは、指先に意識を集めた。
とく、とく、とく。
速い。雀の心臓は、驚くほど速く打っていた。リュシアの心臓の何倍も速く、小さな身体の中で、懸命に命を刻んでいる。
この小さな鳥は、いつか死ぬのだ、とリュシアは思った。
自分とは違う。この雀には、羽根を抜かれても生え変わるような、終わりのない時間はない。この雀は、ほんの数年を生きて、空を飛んで、パン屑をついばんで、そしていつか、どこかで静かに命を終える。
その短い命の、ほんのひとときを、今、自分の指の上で過ごしている。
リュシアは、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
悲しいのではなかった。もっと、別の何かだった。
王宮にいた頃、鳥を見るということは、ただ窓の外の遠い景色を眺めることだった。あれは、自分とは関係のない、遠くの絵のようなものだった。
けれど今は、違う。
人間の姿で、人間の目で、鳥を見上げる。人間の指先で、小さな命に触れる。その温かさを感じ、その速い鼓動を数える。
それは、鳥として空を飛んでいたときにも、鳥として籠の中にいたときにも、一度も感じたことのない喜びだった。
自分は鳥だ。
けれど今、自分は鳥を見上げている。
その不思議さが、なぜか、ひどく愛おしかった。
指の上の雀が、ちゅん、と鳴いて、飛び立った。
リュシアは、空になった指先を、しばらく見つめていた。
◇
奥の作業台で、ベルノーは置き時計の歯車を拡大鏡で覗き込んでいた。
ピンセットの先で、小さな歯車をつまみ上げる。軸に差し込もうとして、手を止める。
その目は、歯車ではなく、窓辺に座る少女の背中を見ていた。
リュシアは、気づいていなかった。
ベルノーは、しばらくのあいだ、黙ってその背中を見つめていた。窓辺に集まってくる雀たち。音もなく舞い降りた、見慣れない琥珀色の鳥。そして、鳥が飛ぶ前に、それを知っていたかのような少女の声。
窓から差し込む光が、少女の髪を照らしていた。
白い髪だった。ただの白ではない。光の加減で、淡く青や紫を帯び、角度によっては若葉のような緑がかすかによぎる。真珠のような色の髪。
ベルノーは、目を細めた。
何かを思い出そうとするように。あるいは、思い出したくない何かを、胸の奥に押し戻そうとするように。
やがて、ベルノーは小さく息を吐き、手元の歯車に視線を戻した。
ピンセットの先で、歯車を軸に差し込む。かちり、と小さな音がした。
ベルノーは、何も言わなかった。
◇
夕方、ハンナのところへ玉ねぎを買いに行くと、ハンナは荷車の横で、隣の屋台の女主人と立ち話をしていた。
「——で、結局見つからなかったんだってさ。お城の兵隊さんたち、ここ何日かはもう姿も見ないよ」
「陛下の小鳥だろう?今頃どこかで猫にでも食べられちまったんじゃないかね」
「まあ、気の毒だけどねえ。鳥一羽のことでいつまでも騒いでたら、陛下だって笑われちまうよ」
リュシアは、荷車の陰で足を止めた。
ハンナがリュシアに気づき、ぱっと笑顔になった。
「あら、リュシアちゃん。玉ねぎかい?」
「……はい」
リュシアは、何事もなかったように玉ねぎを三つ選び、銅貨を渡した。ハンナは玉ねぎを紙で包みながら、もう別の話を始めていた。今年の秋祭りのこと。広場に新しく来た大道芸人のこと。
リュシアは、相槌を打ちながら、心の中でそっと息を吐いた。
兵たちは、もういない。
陛下の小鳥は、猫に食べられてしまったのだと、町の人たちは思っている。
それでいい、と思った。それでいいのだ、と。
けれど、玉ねぎの包みを抱えて広場を横切るとき、リュシアは一度だけ、屋根の向こうの白い尖塔を振り返った。
薄曇りの空の下で、尖塔は静かにそびえていた。
あの塔の中で、王は今、何を思っているのだろう。
リュシアは、すぐに目を逸らした。
◇
工房の前まで戻ってきたとき、リュシアは足を止めた。
扉の前の石畳の上で、何かが小さく震えていた。
しゃがみ込んで見ると、それは燕の雛だった。羽はまだ生えそろっておらず、灰色の産毛がところどころに残っている。黄色い嘴の端を大きく開けて、か細い声で鳴いていた。
見上げると、工房の軒下に、泥でこしらえた燕の巣があった。巣の縁から、同じような雛の頭がいくつも覗いている。その上を、親鳥が二羽、鋭い声を上げながら、せわしなく飛び回っていた。
リュシアは玉ねぎの包みを脇に置き、両手でそっと雛をすくい上げた。
雛は、リュシアの手のひらの中で、鳴くのをやめた。
「どうした」
扉が開き、ベルノーが顔を出した。リュシアの手の中を見て、軒下を見上げ、それだけで事情を察したようだった。
「落ちたか」
「はい。巣に、戻してあげたいのです」
ベルノーは何も言わずに中へ引っ込み、作業場の隅から古い梯子を引きずってきた。軒下に立てかけ、自分の足で一段目を押さえる。
「上れ。わしは腰が言うことをきかん」
リュシアは、雛を片手に包んだまま、梯子を上った。
巣の縁に近づくと、親鳥の声がいっそう鋭くなった。一羽が、リュシアのすぐ顔の横をかすめて飛んだ。けれど、それ以上は近づいてこなかった。
リュシアは、手のひらをそっと巣の縁に寄せた。
「おかえり」
小さくそう言うと、雛は手のひらからよちよちと這い出し、兄弟たちの間に身体をねじ込んだ。
親鳥の声が、ふっとやんだ。
二羽の燕は、軒下の梁にとまって、梯子の上のリュシアをじっと見ていた。ついばみにくることも、威嚇することもなかった。まるで、礼でも言うように、静かに首を傾げていた。
梯子を下りると、ベルノーが梯子の足を押さえたまま、軒下の燕たちを見上げていた。
「……燕は気が荒い。ふつうは、巣に手を近づけただけで突っつかれる」
ベルノーは、ぽつりと言った。
リュシアは、何と答えればいいのかわからなかった。
ベルノーは、それ以上何も言わなかった。梯子を担ぎ、腰を叩きながら、工房の中へ戻っていった。
◇
その夜、物置部屋の窓辺に、琥珀色の鳥がまたやってきた。
リュシアが寝台に腰かけて、白い柄のナイフを布で拭いていたときだった。ふと顔を上げると、小さな窓の外に、琥珀色の影がとまっていた。
やはり、羽音は聞こえなかった。
リュシアは、ナイフを鞘に収め、窓を少しだけ開けた。
鳥は、窓枠の内側に一歩だけ入ってきて、そこで羽をたたんだ。
月明かりの下で、琥珀色の羽毛は昼間よりも深い色に見えた。夜の中に灯った、小さな火のようだった。
「……あなたは」
リュシアは、小さな声で言った。
「あの日、王宮の窓の外にいた鳥ですか」
鳥は、何も答えなかった。ただ、琥珀色の瞳でじっとリュシアを見ていた。
「あなたを見ていたら、外に出たくなったんです」
鳥は、首を傾げた。
「だから、ここにいます」
リュシアは、窓枠の上の鳥に、そっと指を差し出した。
鳥は、その指に自分の頭を、ほんの一瞬だけすりつけた。
それから、音もなく飛び立った。
月明かりの中を、琥珀色の影が遠ざかっていく。屋根を越え、時計塔の上を越え、夜空の向こうへ。
リュシアは、その姿が見えなくなるまで見送った。
王宮の窓から見た鳥。この町の屋根の上を飛ぶ鳥。昔の自分と、今の自分。その間を、あの琥珀色の翼が、静かに行き来しているような気がした。
リュシアは窓を閉め、寝台に横になった。
工房の時計たちが、ばらばらの拍子で時を刻んでいた。




