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【平日18時更新】リュシアと時計塔 〜王の鳥は自由を求めて王宮を逃げ出す〜  作者: Tania Riko


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11/12

11 祭りの灯

秋祭りの日は、朝から町じゅうがそわそわしていた。


工房の窓から見える路地にも、家々の軒先に色とりどりの布が吊るされていた。赤、黄、緑、青。それが風に揺れるたびに、細い路地がまるで花畑のように見えた。どこかで誰かが笛の練習をしている。調子外れの音が、何度も同じところでつまずいては、また最初からやり直していた。


「祭りなんぞ、うるさいだけだ」


ベルノーは、作業台の前で背中を丸めたまま言った。


「ベルノーさんは、行かないのですか」


「行かん。人ごみは腰に悪い」


そう言いながら、ベルノーは引き出しから小さな布袋を取り出し、リュシアの前に置いた。


「祭りの日の分だ」


「でも、今日はまだ何も——」


「前払いだ。明日の木箱の分」


リュシアは、布袋を見つめた。それから、ベルノーの丸い背中を見た。


「……ありがとう、ございます」


「礼はいらん。それより、日が暮れても帰ってこんでいい。今日だけはな」


ベルノーは、振り返らずにそう言った。


◇


昼過ぎ、ハンナが工房にやってきた。


「リュシアちゃん、いるかい!」


ハンナは、両腕に何かを抱えていた。作業場に入ってくるなり、それをリュシアの前に広げてみせる。


青い服だった。


深い青に染めた木綿の服で、袖口と裾に、白い糸で小さな花の刺繍が施されている。少し古びてはいたが、丁寧に洗って、しわひとつなく畳まれていた。


「娘が若い頃に着てたやつでね。もう嫁に行っちまって、着る人もいないからさ。祭りの日くらい、おしゃれしなきゃ」


「……わたしに、ですか」


「あんたのその目の色に、ぴったりだと思ったんだよ」


ハンナは、服をリュシアの肩に当ててみせた。それから、満足そうに頷いた。


「やっぱり。よく似合う」


ハンナは、ポケットから細い青いリボンも取り出した。


「髪もね、結ってあげる。ほら、座って座って」


リュシアが椅子に座ると、ハンナはリュシアの髪を手櫛で梳きはじめた。大きな手が、意外なほど優しく、リュシアの髪をすくい、編み、まとめていく。


「きれいな髪だねえ。真珠みたいだ」


ハンナの何気ない言葉に、リュシアの肩がかすかに強張った。


けれどハンナは気づかずに、髪をまとめた最後に、青いリボンを結んだ。


「はい、できた!」


作業場の隅に、ベルノーが修理のときに使う古い手鏡があった。リュシアは、それを手に取って覗き込んだ。


鏡の中に、青い服を着て、髪に青いリボンを結んだ少女がいた。


王宮の姿見に映っていた自分とは、まるで違う顔をしていた。


背中に翼はない。籠の格子も映っていない。頬が、ほんの少し赤い。


「……ありがとうございます、ハンナさん」


「いいってことさ。ほら、フェリクスが見たら腰抜かすよ」


ハンナは豪快に笑った。


作業台の前で、ベルノーが一度だけこちらを振り返った。拡大鏡越しに、リュシアの姿をちらりと見る。


「……ふん」


それだけ言って、また背中を向けた。けれど、リュシアには、その「ふん」がいつもより少しだけ柔らかく聞こえた。


◇


日が傾く頃、広場は人で埋め尽くされていた。


広場の四方から四方へ、何本もの縄が張り渡され、そこに無数の灯籠が吊るされていた。紙を貼った灯籠の中で、蝋燭の火が揺れている。橙色、赤色、黄色。夕闇が濃くなるにつれて、灯籠の光は少しずつ明るさを増していき、やがて広場全体が、柔らかな光の天幕に覆われたようになった。


屋台が、ずらりと並んでいた。焼き栗の香ばしい匂い。蜂蜜をたっぷり染みこませた焼き菓子の甘い匂い。炭火で炙った腸詰めの匂い。酒樽から立ちのぼる葡萄の匂い。


広場の真ん中、時計塔の前では、楽士たちが輪になって演奏していた。胡弓の弦が高く鳴り、太鼓が腹の底を打ち、笛が軽やかに跳ねる。昼間に路地で聞いた調子外れの笛は、きっとあの中の誰かだったのだろう。今はもう、一度もつまずかずに吹いていた。


「時計屋のお姉さん!」


人ごみの向こうから、フィンが駆けてきた。その後ろに、ティルとエルナ。三人とも、よそゆきの服を着て、頬を紅潮させていた。


「すっげえ、お姉さん、きれい!」


フィンが、目を丸くして叫んだ。


「お姫様みたい!」


ティルが、ぴょんぴょん跳ねながら言った。


エルナは何も言わなかった。ただ、リュシアの青い服の袖を、そっと指先でつまんだ。


「ほらほら、あんたたち、お姉さん困らせるんじゃないよ」


ハンナが後ろからやってきて、子どもたちの頭をくしゃくしゃと撫でた。


そして、そのハンナの後ろから、背の高い影が現れた。


「おーい、ハンナさん、置いてかないでって——」


フェリクスだった。


いつもの作業着ではなく、生成りのシャツに焦げ茶の上着を羽織っている。跳ねていた栗色の髪は、今日は水で撫でつけたのか、いつもより少しだけおとなしかった。


フェリクスは、リュシアの姿を見て、足を止めた。


口が、半開きのまま固まった。


「……」


「ほら、言っただろ。腰抜かすって」


ハンナが、肘でフェリクスの脇腹を突いた。


「い、いや、別に腰は抜かしてないけど」


フェリクスは、慌てたように頭をかいた。撫でつけた髪が、また一本跳ねた。


「その……似合ってる。すごく」


「……ありがとう、ございます」


リュシアは、うつむいた。自分の頬が熱くなるのがわかった。


ティルが、二人の顔を交互に見て、にやにやと笑った。


「フェリクス兄ちゃん、顔まっか」


「うるさい」


◇


祭りの夜は、目まぐるしかった。


子どもたちに手を引かれて、屋台から屋台へと渡り歩いた。フィンは焼き栗を両手いっぱいに抱え、ティルは蜂蜜菓子で口の周りをべたべたにし、エルナは輪投げの屋台で小さな木彫りの鳥を当てて、それを大事そうに胸に抱えていた。


ハンナは、知り合いを見つけるたびに立ち止まって話し込み、そのたびに子どもたちに袖を引っ張られていた。


フェリクスは、ずっとリュシアの少し後ろを歩いていた。


リュシアが屋台の前で足を止めると、フェリクスも止まる。リュシアが何かを見つめていると、フェリクスはその視線の先を一緒に見る。けれど、「あれ、欲しい?」とも、「楽しい?」とも聞かなかった。


リュシアが灯籠の屋台の前で立ち止まったときも、そうだった。


屋台には、色とりどりの小さな灯籠が並んでいた。鳥の形をしたもの、花の形をしたもの、星の形をしたもの。リュシアは、その中のひとつに目を奪われていた。白い紙で作られた、翼を広げた鳥の形の灯籠。中の蝋燭の光が、紙の翼を透かして、淡く光っていた。


リュシアは、長いあいだそれを見つめていた。


フェリクスは、隣で黙って待っていた。


やがてリュシアは、布袋から銅貨を出して、その灯籠を買った。


フェリクスは何も言わなかった。ただ、リュシアが灯籠を手に振り返ると、「きれいだな」とだけ言って、笑った。


◇


時計塔の前で、踊りの輪ができていた。


楽士たちの演奏に合わせて、町の人々が手をつなぎ、大きな輪になって回っている。若者も、老人も、子どもも。足を踏み鳴らし、手を叩き、笑い声を上げながら。


「リュシアちゃん、おいで!」


輪の中から、ハンナが手を伸ばしてきた。


「え、あの、わたし、踊りなんて——」


「いいからいいから! 足を動かしてりゃ、そのうちなんとかなる!」


ハンナの大きな手が、リュシアの手をつかんだ。もう片方の手は、エルナが握った。リュシアは、灯籠をフェリクスに預ける間もなく、輪の中に引き込まれていた。


右へ、左へ。前へ、後ろへ。


最初は、足がもつれた。隣の人の足を踏みそうになり、輪の流れから遅れそうになった。けれどハンナの手とエルナの手が、リュシアをしっかりとつないでいてくれた。周りの人々の足音と、太鼓の拍子と、笑い声が、リュシアの身体を自然に運んでいった。


気づけば、リュシアは笑っていた。


息が切れて、頬が熱くて、髪のリボンがほどけかけていた。それでも、笑っていた。


輪の中で回りながら、リュシアはふと、周りを見渡した。


灯籠の光。楽士たちの音楽。手をつないだ人々の顔。ハンナ。エルナ。フィンとティルは、輪の向こう側で、互いの足を踏み合いながらはしゃいでいる。


そして、輪の外で、リュシアの灯籠を両手で大事そうに持ったフェリクスが、こちらを見て笑っていた。


自分は、この輪の中にいる。


王の肩の上から、居並ぶ人々を見下ろしていた頃とは違う。黄金の格子の内側から、遠い窓の外を眺めていた頃とも違う。


手をつないで、同じ音楽を聴いて、同じ方向へ回っている。


人の輪の、中にいる。


◇


踊りの輪が解けた頃、広場の向こうから大きな歓声が上がった。


松明を掲げた行列が、広場に入ってきたのだ。火を操る大道芸人たちが、松明をくるくると回し、口から炎を吹き上げる。人々がどっとそちらへ押し寄せた。


リュシアは、人の波に押された。


ハンナの姿が見えなくなった。子どもたちの声も聞こえなくなった。右からも左からも人が押してきて、足が地面から浮きそうになる。どちらへ行けばいいのかわからない。灯籠の光が、ぐるぐると回って見えた。


リュシアは、思わず手を伸ばした。


何かをつかもうとして。誰かを探して。


その手を、誰かがつかんだ。


大きな手だった。温かくて、少しだけ硬い、仕事で鍛えられた手。


「リュシア!」


フェリクスだった。


フェリクスもまた、手を伸ばしていたのだ。人ごみの中で、リュシアを見失わないように。


二人の手が、しっかりと結ばれた。


「こっち!」


フェリクスは、もう片方の手でリュシアの灯籠を高く掲げ、人の波を肩でかき分けながら、リュシアを引っ張っていった。リュシアは、その大きな背中を見失わないように、必死でついていった。


やがて、人ごみが途切れた。


時計塔の裏手の、石段のあたりだった。広場の喧騒が、少しだけ遠くなる。灯籠の光が届く、静かな一角。


フェリクスが、立ち止まった。


リュシアも、立ち止まった。


二人とも、息を切らしていた。


手は、まだつながったままだった。


もう、人ごみはない。手を離しても、はぐれることはない。それなのに、フェリクスは手を離さなかった。リュシアも、離さなかった。


フェリクスが、ゆっくりと振り返った。


目が合った。


灯籠の光が、フェリクスの琥珀色の瞳に映っていた。


フェリクスの顔が、みるみる赤くなった。リュシアも、自分の頬が熱くなるのがわかった。けれど、どちらも目を逸らさなかった。どちらも、手を離さなかった。


「……あの」


フェリクスが、何か言いかけた。


けれど、言葉はそこで途切れた。フェリクスは、ごまかすように咳払いをして、空いているほうの手で頭をかいた。


「……座ろっか」


「……はい」


二人は、時計塔の石段に並んで腰を下ろした。


手は、まだつながったままだった。


◇


石段の上から、広場の灯籠が一望できた。


無数の光が、夜の中で揺れていた。人々の笑い声と、楽士たちの音楽が、遠い潮騒のように聞こえてくる。


「ここ、覚えてる?」


フェリクスが言った。


「俺が、ガキの頃、迷子になって泣いてた場所」


「……はい」


「まさか、また祭りの夜にここに座るとは思わなかったな」


フェリクスは、笑った。それから、首を反らせて、頭上の時計塔を見上げた。


古い文字盤が、灯籠の光にぼんやりと照らされていた。針は、今夜もやはり少し遅れているようだった。


「なあ、リュシア」


「はい」


「俺さ、夢があるんだ」


フェリクスは、時計塔を見上げたまま言った。


「いつか、この町に、ちゃんとした時計塔を建てたい」


リュシアは、フェリクスの横顔を見た。


「こいつも好きなんだけどさ。古いし、よく止まるし、町の端のほうからじゃ見えないし。鐘の音も、風向きによっちゃ半分の家にしか届かない」


フェリクスは、空いているほうの手で、空に大きく何かの形を描いた。


「もっと高くて、町のどこからでも文字盤が見えて、鐘の音がどの家にも届くやつ。止まらなくて、遅れなくて、何十年も、何百年も、ずっと正しい時間を刻み続けるやつ」


フェリクスの琥珀色の瞳が、灯籠の光を受けてきらきらと輝いていた。


「それでさ、それは、誰のものでもないんだ。王様のものでも、領主のものでも、金持ちの商人のものでもない。町のみんなのもの。パン屋の婆ちゃんも、ハンナさんも、ハインツさんも、フィンたちも。みんなが同じ時計を見上げて、同じ鐘の音を聞いて、同じ時間を生きる」


リュシアは、息を止めていた。


王宮の時計機構を思い出した。壁一面の歯車。硝子の室の中の羽根。誰にも見せず、誰にも聞かせず、ただひとりの王のためだけに時を刻み、その王の時を止めていた時計。


フェリクスが語っているのは、その正反対のものだった。


「……すてきな、夢です」


リュシアは、心からそう言った。


フェリクスは、照れくさそうに笑った。


「まだ、ただの夢だけどな。爺さんに話したら、『百年早い』って言われた」


「でも、フェリクスさんなら」


リュシアは、つないだ手に、少しだけ力をこめた。


「きっと、建てられると思います」


フェリクスは、リュシアを見た。


それから、何も言わずに、つないだ手を、ほんの少しだけ強く握り返した。


◇


「あーっ! いたーっ!」


石段の下から、ティルの声がした。


リュシアとフェリクスは、弾かれたように手を離した。


「時計屋のお姉さん、どこ行ってたの! ずっと探してたんだよ!」


ティルが、石段を駆け上がってくる。その後ろから、フィンとエルナ、そして息を切らしたハンナが続いた。


「まったく、あんたたち、はぐれたかと思って肝が冷えたよ」


「ご、ごめん、ハンナさん。人ごみがすごくて」


フェリクスが、慌てて立ち上がった。


エルナが、リュシアのそばにやってきた。それから、フェリクスの顔と、リュシアの顔と、二人の手を、順番にじっと見た。


何も言わなかった。


けれどエルナは、ほんの少しだけ、口元をほころばせた。


◇


祭りが終わり、灯籠の火がひとつずつ消えていく頃、リュシアはフェリクスに送られて工房に戻った。


路地の入り口で、フェリクスが立ち止まった。


「じゃあ、また」


「はい」


フェリクスは、リュシアに預かっていた灯籠を返した。白い紙の鳥の灯籠。中の蝋燭は、もう半分ほどに短くなっていた。


「今日、楽しかったな」


「……はい」


フェリクスは、何か言いたそうに口を開きかけて、また閉じた。それから、片手を上げて、路地を引き返していった。


リュシアは、その背中を見送った。


手のひらに、まだフェリクスの手の温かさが残っていた。


また、この人と一緒に出かけたい。


祭りでなくてもいい。灯籠がなくてもいい。ただ、広場まで歩いて、パンを食べて、時計塔の鐘を聞くだけでもいい。


この人と、一緒に。


リュシアは、白い鳥の灯籠を胸に抱いて、工房の扉を開けた。


作業場の奥で、ベルノーが作業台に突っ伏して、いびきをかいて眠っていた。帰ってこなくていいと言ったのに、その手元のランプには、まだ火が灯っていた。

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