8 私の選んだもの
枕の下の布袋は、少しずつ重くなっていった。
リュシアは毎日、木箱の部品を分け、夕方にはベルノーの隣でじゃがいもや玉ねぎの皮を剥いた。三日目には、ついに木箱の底が見えた。ベルノーは空になった木箱を覗き込み、「ふん」と言った。それから、作業台の引き出しの奥から、また別の木箱を引っ張り出してきた。
「こっちは二十年分だ」
リュシアは、思わず笑ってしまった。笑ったことに自分で驚いて、それからまた、少しだけ笑った。
ベルノーは毎晩、台所の戸口で「手を出せ」と言い、リュシアの手のひらに銅貨を何枚か落としていった。リュシアはそれを、枕の下の布袋に一枚ずつ足していった。
◇
その日、リュシアは布袋を肩掛けの内側に結びつけて、工房を出た。
隣には、フェリクスがいた。
「で、今日はどこ行きたい?」
路地を歩きながら、フェリクスが聞いた。
「……まだ、決めていません」
「決めてないのか」
「はい。でも」
リュシアは、肩掛けの上から、布袋のあるあたりにそっと手を当てた。
「これで、何か、買ってみたいのです」
フェリクスは、ちらりとリュシアの手元を見た。それから、何も言わずに頷いた。
「じゃあ、まずは市場だな」
◇
広場は、今日も賑わっていた。
リュシアが一歩足を踏み入れると、どこからともなく雀たちが飛んできた。肩に二羽、頭に一羽。フェリクスはもう慣れたもので、「よう」と雀たちに挨拶をした。雀たちは、フェリクスにはまったく見向きもしなかった。
ハンナの荷車は、今日も広場の東の端に停まっていた。
「あら、リュシアちゃん!」
ハンナは、リュシアを見つけるなり大きく手を振った。この数日で、ハンナはすっかりリュシアの名前を覚えてくれていた。
「今日もいいリンゴが入ってるよ。ほら、見てごらん」
荷台には、赤いリンゴが山と積まれていた。その横には、黄色い梨と、紫色のすももと、小さな橙色の果実が籠に盛られている。
「フェリクス、あんた、たまにはこの子に何か買ってあげなよ。いっつも連れ回すばっかりで」
「連れ回してないって。案内してんの」
「同じことさね」
ハンナは笑いながら、荷台からリンゴをひとつ取った。
「ほら、これなんかどうだい。今朝もいだばっかりだよ」
フェリクスは、やれやれというように肩をすくめた。それから、腰の巾着から銅貨を一枚取り出して、ハンナに渡した。
「じゃあ、それひとつ」
「毎度!」
ハンナは銅貨を前掛けのポケットにしまうと、腰に下げていた小さなナイフを抜いた。
柄が擦り切れて、刃もずいぶん細くなった、古いナイフだった。ハンナはリンゴを左手に持ち、右手のナイフの刃を当てると、くるくると回しはじめた。
リュシアは、その手元から目が離せなかった。
赤い皮が、一本の細いリボンのように、途切れることなく垂れ下がっていく。リンゴを回す左手と、ナイフを支える右手が、まるで一緒に踊っているようだった。リュシアがじゃがいもを剥くときの、ぎこちない動きとはまるで違う。
最後まで剥き終えると、ハンナはリンゴを四つに割り、芯を器用にくり抜いて、ひと切れをリュシアの手に、ひと切れをフェリクスの手に載せた。
「はい、どうぞ」
「……すごい、です」
リュシアは、手の上のリンゴと、ハンナのナイフを交互に見た。
「皮、一度も切れませんでした」
「あはは、何十年やってると思ってんだい」
ハンナは得意げに胸を張り、ナイフを腰の鞘に戻した。
「このナイフもね、嫁に来たときに母さんがくれたもんでさ。もうずいぶん研いで細くなっちまったけど、手に馴染んでるから手放せないんだよ」
リュシアは、リンゴをひと口かじった。
甘かった。しゃく、と歯が沈み、冷たい果汁が口いっぱいに広がる。最初にもらったリンゴより、さらに甘く感じられた。
◇
広場の北の角に、鍛冶屋があった。
黒く煤けた石壁の店で、開け放たれた戸口から、カン、カン、と金槌の音が響いてくる。店先には木の台が置かれ、その上に、鍋や鍬や鋏や、大小さまざまな刃物が並べられていた。
リュシアは、その台の前で足を止めた。
台の端に、ナイフが何本か並んでいた。
大きなもの。小さなもの。刃が反ったもの。まっすぐなもの。どれも鈍い銀色に光り、刃先は見るからに鋭い。
その中に、一本だけ、ほかのものとは違う小ぶりなナイフがあった。
刃渡りは、リュシアの手のひらほど。刃は細身で、ゆるやかに先が反っている。柄は、白っぽい木でできていた。手に持たなくても、自分の手に収まりそうな大きさだとわかった。
リュシアは、ベルノーの包丁を思い出した。
ずしりと重く、柄が太く、指が回りきらない包丁。毎晩、じゃがいもを剥くたびに指が痺れる包丁。
これがあれば、もっとうまく剥けるだろうか。もっと早く、もっと薄く。ハンナのように、一本のリボンのように。そうしたら、もっとベルノーの手伝いができるだろうか。
「……気になる?」
隣でフェリクスが、小声で聞いた。
「……はい」
「ハインツさんの店だよ。前に話した、無口だけど腕は町一番の」
フェリクスは店の中を覗き込み、それから、リュシアのほうを見た。
「俺、外で待ってる」
「え?」
「リュシアの買い物だろ。ゆっくり見てきなよ」
そう言って、フェリクスは店の向かいの壁にもたれかかった。腕を組み、空を見上げる。こちらを見ないようにしているのだと、リュシアにもわかった。
リュシアは、ひとつ息を吸って、店の戸口をくぐった。
◇
店の中は、熱かった。
奥に大きな炉があり、赤い炎がごうごうと音を立てていた。炉の前で、ひとりの男が金床に向かって金槌を振るっていた。
大きな男だった。上背のあるフェリクスよりもさらに一回り大きく、袖をまくった腕は丸太のように太い。短く刈った黒い髪に、顎を覆う濃い髭。顔も腕も煤で黒く汚れ、額には汗が光っていた。
男は、リュシアが入ってきたことに気づくと、金槌を置いた。
何も言わない。ただ、黒い目でじっとこちらを見ている。
「……あの」
リュシアは、声を絞り出した。
「表の、ナイフを、見せていただけますか」
男は、無言で頷いた。前掛けで手を拭きながら、店先の台まで歩いてくる。リュシアはその後をついていき、白い柄のナイフを指差した。
「これを」
男は、ナイフを手に取り、柄をリュシアのほうに向けて差し出した。
リュシアは、両手でそれを受け取った。
軽かった。
ベルノーの包丁の、半分もないくらい。白い木の柄は、リュシアの手のひらにぴたりと収まった。指が、柄をぐるりと包み込む。刃の根元に、小さな鳥の刻印が打たれているのが見えた。
「……女の人の、手に合わせてある」
男が、低い声で言った。
それが、初めて聞いたハインツの声だった。
「柄は、林檎の木だ。刃は、薄めに打ってある。果物を剥くにも、野菜を刻むにもいい」
ハインツは、それだけ言うと、また黙った。
リュシアは、手の中のナイフをじっと見つめた。
隣の台には、ほかのナイフも並んでいた。もっと大きく、もっと立派な柄のもの。刃に美しい波模様が浮かんだもの。値段も、きっとずっと高いのだろう。
リュシアは、ひとつひとつを見た。迷った。手に取って、戻して、また別のものを手に取った。
どれがいいのだろう。
ベルノーに蜂蜜とジャムを選べと言われた朝を思い出した。あのときは、頭の中が真っ白になった。どちらがいいのか、わからなかった。
今は、違った。
わからないのではなく、迷っているのだ。どれにしようか、と。迷えるだけの理由が、自分の中にある。
リュシアは、もう一度、白い柄のナイフを手に取った。
手に馴染む。軽い。刃の根元の、小さな鳥の刻印。
これがいい、と思った。
誰かに勧められたからではない。誰かが選んでくれたからでもない。自分の手が、これがいいと言っている。
「……これを」
リュシアは、ナイフを両手で持ち直した。
「これを、ください」
ハインツは、黙って頷いた。
値段を聞くと、ハインツは低い声で答えた。リュシアは肩掛けの内側から布袋を取り出し、紐をほどいて、中の硬貨を手のひらに出した。数えてみると、ちょうど足りた。銅貨が三枚、手元に残った。
リュシアは、硬貨をハインツの大きな手のひらに載せた。
ハインツは硬貨を受け取ると、店の奥へ引っ込み、しばらくして戻ってきた。手には、小さな革の鞘があった。茶色い革を二枚縫い合わせ、口のところに細い留め紐がついている。
ハインツは、ナイフを鞘に収め、リュシアに差し出した。
「……鞘は」
「おまけだ」
ハインツは、ぶっきらぼうにそう言った。それから、ほんの少しだけ、髭の奥で口元を動かした。
「大事に使え」
◇
店を出ると、フェリクスはさっきと同じ場所で、同じように壁にもたれて空を見上げていた。
リュシアが近づくと、フェリクスは顔を下ろした。リュシアの手の中の、革の鞘に気づく。
「お、決まった?」
「はい」
「何にしたの?」
リュシアは、少しだけ鞘の留め紐をほどいて、白い柄をのぞかせた。
「ナイフ、です」
「へえ。いいじゃん」
フェリクスは、それ以上何も聞かなかった。どうしてナイフなのか。もっと別のものにすればよかったのに。そういうことを、一言も言わなかった。ただ、「いいじゃん」と笑っただけだった。
リュシアは、鞘を胸に抱いた。
そのときだった。
ふわり、と、温かな風が頬を撫でた。
リュシアの肩に、一羽の鳥がとまった。
雀ではなかった。雀よりひとまわり大きく、羽が陽の光を受けて、深い琥珀色に輝いていた。蜜を固めたような、夕陽を閉じ込めたような色。
リュシアは、息を止めた。
あの日、王宮の窓の外を飛んでいた鳥と、同じ色だった。
鳥は、リュシアの肩の上で羽をたたみ、首を傾げた。琥珀色の瞳が、すぐ近くからリュシアの顔を覗き込んでいる。
「うわ、きれいな鳥だな」
フェリクスが、目を丸くした。
「こんな色の鳥、この辺で見たことないぞ」
フェリクスは、そっと人差し指を差し出した。鳥に向かって、ゆっくりと。
「ほら、おいで」
鳥は、フェリクスの指をちらりと見た。
そして、ふいっと、顔を背けた。
まるで、おまえには用はない、とでも言うように。くちばしをつんと上に向け、フェリクスの指からわざとらしく目を逸らして、リュシアの首元に身体を寄せる。
「……ええ」
フェリクスが、指を差し出したまま、情けない声を上げた。
リュシアは、こらえきれなかった。
口元から、小さな笑い声がこぼれた。ふふ、と、自分でも聞いたことのない声だった。肩を震わせ、鞘を抱いた手で口を押さえる。それでも、笑いは止まらなかった。
「笑うなよ」
フェリクスが、頭をかきながら抗議した。けれどその顔も、笑っていた。
琥珀色の鳥は、リュシアの頬にくちばしをそっと触れさせ、それからふわりと飛び立った。大きく翼を広げ、広場の上空を一度旋回して、時計塔の向こうへ消えていった。
リュシアは、その姿を見送った。
笑いの余韻が、まだ胸の中に残っていた。
◇
工房に戻ると、ベルノーが作業台の前で振り返った。
「帰ったか」
「はい」
リュシアは、作業台の端に、革の鞘をそっと置いた。ベルノーは拡大鏡を額に上げ、鞘に目をやった。手に取り、留め紐をほどき、白い柄のナイフを抜く。
刃を光にかざす。根元の、小さな鳥の刻印を見る。
「ハインツのところで買ったのか」
「はい」
「良いものを買ったな」
ベルノーは、刃を指の腹でそっとなぞり、満足そうに頷いた。
「あいつの打った刃は、よく切れて、よくもつ。大事に使え」
それから、ナイフを鞘に戻し、リュシアの手に返した。
「でもな」
ベルノーは、拡大鏡を目に下ろしながら言った。
「使ってりゃ傷もつくし、いつかなくすことだってある。そういうもんだ」
リュシアは、手の中の鞘を見下ろした。
「……傷が、つくのですか」
「つく。刃はこぼれるし、柄は汚れる。研げば研ぐほど細くなる」
ベルノーは、もう作業台の時計に向き直っていた。
「だからって、しまい込んで使わなけりゃ、それはナイフじゃなくて、ただの飾りだ」
リュシアは、ハンナのナイフを思い出した。擦り切れた柄。研がれて細くなった刃。けれど、ハンナはそのナイフで、一度も切れない皮のリボンを作っていた。手に馴染んでいるから手放せないのだと、笑っていた。
それから、王宮の鳥籠を思い出した。
金の格子。絹の寝台。傷ひとつつかないように、どこへも行かないように、閉じ込められていた日々。王は、リュシアを大切にしていると言った。守るためなのだと言った。
大切にするということは、傷つかないように閉じ込めておくことなのだろうか。
ベルノーの言葉は、違うと言っていた。ハンナのナイフも、違うと言っていた。
使って、傷がついて、細くなって、それでも手放せない。そういう大切さも、あるのだ。
リュシアは、鞘からナイフを抜いた。
白い柄が、手のひらに馴染む。刃が、窓から差し込む夕陽を受けて、淡く光る。
自分で選んだ。
自分で働いて得たもので、自分で迷って、自分で決めた。
生まれて初めて、本当に自分のものだと思えるものだった。
「……ベルノーさん」
「なんだ」
「今夜のじゃがいも、これで剥いてもいいですか」
ベルノーの背中が、一瞬止まった。
それから、肩がかすかに揺れた。笑ったのかもしれなかった。
「好きにしろ。おまえさんのナイフだ」
リュシアは、ナイフを鞘に戻して、胸に抱いた。
窓の外で、どこかの鳥が鳴いた。




