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【平日18時更新】リュシアと時計塔 〜王の鳥は自由を求めて王宮を逃げ出す〜  作者: Tania Riko


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10/14

10 時計屋のお姉さん

「これを、ハインツのところへ持っていけ」


ある朝、ベルノーがリュシアの手に紙切れを一枚押しつけた。


紙には、ベルノーの角張った字で、何かの部品の名前と寸法が書きつけてあった。


「時計の軸受けに使う、真鍮の小さな輪だ。十二個。あいつに見せりゃわかる。金は払っておいた」


「わたしが、行くのですか」


「ほかに誰がいる。わしの腰は今朝から機嫌が悪い」


ベルノーは、拳で腰をとんとんと叩いてみせた。


それが、リュシアにとって初めての「おつかい」だった。


◇


初めの頃は、うまくいかないことばかりだった。


ハインツの店の前で、どう声をかければいいのかわからず、戸口に立ったまま長いあいだ動けなかった。炉の前で金槌を振るっていたハインツが、やがて気づいて振り返り、無言でこちらを見た。リュシアは、黙って紙切れを差し出した。ハインツも黙ってそれを受け取り、黙って奥へ引っ込み、黙って小さな布包みを持って戻ってきた。


一言も言葉を交わさないまま、おつかいは終わった。


工房に戻ってそれを話すと、ベルノーは声を上げずに肩を揺らした。


「ハインツ相手なら、それで十分だ」


パン屋では、もっと苦労した。


パン屋の婆ちゃん——フェリクスがそう呼んでいた——は、とにかくよく喋る人だった。リュシアが店に入るなり、「あらまあ、あんたがベルノーさんとこの!」と叫び、それから息継ぎもせずに、亡くなった旦那さんの話、置き時計の話、フェリクスが子どもの頃にパンを盗み食いした話をまくしたてた。リュシアは相槌の打ち方もわからず、ただ「はい」「はい」と繰り返しているうちに、気づけば頼んだ数の倍のパンを抱えていた。


「おまけだよ、おまけ!あんた細いんだから、たんと食べなきゃ」


工房に戻って袋を開けると、ベルノーは呆れたように眉を上げた。


「婆さんに捕まったな」


「……はい」


「三日はパンを買わんでいい」


挨拶も、ぎこちなかった。


おはようございます、と言うべきときに、声が小さすぎて相手に届かない。こんにちは、と言おうとして、相手のほうが先に口を開いてしまい、言いそびれる。ありがとうございます、と頭を下げすぎて、相手を戸惑わせる。


けれど、毎日同じ道を歩き、同じ店に通ううちに、少しずつ変わっていった。


◇


町の人々は、リュシアの顔をすぐに覚えた。


覚えないほうが難しかったのかもしれない。


リュシアの髪は、この町の誰とも違う色をしていた。白く、けれどただの白ではなく、光の加減で真珠のように淡い色を帯びる髪。瞳は、深い海の底のような青。肌は、陽に焼けた町の人々の中で、透けるように白かった。


「あの子、どこのお嬢さんだい」


「ベルノーさんとこにいる子だよ。遠い親戚だとか」


「へえ、あの偏屈爺さんにあんな可愛い親戚がいたとはねえ」


ベルノーは、町の人に聞かれるたびに、「遠縁の娘だ」とだけ答えていた。それ以上は何も言わなかったし、町の人も、それ以上は聞かなかった。


ひと月が過ぎる頃には、広場を歩けば、あちこちから声がかかるようになった。


「リュシアちゃん、おはよう!」


ハンナが荷車の上から手を振る。


「今日も鳥を連れてるねえ」


パンの屋台の主人が、肩の雀を見て笑う。


「ベルノーさんとこの嬢ちゃん、これ、爺さんに持ってってくれ。この前の時計の礼だ」


八百屋の主人が、籠に入った人参を押しつけてくる。


リュシアは、そのひとつひとつに頭を下げた。おはようございます、ありがとうございます、と、少しずつ大きな声で言えるようになっていった。


◇


子どもたちに声をかけられたのは、そんなある日の昼下がりのことだった。


リュシアは広場の時計塔の石段に腰を下ろして、ハンナにもらったすももを食べていた。肩には雀が二羽、膝の上にも一羽。足元では鳩が三羽、リュシアのそばを離れずにうろうろと歩き回っていた。


「ねえ!」


突然、目の前に男の子が立っていた。


くしゃくしゃの茶色い髪に、そばかすの散った顔。膝に泥のついたズボンを履いて、目をきらきらと輝かせている。


「お姉さん、なんでそんなに鳥が乗ってるの?」


「……え」


「どうやったら鳥が乗るの?ぼくもやりたい! ねえ、お姉さん、鳥と話せるの?鳥の言葉わかる?この雀、名前あるの?お姉さんが飼ってるの?」


男の子は、リュシアが答える前に、次から次へと質問を浴びせてきた。


「フィン、いきなりそんなに聞いたら、お姉さん困っちゃうよ」


少し離れたところから、小さな声がした。


見ると、広場の井戸の陰に、女の子がひとり立っていた。栗色の髪を二つに編んで、色あせた水色の服を着ている。女の子は井戸の縁に手をかけたまま、こちらには近づいてこなかった。ただ、大きな目でじっとリュシアを見つめていた。


「エルナはこわがりだなあ」


フィンと呼ばれた男の子が、振り返って言った。


「こわがってないもん」


エルナは、井戸の陰から半歩だけ出てきた。それから、また半歩戻った。


リュシアは、二人の顔を交互に見た。


「……わたしは、リュシアといいます」


フィンが、ぱっと顔を明るくした。


「ぼく、フィン! 八歳! あっちはエルナ! それで——」


フィンが何か言いかけたとき、ばさばさばさっ、と激しい羽音がした。


リュシアの足元にいた鳩たちが、一斉に飛び立った。肩の雀も、膝の雀も、驚いたように空へ舞い上がる。


「わーっ!」


鳩たちが飛び立った場所に、小さな男の子が両手を広げて立っていた。


七つくらいだろうか。フィンよりも一回り小さく、ぼさぼさの金髪に、鼻の頭に泥をつけている。男の子は、空へ逃げていく鳥たちを見上げて、けらけらと笑い声を上げた。


「ティル!」


フィンが、顔を真っ赤にして叫んだ。


「なにするんだよ! 今、お姉さんに鳥の乗せ方教えてもらうとこだったのに!」


「だって、いっぱいいたから」


ティルと呼ばれた男の子は、悪びれる様子もなく言った。


「いっぱいいたら、わーってやりたくなるじゃん」


「ならないよ!」


「なるもん!」


「おまえはいっつもそうだ! いっつもいっつも邪魔ばっかりして!」


フィンがティルの肩を突いた。ティルがよろけて、石畳に尻もちをつく。


一瞬、広場が静かになった。


ティルは、尻もちをついたまま、フィンを見上げていた。その顔が、くしゃりと歪んだ。


「……う」


唇が震えた。


「うわあああん!」


ティルが、大声で泣き出した。


フィンは、自分が突き飛ばしたことに驚いたように、両手を見下ろして立ち尽くしていた。エルナは井戸の陰から飛び出してきて、けれどどうしていいかわからないように、二人の間で足を止めた。


リュシアは、石段から立ち上がった。


◇


リュシアは、まず泣いているティルのそばにしゃがんだ。


手を差し出す。ティルは、泣きじゃくりながらその手を見て、それからおずおずと自分の手を重ねた。リュシアは、ティルを石畳から立たせた。ズボンの尻についた砂を、手で払ってやる。


「痛いところは、ありますか」


ティルは、ひっく、ひっくとしゃくり上げながら、首を横に振った。


「よかった」


リュシアは、次にフィンのほうを向いた。


フィンは、唇をぎゅっと結んで、こちらを睨むように見ていた。けれどその目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


「フィンさん」


リュシアは、フィンの前にもしゃがんだ。目の高さを合わせる。


「何が、あったのですか」


「……ティルが、鳥を追っ払った」


フィンは、ぶっきらぼうに言った。


「せっかく、お姉さんに教えてもらえると思ったのに。ティルは、いっつもそうなんだ。ぼくたちが何かしてると、いっつも横から邪魔してくる」


「そう、ですか」


リュシアは、頷いた。それから、ティルのほうを振り返った。


「ティルさん」


「……」


「どうして、鳥を追い払ったのですか」


ティルは、ぐずぐずと鼻をすすりながら、足元の石畳を見ていた。


「……だって」


小さな声だった。


「だって、フィンとエルナばっかり、お姉さんとしゃべってるから」


フィンが、目を瞬かせた。


「ぼくも、まぜてほしかったのに。ぼく、いっつもちっちゃいから、まぜてもらえないから」


ティルの目から、また涙がぽろぽろとこぼれた。


「だから、わーってやったら、みんなこっち見てくれると思って」


フィンは、口を開けたまま固まっていた。


エルナが、そっとティルの隣に歩いてきた。何も言わずに、ティルの手を握る。


リュシアは、三人の顔を順番に見た。


王宮では、誰もがみな、言葉を選び、声を低め、決して本当の気持ちを口にしなかった。王でさえ、そうだった。守るためだと言いながら、本当は何を思っていたのか、リュシアは一度も聞いたことがなかった。


けれどこの子たちは、違う。


邪魔ばかりする、と怒る子がいる。まぜてほしかった、と泣く子がいる。何も言わずに、ただ手を握る子がいる。


みんな、自分の気持ちを、自分の言葉で、まっすぐに差し出している。


「フィンさん」


リュシアは、フィンに向き直った。


「ティルさんは、あなたたちと一緒にいたかったのだそうです」


フィンは、唇を噛んだ。


「……そんなの、言ってくれなきゃわかんないよ」


「はい。だから、今、言ってくれました」


リュシアがそう言うと、フィンはしばらく黙っていた。それから、ちらりとティルを見た。


「……突き飛ばして、ごめん」


ぼそりと言った。


ティルは、目をぱちくりさせた。それから、ごしごしと袖で顔を拭いた。


「……ぼくも、鳥、追っ払って、ごめん」


リュシアは、ほっと息を吐いた。


それから、肩掛けの内側から、パン屋のお婆さんにもらったパンの切れ端を取り出した。


「鳥を、呼んでみますか」


三人が、一斉にリュシアを見た。


「みんなで、一緒に」


◇


リュシアは、パンを小さくちぎって、三人の手のひらに少しずつ載せた。


「手を、こうして」


リュシアは、自分の手のひらを上に向けて、胸の前に差し出してみせた。


「動かないで。大きな声も出さないで。鳥は、怖いことをしない人のところに来ます」


三人は、言われたとおりに手のひらを差し出した。フィンは真剣な顔で、エルナは少し緊張した顔で、ティルはまだ赤い目で、じっと動かずに待った。


リュシアは、空を見上げた。


来て、と心の中で呼んだ。


理由はわからない。けれど、そうすれば来てくれるような気がした。


ほどなくして、屋根の上から、茶色い影がひとつ、ふわりと舞い降りてきた。


雀だった。雀は、迷うことなくエルナの手のひらにとまり、パン屑をついばみはじめた。


エルナが、息を呑んだ。声は出さなかった。ただ、大きな目をさらに大きく見開いて、手のひらの上の小さな鳥を見つめていた。


次の一羽は、フィンの手に。その次の一羽は、ティルの手に。


「……のった」


ティルが、ささやくように言った。


「のった、のったよ、フィン」


「しーっ。動くなって、お姉さん言ってただろ」


フィンはそう言いながら、自分の手の上の雀を見て、顔をくしゃくしゃにして笑っていた。


三人の手のひらで、雀たちがパン屑をついばむ。リュシアの肩にも、いつのまにか雀が戻ってきていた。


時計塔の鐘が鳴った。


雀たちは、鐘の音に驚いて一斉に飛び立った。けれど三人の子どもたちは、もう泣いても怒ってもいなかった。空へ舞い上がる雀たちを見上げて、三人そろって歓声を上げた。


◇


その日から、子どもたちは毎日のようにリュシアを待っていた。


リュシアがおつかいで広場に来ると、どこからともなく三人が駆け寄ってくる。フィンは今日も質問をたくさん抱えていて、ティルは今日も何かいたずらを企んでいて、エルナは今日も少し離れたところから、リュシアの姿をじっと見ていた。


ある日、リュシアがハンナの荷車の前でリンゴを選んでいると、ティルが広場の向こうから大声で呼んだ。


「時計屋のお姉さーん!」


リュシアは、振り返った。


時計屋のお姉さん。


そんなふうに呼ばれたのは、初めてだった。


「なんだい、その呼び方」


ハンナが笑った。


リュシアは、エルナのほうを見た。


エルナは、フィンの背中に半分隠れるようにして立っていた。顔を少し赤くして、リュシアと目が合うと、ぱっと下を向いた。


それから、エルナはおずおずと前に出てきて、握りしめていた手をリュシアに差し出した。


小さな手のひらの上に、白い花が一輪載っていた。広場の石垣の隙間に咲いている、名前も知らない小さな花だった。


「……時計屋の、お姉さんに」


エルナは、消え入りそうな声で言った。


リュシアは、その花を受け取った。


小さくて、白くて、少しだけしおれていた。エルナがずっと握りしめていたせいだろう。


「……ありがとう、ございます」


リュシアが言うと、エルナは真っ赤な顔をして、またフィンの後ろに隠れてしまった。


◇


その日の帰り道、リュシアは何度も呼び止められた。


「時計屋のお姉さん、さよなら!」


子どもたちの声が、広場の向こうから追いかけてくる。


「リュシアちゃん、気をつけてお帰り」


ハンナが手を振る。


「ベルノーさんによろしくな」


八百屋の主人が声をかける。


路地の角で、毎朝鉢植えに水をやっている老婆が、窓から顔を出して会釈をしてくれた。黒猫が、いつもの塀の上からちらりとこちらを見た。


リュシアは、ひとりひとりに頭を下げた。


ひと月前、この町は、リュシアにとって窓の外の知らない場所だった。


今は、違う。


リュシアの名前を呼んでくれる人がいる。顔を見て、笑いかけてくれる人がいる。時計屋のお姉さん、と、自分のことを呼んでくれる子どもたちがいる。


ベルノーの工房に拾われた、どこから来たのかもわからない娘ではない。


この町に住む、ひとりの娘だ。


リュシアは、手の中の白い花を見下ろした。工房に帰ったら、小さな瓶に水を入れて、窓辺に飾ろうと思った。


路地の向こうに、工房の看板が見えてきた。古い歯車の形をした、錆びた鉄の看板。


リュシアは、少しだけ足を速めた。

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