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【平日18時更新】リュシアと時計塔 〜王の鳥は自由を求めて王宮を逃げ出す〜  作者: Tania Riko


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12/12

12 また明日

朝の時計たちの合唱が終わっても、扉の鈴は鳴らなかった。


リュシアは、台所で粥の椀を前にして、ちらりと表の部屋のほうを見た。


いつもなら、そろそろだった。カラン、と鈴が鳴り、「爺さーん」と声がして、ごん、と鈍い音がして、「いってえ」と聞こえて、「学習しろ」とベルノーが言う。それが、この工房の朝の続きだった。


けれど今朝は、静かだった。


「フェリクスなら来んぞ」


竈の前で、ベルノーが言った。


リュシアは、慌てて粥の椀に目を戻した。


「……そう、ですか」


「商人組合の会館の大時計を任されたそうだ。冬の市までに全部ばらして組み直せとな。あいつにしちゃ大仕事だ」


ベルノーは、鍋をかき混ぜながら続けた。


「しばらくは自分の店に籠もりきりだろう。飯もろくに食っとらんはずだ」


「……大丈夫、でしょうか」


「知らん。若いうちは三日くらい寝んでも死にはせん」


ベルノーはそっけなく言った。けれど、その目は少しだけ窓の外のほうを向いていた。


リュシアは、粥に蜂蜜を垂らした。金色の筋が、白い粥の上に広がっていく。


いつもと同じ朝のはずだった。それなのに、粥の味が、なぜかいつもより少しだけ薄く感じられた。


◇


午前中は、木箱の部品を分けて過ごした。


かちり、かちり、と部品が皿に落ちる音。いつもの音だった。窓辺に雀が来て、ちゅんと鳴いて、また飛んでいった。


カラン、と扉の鈴が鳴った。


リュシアは、顔を上げた。


「ベルノーさん、いるかね。この懐中時計、また遅れちまってさ」


入ってきたのは、近所の宿屋の主人だった。


リュシアは、手元の部品に目を戻した。


何を期待していたのだろう、と思った。ベルノーが来ないと言ったのだ。来るはずがない。


それなのに、それから昼までのあいだに、扉の鈴が鳴るたびに、リュシアは顔を上げた。鈴が鳴るたびに、そこにいるのは別の誰かだった。


四度目に顔を上げたとき、奥の作業台で、ベルノーが小さく咳払いをした。


リュシアは、何も言わずにうつむいた。


しばらくして、ベルノーが、手元の時計から目を上げずに言った。


「あいつはな、昔からああだ」


「……え?」


「仕事に入ると、周りが見えなくなる。見習いの頃もそうだった。初めて任された懐中時計を、三日三晩寝ずにいじり倒してな。四日目の朝、作業台に突っ伏して寝とった。時計は直っとった」


ベルノーは、ピンセットの先で小さな歯車をつまみ上げた。


「直すまで帰ってこん。そういう奴だ。だが、直したら、必ず帰ってくる」


リュシアは、ベルノーの丸い背中を見つめた。


それが慰めの言葉なのだと気づくまでに、少しだけ時間がかかった。


◇


昼過ぎ、リュシアはおつかいで広場に出た。


「時計屋のお姉さーん!」


広場に入るなり、ティルが駆け寄ってきた。その後ろから、フィンとエルナ。


「ねえ、フェリクス兄ちゃんは?」


ティルが、きょろきょろとリュシアの後ろを見回した。


「今日は、一緒じゃないの?」


「……フェリクスさんは、お仕事で忙しいそうです」


「えー、つまんない」


ティルは唇を尖らせた。


「フェリクス兄ちゃん、こないだ肩車してくれるって約束したのに」


「おまえ、いっつもそればっかりだな」


フィンが呆れたように言った。


エルナは何も言わずに、リュシアの顔をじっと見上げていた。リュシアが目を合わせると、エルナは小首を傾げた。


大丈夫?と、聞かれているような気がした。


リュシアは、エルナに小さく笑いかけた。


ハンナの荷車の前を通ると、ハンナがにやりと笑った。


「おや、今日はひとりかい。フェリクスは?」


「……お仕事、です」


「ははあ。それで、そんな顔してるわけだ」


「そんな、顔……?」


リュシアは、思わず自分の頬に手を当てた。


ハンナは、声を上げて笑った。それから、荷台からリンゴをひとつ取って、リュシアの手に押しつけた。


「ほら、これ持って帰って、ベルノーさんと半分こしな。……ああいや、違うね」


ハンナは、もうひとつリンゴを取った。


「こっちは、忙しい誰かさんにでも」


◇


帰り道、リュシアは少しだけ遠回りをした。


フェリクスの店は、工房から路地を二つ隔てた通りにあった。ベルノーの工房よりも少し小さく、少し新しい。軒先には、フェリクスが自分で作ったという、小さな振り子時計の形をした看板が下がっていた。


店の前を通りかかったとき、リュシアは足を緩めた。


窓から、店の中が見えた。


作業台の上に、見たこともないほど大きな時計の部品が広げられていた。歯車、軸、振り子、文字盤。その真ん中で、フェリクスが背中を丸めて、拡大鏡を覗き込んでいた。


髪は、いつも以上に跳ねていた。紐でくくった後ろ髪が、半分ほどほどけている。シャツの袖をまくった腕に、黒い油の筋が何本もついていた。


フェリクスは、ピンセットで小さな部品をつまみ、軸に差し込もうとしては、首を振って取り出し、また差し込もうとしていた。唇が、何かをぶつぶつとつぶやいている。


リュシアは、窓の外で立ち止まった。


声をかけようか、と思った。


けれど、その背中を見ていると、声をかけてはいけないような気がした。フェリクスは今、自分の仕事に向き合っている。リュシアが部品の仕分けに没頭していたとき、ベルノーが黙って背中を向けていてくれたように。


リュシアは、窓から離れた。


一歩、二歩と歩いてから、もう一度だけ振り返った。窓の向こうで、フェリクスが大きく伸びをして、首をぐるりと回していた。こちらには気づかなかった。


それでいい、とリュシアは思った。


手の中のリンゴを、そっと握りしめた。


◇


工房に戻ってからも、リュシアは落ち着かなかった。


部品の仕分けをしていても、ふとした拍子に手が止まる。


ねじを皿に落とす音が、フェリクスの笑い声に似ていた。窓の外を通り過ぎた若い男の栗色の髪に、思わず目を奪われた。作業場の梁を見上げると、フェリクスがそこに頭をぶつける姿が浮かんだ。


——笑ったな。


——今の、いい顔してたからさ。


——いいよ、いいよ。無理しなくて。


——いつか、この町に、ちゃんとした時計塔を建てたい。


フェリクスの声が、次から次へと頭の中に浮かんできた。


リュシアは、手を止めて、窓の外を見た。


これは、何なのだろう。


王宮にいた頃、王が公務で部屋を空けることはよくあった。何日も帰ってこないこともあった。けれどリュシアは、そのあいだ、何も感じなかった。王がいない部屋は、ただ広くて、静かで、何もなかった。それだけだった。


王が帰ってきても、何も感じなかった。王がいなくても、何も感じなかった。


けれど今は、違う。


たった一日、フェリクスの顔を見ていないだけで、胸の中に何かがぽっかりと空いたような気がする。扉の鈴が鳴るたびに顔を上げてしまう。窓の外の栗色の髪に、目を奪われてしまう。


これは。


リュシアは、胸に手を当てた。


寂しい、ということなのだろうか。


その言葉を、リュシアは知っていた。けれど、それを自分の胸の中に感じたのは、初めてだった。


寂しい。


フェリクスに、会いたい。


あの笑顔を見たい。あの声を聞きたい。梁に頭をぶつけて「いってえ」と言うのを、ベルノーが「学習しろ」と返すのを、聞きたい。


明日も、明後日も、その次の日も。


リュシアは、自分がいつのまにか、フェリクスと過ごす時間を待ち望むようになっていたことに、初めて気づいた。


◇


夕方、リュシアはベルノーの隣で夕食の支度をした。


白い柄のナイフで、じゃがいもと人参の皮を剥く。玉ねぎを刻む。ベルノーが鍋に肉の切れ端と骨を入れて、ことことと煮込む。


リュシアは、ふと手を止めた。


「ベルノーさん」


「なんだ」


「スープ、少し多めに作ってもいいですか」


ベルノーは、横目でリュシアを見た。それから、何も言わずに、鍋に水を足した。じゃがいもを、もう二つ。人参を、もう一本。


スープが煮えると、リュシアは小さな鍋に一人分を取り分け、蓋をして、布で包んだ。パンを二切れ。それから、ハンナにもらったリンゴ。


包みを抱えたリュシアが工房の扉に手をかけたときだった。


カラン、と、外から鈴が鳴った。


扉が開いた。


ごん、と鈍い音がした。


「いってえ……」


額を押さえて身をかがめた、背の高い影。


フェリクスだった。


◇


フェリクスは、ひどい顔をしていた。


目の下に、くっきりと隈ができていた。頬はこけ、跳ねた髪はぼさぼさで、シャツには油の染みがいくつもついていた。


「あ、リュシア」


フェリクスは、扉の前に立っているリュシアに気づいて、目を瞬かせた。


「どっか行くとこだった?」


「……いえ」


リュシアは、胸に抱えた包みを、少しだけ後ろに隠した。


「爺さん、いる?組合の大時計の脱進機、どうしても噛み合わなくてさ。爺さんの細いやすり、借りたくて」


「奥にある」


作業場から、ベルノーの声がした。


「それから、学習しろ」


「わかってるって……」


フェリクスは、額をさすりながら作業場に入っていった。リュシアは、その背中を見ていた。


フェリクスは、ベルノーとしばらく何かを話し込んでいた。脱進機がどうとか、爪の角度がどうとか。リュシアにはほとんどわからない言葉だった。けれどその声を聞いているだけで、胸の中の空いた場所が、少しずつ埋まっていくような気がした。


やがて、フェリクスが細いやすりを手に作業場から出てきた。


「じゃ、借りてく。明日返す」


「なくすなよ」


「なくさないって」


フェリクスが扉に向かう。リュシアの前を通り過ぎようとする。


「フェリクスさん」


リュシアは、思わず呼び止めていた。


フェリクスが振り返った。


リュシアは、後ろに隠していた包みを、両手で差し出した。


「……これ」


「え?」


「スープと、パンと、リンゴ、です。ベルノーさんが、フェリクスさんは、ご飯をちゃんと食べていないだろうって」


作業場の奥で、ベルノーがわざとらしく咳払いをした。


フェリクスは、包みを見下ろした。それから、リュシアの顔を見た。


フェリクスの疲れた顔に、ゆっくりと笑みが広がった。


「……ありがと」


フェリクスは、包みを両手で受け取った。まるで、壊れやすいものを扱うように、そっと。


「助かる。ほんとに。昨日から、パン一切れしか食ってなくてさ」


「……一日で、終わりそうですか」


「いや、全然」


フェリクスは苦笑した。


「まだ半分も終わってない。しばらくは、こんな感じかな」


リュシアは、うつむいた。


「そう、ですか」


フェリクスは、しばらく黙ってリュシアを見ていた。


それから、ふと、言った。


「でもさ」


リュシアは、顔を上げた。


「明日も、やすり返しに来るよ。それに、このスープの鍋も返さなきゃだし」


フェリクスは、包みを少しだけ持ち上げてみせた。


「だから、明日もここに来る」


リュシアは、フェリクスの顔を見つめた。


疲れた顔だった。隈ができていて、髪がぼさぼさで、油まみれだった。けれど、その琥珀色の瞳は、いつもと同じように温かかった。


「……はい」


リュシアは、頷いた。


フェリクスは扉を開けた。夜の冷たい空気が、工房の中に流れ込んでくる。


フェリクスは、戸口で振り返った。


「じゃあ、また明日」


その言葉が、リュシアの胸に落ちた。


また明日。


特別な約束ではなかった。祭りの夜のような、灯籠の光も、つないだ手もない。ただ、明日もここに来る、という、それだけの言葉。


けれどリュシアにとって、それはどんな約束よりも確かなものに思えた。


「……また、明日」


リュシアは、小さな声で言った。


フェリクスは笑って、片手を上げて、夜の路地へ消えていった。


◇


その夜、リュシアは物置部屋の寝台に横になって、天井の梁を見上げていた。


窓辺には、祭りの夜に買った白い鳥の灯籠と、エルナにもらった白い花を挿した小瓶が並んでいた。花は、もうすっかり乾いて、色が褪せていた。それでもリュシアは、捨てられずにいた。


また明日。


リュシアは、その言葉を、口の中でもう一度転がした。


王宮にいた頃、明日はいつも今日と同じだった。


目を覚まし、王に名前を呼ばれ、肩にとまり、羽根を抜かれ、抱きしめられ、眠る。昨日も、今日も、明日も、百年前も、百年後も、同じ。終わることのない、止まった時間。明日という言葉に、何の意味もなかった。


けれど、今は違う。


明日は、今日とは違う日だ。


明日、フェリクスがやすりを返しに来る。スープの鍋を返しに来る。梁に頭をぶつけて、ベルノーに「学習しろ」と言われる。


明日の先には、明後日がある。明後日の先には、その次の日がある。そのひとつひとつが、違う日で、違う時間で、そしてそのどれもが、来ると信じられる日だった。


また明日。


それは、先の時間があると信じられる言葉だった。


工房の時計たちが、ばらばらの拍子で時を刻んでいた。


チク、タク。コチコチ。コトン、コトン。


明日へ向かって、ひとつずつ。


リュシアは、目を閉じた。

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