10 時計屋のお姉さん
「これを、ハインツのところへ持っていけ」
ある朝、ベルノーがリュシアの手に紙切れを一枚押しつけた。
紙には、ベルノーの角張った字で、何かの部品の名前と寸法が書きつけてあった。
「時計の軸受けに使う、真鍮の小さな輪だ。十二個。あいつに見せりゃわかる。金は払っておいた」
「わたしが、行くのですか」
「ほかに誰がいる。わしの腰は今朝から機嫌が悪い」
ベルノーは、拳で腰をとんとんと叩いてみせた。
それが、リュシアにとって初めての「おつかい」だった。
◇
初めの頃は、うまくいかないことばかりだった。
ハインツの店の前で、どう声をかければいいのかわからず、戸口に立ったまま長いあいだ動けなかった。炉の前で金槌を振るっていたハインツが、やがて気づいて振り返り、無言でこちらを見た。リュシアは、黙って紙切れを差し出した。ハインツも黙ってそれを受け取り、黙って奥へ引っ込み、黙って小さな布包みを持って戻ってきた。
一言も言葉を交わさないまま、おつかいは終わった。
工房に戻ってそれを話すと、ベルノーは声を上げずに肩を揺らした。
「ハインツ相手なら、それで十分だ」
パン屋では、もっと苦労した。
パン屋の婆ちゃん——フェリクスがそう呼んでいた——は、とにかくよく喋る人だった。リュシアが店に入るなり、「あらまあ、あんたがベルノーさんとこの!」と叫び、それから息継ぎもせずに、亡くなった旦那さんの話、置き時計の話、フェリクスが子どもの頃にパンを盗み食いした話をまくしたてた。リュシアは相槌の打ち方もわからず、ただ「はい」「はい」と繰り返しているうちに、気づけば頼んだ数の倍のパンを抱えていた。
「おまけだよ、おまけ!あんた細いんだから、たんと食べなきゃ」
工房に戻って袋を開けると、ベルノーは呆れたように眉を上げた。
「婆さんに捕まったな」
「……はい」
「三日はパンを買わんでいい」
挨拶も、ぎこちなかった。
おはようございます、と言うべきときに、声が小さすぎて相手に届かない。こんにちは、と言おうとして、相手のほうが先に口を開いてしまい、言いそびれる。ありがとうございます、と頭を下げすぎて、相手を戸惑わせる。
けれど、毎日同じ道を歩き、同じ店に通ううちに、少しずつ変わっていった。
◇
町の人々は、リュシアの顔をすぐに覚えた。
覚えないほうが難しかったのかもしれない。
リュシアの髪は、この町の誰とも違う色をしていた。白く、けれどただの白ではなく、光の加減で真珠のように淡い色を帯びる髪。瞳は、深い海の底のような青。肌は、陽に焼けた町の人々の中で、透けるように白かった。
「あの子、どこのお嬢さんだい」
「ベルノーさんとこにいる子だよ。遠い親戚だとか」
「へえ、あの偏屈爺さんにあんな可愛い親戚がいたとはねえ」
ベルノーは、町の人に聞かれるたびに、「遠縁の娘だ」とだけ答えていた。それ以上は何も言わなかったし、町の人も、それ以上は聞かなかった。
ひと月が過ぎる頃には、広場を歩けば、あちこちから声がかかるようになった。
「リュシアちゃん、おはよう!」
ハンナが荷車の上から手を振る。
「今日も鳥を連れてるねえ」
パンの屋台の主人が、肩の雀を見て笑う。
「ベルノーさんとこの嬢ちゃん、これ、爺さんに持ってってくれ。この前の時計の礼だ」
八百屋の主人が、籠に入った人参を押しつけてくる。
リュシアは、そのひとつひとつに頭を下げた。おはようございます、ありがとうございます、と、少しずつ大きな声で言えるようになっていった。
◇
子どもたちに声をかけられたのは、そんなある日の昼下がりのことだった。
リュシアは広場の時計塔の石段に腰を下ろして、ハンナにもらったすももを食べていた。肩には雀が二羽、膝の上にも一羽。足元では鳩が三羽、リュシアのそばを離れずにうろうろと歩き回っていた。
「ねえ!」
突然、目の前に男の子が立っていた。
くしゃくしゃの茶色い髪に、そばかすの散った顔。膝に泥のついたズボンを履いて、目をきらきらと輝かせている。
「お姉さん、なんでそんなに鳥が乗ってるの?」
「……え」
「どうやったら鳥が乗るの?ぼくもやりたい! ねえ、お姉さん、鳥と話せるの?鳥の言葉わかる?この雀、名前あるの?お姉さんが飼ってるの?」
男の子は、リュシアが答える前に、次から次へと質問を浴びせてきた。
「フィン、いきなりそんなに聞いたら、お姉さん困っちゃうよ」
少し離れたところから、小さな声がした。
見ると、広場の井戸の陰に、女の子がひとり立っていた。栗色の髪を二つに編んで、色あせた水色の服を着ている。女の子は井戸の縁に手をかけたまま、こちらには近づいてこなかった。ただ、大きな目でじっとリュシアを見つめていた。
「エルナはこわがりだなあ」
フィンと呼ばれた男の子が、振り返って言った。
「こわがってないもん」
エルナは、井戸の陰から半歩だけ出てきた。それから、また半歩戻った。
リュシアは、二人の顔を交互に見た。
「……わたしは、リュシアといいます」
フィンが、ぱっと顔を明るくした。
「ぼく、フィン! 八歳! あっちはエルナ! それで——」
フィンが何か言いかけたとき、ばさばさばさっ、と激しい羽音がした。
リュシアの足元にいた鳩たちが、一斉に飛び立った。肩の雀も、膝の雀も、驚いたように空へ舞い上がる。
「わーっ!」
鳩たちが飛び立った場所に、小さな男の子が両手を広げて立っていた。
七つくらいだろうか。フィンよりも一回り小さく、ぼさぼさの金髪に、鼻の頭に泥をつけている。男の子は、空へ逃げていく鳥たちを見上げて、けらけらと笑い声を上げた。
「ティル!」
フィンが、顔を真っ赤にして叫んだ。
「なにするんだよ! 今、お姉さんに鳥の乗せ方教えてもらうとこだったのに!」
「だって、いっぱいいたから」
ティルと呼ばれた男の子は、悪びれる様子もなく言った。
「いっぱいいたら、わーってやりたくなるじゃん」
「ならないよ!」
「なるもん!」
「おまえはいっつもそうだ! いっつもいっつも邪魔ばっかりして!」
フィンがティルの肩を突いた。ティルがよろけて、石畳に尻もちをつく。
一瞬、広場が静かになった。
ティルは、尻もちをついたまま、フィンを見上げていた。その顔が、くしゃりと歪んだ。
「……う」
唇が震えた。
「うわあああん!」
ティルが、大声で泣き出した。
フィンは、自分が突き飛ばしたことに驚いたように、両手を見下ろして立ち尽くしていた。エルナは井戸の陰から飛び出してきて、けれどどうしていいかわからないように、二人の間で足を止めた。
リュシアは、石段から立ち上がった。
◇
リュシアは、まず泣いているティルのそばにしゃがんだ。
手を差し出す。ティルは、泣きじゃくりながらその手を見て、それからおずおずと自分の手を重ねた。リュシアは、ティルを石畳から立たせた。ズボンの尻についた砂を、手で払ってやる。
「痛いところは、ありますか」
ティルは、ひっく、ひっくとしゃくり上げながら、首を横に振った。
「よかった」
リュシアは、次にフィンのほうを向いた。
フィンは、唇をぎゅっと結んで、こちらを睨むように見ていた。けれどその目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「フィンさん」
リュシアは、フィンの前にもしゃがんだ。目の高さを合わせる。
「何が、あったのですか」
「……ティルが、鳥を追っ払った」
フィンは、ぶっきらぼうに言った。
「せっかく、お姉さんに教えてもらえると思ったのに。ティルは、いっつもそうなんだ。ぼくたちが何かしてると、いっつも横から邪魔してくる」
「そう、ですか」
リュシアは、頷いた。それから、ティルのほうを振り返った。
「ティルさん」
「……」
「どうして、鳥を追い払ったのですか」
ティルは、ぐずぐずと鼻をすすりながら、足元の石畳を見ていた。
「……だって」
小さな声だった。
「だって、フィンとエルナばっかり、お姉さんとしゃべってるから」
フィンが、目を瞬かせた。
「ぼくも、まぜてほしかったのに。ぼく、いっつもちっちゃいから、まぜてもらえないから」
ティルの目から、また涙がぽろぽろとこぼれた。
「だから、わーってやったら、みんなこっち見てくれると思って」
フィンは、口を開けたまま固まっていた。
エルナが、そっとティルの隣に歩いてきた。何も言わずに、ティルの手を握る。
リュシアは、三人の顔を順番に見た。
王宮では、誰もがみな、言葉を選び、声を低め、決して本当の気持ちを口にしなかった。王でさえ、そうだった。守るためだと言いながら、本当は何を思っていたのか、リュシアは一度も聞いたことがなかった。
けれどこの子たちは、違う。
邪魔ばかりする、と怒る子がいる。まぜてほしかった、と泣く子がいる。何も言わずに、ただ手を握る子がいる。
みんな、自分の気持ちを、自分の言葉で、まっすぐに差し出している。
「フィンさん」
リュシアは、フィンに向き直った。
「ティルさんは、あなたたちと一緒にいたかったのだそうです」
フィンは、唇を噛んだ。
「……そんなの、言ってくれなきゃわかんないよ」
「はい。だから、今、言ってくれました」
リュシアがそう言うと、フィンはしばらく黙っていた。それから、ちらりとティルを見た。
「……突き飛ばして、ごめん」
ぼそりと言った。
ティルは、目をぱちくりさせた。それから、ごしごしと袖で顔を拭いた。
「……ぼくも、鳥、追っ払って、ごめん」
リュシアは、ほっと息を吐いた。
それから、肩掛けの内側から、パン屋のお婆さんにもらったパンの切れ端を取り出した。
「鳥を、呼んでみますか」
三人が、一斉にリュシアを見た。
「みんなで、一緒に」
◇
リュシアは、パンを小さくちぎって、三人の手のひらに少しずつ載せた。
「手を、こうして」
リュシアは、自分の手のひらを上に向けて、胸の前に差し出してみせた。
「動かないで。大きな声も出さないで。鳥は、怖いことをしない人のところに来ます」
三人は、言われたとおりに手のひらを差し出した。フィンは真剣な顔で、エルナは少し緊張した顔で、ティルはまだ赤い目で、じっと動かずに待った。
リュシアは、空を見上げた。
来て、と心の中で呼んだ。
理由はわからない。けれど、そうすれば来てくれるような気がした。
ほどなくして、屋根の上から、茶色い影がひとつ、ふわりと舞い降りてきた。
雀だった。雀は、迷うことなくエルナの手のひらにとまり、パン屑をついばみはじめた。
エルナが、息を呑んだ。声は出さなかった。ただ、大きな目をさらに大きく見開いて、手のひらの上の小さな鳥を見つめていた。
次の一羽は、フィンの手に。その次の一羽は、ティルの手に。
「……のった」
ティルが、ささやくように言った。
「のった、のったよ、フィン」
「しーっ。動くなって、お姉さん言ってただろ」
フィンはそう言いながら、自分の手の上の雀を見て、顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
三人の手のひらで、雀たちがパン屑をついばむ。リュシアの肩にも、いつのまにか雀が戻ってきていた。
時計塔の鐘が鳴った。
雀たちは、鐘の音に驚いて一斉に飛び立った。けれど三人の子どもたちは、もう泣いても怒ってもいなかった。空へ舞い上がる雀たちを見上げて、三人そろって歓声を上げた。
◇
その日から、子どもたちは毎日のようにリュシアを待っていた。
リュシアがおつかいで広場に来ると、どこからともなく三人が駆け寄ってくる。フィンは今日も質問をたくさん抱えていて、ティルは今日も何かいたずらを企んでいて、エルナは今日も少し離れたところから、リュシアの姿をじっと見ていた。
ある日、リュシアがハンナの荷車の前でリンゴを選んでいると、ティルが広場の向こうから大声で呼んだ。
「時計屋のお姉さーん!」
リュシアは、振り返った。
時計屋のお姉さん。
そんなふうに呼ばれたのは、初めてだった。
「なんだい、その呼び方」
ハンナが笑った。
リュシアは、エルナのほうを見た。
エルナは、フィンの背中に半分隠れるようにして立っていた。顔を少し赤くして、リュシアと目が合うと、ぱっと下を向いた。
それから、エルナはおずおずと前に出てきて、握りしめていた手をリュシアに差し出した。
小さな手のひらの上に、白い花が一輪載っていた。広場の石垣の隙間に咲いている、名前も知らない小さな花だった。
「……時計屋の、お姉さんに」
エルナは、消え入りそうな声で言った。
リュシアは、その花を受け取った。
小さくて、白くて、少しだけしおれていた。エルナがずっと握りしめていたせいだろう。
「……ありがとう、ございます」
リュシアが言うと、エルナは真っ赤な顔をして、またフィンの後ろに隠れてしまった。
◇
その日の帰り道、リュシアは何度も呼び止められた。
「時計屋のお姉さん、さよなら!」
子どもたちの声が、広場の向こうから追いかけてくる。
「リュシアちゃん、気をつけてお帰り」
ハンナが手を振る。
「ベルノーさんによろしくな」
八百屋の主人が声をかける。
路地の角で、毎朝鉢植えに水をやっている老婆が、窓から顔を出して会釈をしてくれた。黒猫が、いつもの塀の上からちらりとこちらを見た。
リュシアは、ひとりひとりに頭を下げた。
ひと月前、この町は、リュシアにとって窓の外の知らない場所だった。
今は、違う。
リュシアの名前を呼んでくれる人がいる。顔を見て、笑いかけてくれる人がいる。時計屋のお姉さん、と、自分のことを呼んでくれる子どもたちがいる。
ベルノーの工房に拾われた、どこから来たのかもわからない娘ではない。
この町に住む、ひとりの娘だ。
リュシアは、手の中の白い花を見下ろした。工房に帰ったら、小さな瓶に水を入れて、窓辺に飾ろうと思った。
路地の向こうに、工房の看板が見えてきた。古い歯車の形をした、錆びた鉄の看板。
リュシアは、少しだけ足を速めた。




