↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【平日18時更新】リュシアと時計塔 〜王の鳥は自由を求めて王宮を逃げ出す〜  作者: Tania Riko


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/12

7 自分の仕事

町へ出るようになって、三日が過ぎた。


リュシアは毎日、日が高くなる前に工房を出て、広場まで歩き、パンの屋台の前を通り、時計塔の鐘を聞いて、日が傾く前に戻ってきた。フェリクスが一緒のときもあれば、ひとりのときもあった。ひとりで歩くのは最初は怖かったが、三つ目の路地の角を曲がったところにいる黒猫や、毎朝同じ窓辺で鉢植えに水をやる老婆の顔を覚えるうちに、少しずつ怖さは薄れていった。


雀たちは、毎日来てくれた。


広場に足を踏み入れると、どこからともなく茶色い影が飛んできて、肩や頭にとまる。ハンナはそれを見るたびに「あんたは鳥の神様にでも好かれてるのかね」と笑った。


その日の朝、リュシアは工房の台所で、粥の椀を前にしてじっと座っていた。


ベルノーは竈の前で鍋を洗っていた。腰を伸ばすたびに、小さく顔をしかめる。拳で腰をとんとんと叩き、それからまた鍋に向かう。


リュシアは、その背中を見ていた。


この数日、ずっと考えていたことがあった。


ここへ来てから、自分は何をしただろう。


食事を出してもらった。服を用意してもらった。寝る場所を与えてもらった。外へ出たいと言えば、出してもらった。帰ってくれば、温かいスープが待っていた。


何もかも、してもらってばかりだった。


王宮でも、そうだった。何もかも与えられていた。寝台も、果物も、絹の敷布も。けれどあのとき、リュシアはそれを当たり前だと思っていた。与えられることに、何の疑問も持たなかった。その代わりに、背中の羽根を差し出していたから。


ここでは、何も差し出していない。


ベルノーは、何も求めない。羽根も、言葉も、何ひとつ。それなのに、毎日食事を作り、寝床を貸してくれる。


それが、ありがたくて、そして少しだけ、落ち着かなかった。


「ベルノーさん」


リュシアは、粥の椀を両手で包んだまま言った。


「なんだ」


「わたしにも、何か、させてください」


ベルノーの手が止まった。


鍋を置き、濡れた手を前掛けで拭いながら、ゆっくりと振り返る。灰色の目が、拡大鏡の下からじっとこちらを見た。


「何ができる」


「……わかりません」


正直に答えた。


「でも、何か、したいんです。してもらってばかりでは、なくて」


ベルノーは、しばらく黙っていた。


壁の時計がコチコチと鳴る。竈の火がぱちりとはぜる。


やがて、ベルノーは顎で作業場のほうを示した。


「食ったら来い」


◇


作業場の隅に、大きな木箱が置かれていた。


ベルノーがその蓋を開けると、中には、ありとあらゆる小さな金属がぎっしりと詰まっていた。ねじ、ばね、歯車、軸、留め金、名前もわからない細かな部品。銀色のもの、真鍮色のもの、赤く錆びたもの。それらが何の区別もなく、ごちゃまぜに放り込まれていた。


「三十年分だ」


ベルノーは、まるで他人事のように言った。


「直した時計から外したもの、余ったもの、床から拾ったもの。いつか使うと思って取っておいたが、いざ使おうとすると見つからん。これを、分けろ」


「分ける……」


「ねじはねじ、歯車は歯車。大きさごとにだ。錆びたのは別にしておけ。使えるかどうかは、わしが見る」


ベルノーは作業台の上に、浅い木の小皿をいくつも並べた。それから、引き出しから予備の拡大鏡をひとつ取り出し、リュシアの手に押しつけた。


「小さいのはこれで見ろ。目が疲れたら休め」


それだけ言うと、ベルノーは自分の作業台に戻り、背中を向けた。


リュシアは、木箱の前に座った。


手を入れて、ひとつかみすくう。手のひらの上で、冷たい金属がじゃらりと鳴った。


まず、ねじと歯車を分けた。それは簡単だった。形が違うからだ。けれどねじの中にも、長いもの、短いもの、頭が丸いもの、平たいもの、溝が一本のもの、十字のものがあった。歯車にも、大きいもの、小さいもの、歯の数が多いもの、少ないもの、薄いもの、厚いものがあった。


リュシアは、ひとつひとつを指先でつまみ、目の前にかざし、見比べた。


最初は、うまくいかなかった。似たような大きさのねじが、どちらの皿に入れるべきかわからない。拡大鏡を目に当ててみると、今度は近すぎて何が何だかわからない。指先が震えて、小さな歯車を床に落とす。


床に落ちた歯車を、這いつくばって探す。見つけて、拾って、また皿の前に戻る。


何度か繰り返すうちに、少しずつ、手の動きが落ち着いてきた。


ねじは、まず長さで分ける。それから頭の形。溝の形は、拡大鏡で見ればすぐにわかる。歯車は、まず大きさ。同じ大きさなら、指の腹で歯をなぞって数を比べる。錆びたものは、別の皿へ。


工房の中は、静かだった。


ベルノーがピンセットを置く音。壁の時計の音。窓の外を荷車が通り過ぎていく音。そして、リュシアの指先で、小さな金属がかちりと皿に落ちる音。


かちり。かちり。かちり。


気づけば、昼を過ぎていた。


いつのまにか、リュシアの肘のそばに、湯気の立つ茶の杯と、チーズを挟んだパンがひと切れ置かれていた。


振り返ると、ベルノーはもう自分の作業台に戻って、背中を丸めていた。何も言わなかった。リュシアも、何も言わずにパンをかじった。茶は、ほんの少しだけ蜂蜜の味がした。


◇


カラン、と扉の鈴が鳴った。


「爺さーん、こないだの懐中時計——」


フェリクスの声が途中で止まった。


作業場の戸口で、フェリクスが身をかがめたまま立ち止まっていた。その目が、作業台の隅に座るリュシアと、その前に整然と並ぶ小皿の列を、交互に見ている。


「……え、何してんの」


「部品を、分けています」


リュシアは拡大鏡を額に上げて答えた。ベルノーの真似をして、革紐で額に留めていたのだ。


フェリクスは作業台に近づき、並んだ小皿をひとつずつ覗き込んだ。


一番左の皿には、長さ三分ほどの頭の丸いねじだけ。その隣には、同じ長さで頭の平たいねじだけ。その隣には、もう少し長いもの。歯車の皿は、大きさの順に左から右へ。錆びたものの皿は、少し離れたところに。


フェリクスは、ひとつの皿に指を入れ、ねじを一本つまみ上げた。光にかざし、目を細め、また皿に戻す。別の皿からも一本。それも戻す。


「……完璧じゃん」


フェリクスは、ほとんど呆れたような声で言った。


「これ、爺さんがやったんじゃないよな?」


「わしがそんな暇なことをするか」


背中を向けたまま、ベルノーが言った。


「すごいな、リュシア」


フェリクスは、作業台に両手をついて、リュシアの顔を覗き込んだ。


「俺、見習いの頃これやらされて、半日で投げ出したんだ。爺さんに怒鳴られてさ。こんなきっちり分けられるの、初めて見た。爺さんより丁寧だよ」


「余計なことを言うな」


ベルノーの声が飛んだ。


リュシアは、フェリクスの顔を見上げた。


褒められた。


王宮でも、王はよく「いい子だ」と言ってくれた。言われたとおりに肩にとまったとき、言われたとおりに羽根を差し出したとき。けれど、今のフェリクスの言葉は、それとは違う響きがした。


自分の手で、何かをした。そのことを、見てくれた人がいる。


胸の奥が、ほんのりと温かくなった。


ふと、フェリクスが目を瞬かせた。


「……笑ったな」


「え?」


リュシアは、自分の頬に手を当てた。


「今の、いい顔してたからさ」


フェリクスは、どこか嬉しそうに言った。


リュシアは、自分が笑っていたことに、言われるまで気づかなかった。笑う、ということを、自分がするとは思っていなかった。王宮の鏡に映る自分は、いつも静かな顔をしていた。


「……いけませんか?」


思わず、そう尋ねていた。


フェリクスは、一瞬きょとんとした。それから、ふっと目元を和らげた。


「まさか。いいことだよ」


その言葉が、リュシアの胸の中に、すとんと落ちた。


◇


夕方、ベルノーが台所に立つと、リュシアはその隣に並んだ。


「料理も、教えてください」


ベルノーは横目でリュシアを見て、それから、黙って籠の中のじゃがいもを指差した。


「皮を剥け」


ベルノーが差し出したのは、大きな包丁だった。


刃渡りはリュシアの手のひらより長く、柄は太く、ずしりと重い。ベルノーの大きな手にはちょうどいいのだろうが、リュシアの手には余った。柄を握ると、指が回りきらない。


じゃがいもを左手に持ち、右手の包丁を皮に当てる。


刃が、うまく入らなかった。力を入れると、刃が滑って厚く削げる。力を抜くと、刃が止まる。じゃがいもはどんどん小さく、角ばっていった。


「……」


ベルノーは何も言わず、自分は人参を刻んでいた。トントントン、と小気味よい音が響く。


リュシアは、二つ目のじゃがいもを手に取った。今度は、包丁を動かすのではなく、じゃがいものほうを回してみた。少しだけ、うまくいった。皮が、さっきより薄く剥けた。


「指は切るなよ」


ベルノーが、人参から目を離さずに言った。


「はい」


「その包丁は、わしの手に合わせて打ってもらったもんだ。おまえさんには重いだろう」


「……少し」


「少し、か」


ベルノーは、ふん、と鼻を鳴らした。


五つ目のじゃがいもを剥き終えたとき、リュシアの右手の指はじんじんと痺れていた。剥いたじゃがいもは、どれも少しずつ形がいびつで、大きさもばらばらだった。


けれどベルノーは、それを何も言わずに鍋に入れた。


その夜のスープには、リュシアが剥いたじゃがいもが入っていた。


いびつな形のじゃがいもを、匙ですくう。口に入れる。ほくほくと崩れて、塩と人参の甘さが染みていた。


「……悪くない」


向かいに座ったベルノーが、ぼそりと言った。


それがスープの味のことなのか、じゃがいもの剥き方のことなのか、リュシアにはわからなかった。けれど、どちらでもいいと思った。


◇


食事が終わり、リュシアが椀を洗っていると、ベルノーが台所の戸口に立った。


「おい」


「はい」


「手を出せ」


リュシアは濡れた手を前掛けで拭き、言われたとおりに右手を差し出した。


ベルノーは、その手のひらに、何かを載せた。


小さな布袋だった。生成りの麻布を巾着のように縫い合わせ、口を細い紐で絞ってある。持ち上げると、中で何かがちゃりんと鳴った。


「……これは」


「手間賃だ」


リュシアは、手のひらの布袋を見つめた。


紐をほどいて中を覗くと、銅貨が数枚と、小さな銀貨が一枚入っていた。


「部品の仕分け、三十年分だ。本当なら職人を雇うところだ。それと、じゃがいもの皮剥き」


「でも……」


リュシアは、布袋を両手で包んだまま、首を振った。


「いただけません。わたし、ここに置いていただいて、食べさせていただいて、それなのに——」


「それとこれとは別だ」


ベルノーは、リュシアの言葉を遮った。


「世話は世話。仕事は仕事だ。おまえさんは今日、仕事をした。だから払う。それだけのことだ」


「……」


「わしは、ただ働きさせるほど落ちぶれちゃおらん」


ベルノーはそう言って、腕を組んだ。


リュシアは、手の中の布袋を見下ろした。


王宮では、何もかもが与えられた。けれどそれは、羽根と引き換えだった。痛みと引き換えだった。与えられたものはどれも美しかったが、ひとつとして、自分のものだと思えたことはなかった。


この布袋は、違う。


誰かに差し出されたものではない。奪われたものの代わりでもない。今日一日、自分の目で見て、自分の指でつまみ、自分の手で分けた、その分の重さ。


リュシアは、ゆっくりと布袋を握りしめた。


「……ありがとう、ございます」


声が、少しだけ震えた。


「礼を言われる筋合いはない」


ベルノーはそっけなく言って、背を向けた。


けれど、戸口をくぐる直前、ベルノーは立ち止まった。


「明日も、木箱の続きがある。まだ半分も終わっとらん」


「……はい」


「それから、じゃがいもは明日の分もある」


「はい」


ベルノーは、もう振り返らずに作業場へ消えていった。


◇


その夜、リュシアは物置部屋の寝台の上で、布袋を膝に載せて座っていた。


窓から差し込む月明かりで、布袋の口をそっと開ける。中の銅貨を一枚取り出し、手のひらに載せた。


冷たくて、小さくて、少しだけ重い。


表には、王の横顔が刻まれていた。


どの硬貨にも刻まれている、変わらない若く美しい王の顔。


リュシアは、しばらくその横顔を見つめていた。それから、銅貨を裏返した。裏には、麦の穂と、小さな鳥の模様が刻まれていた。


リュシアは、銅貨を布袋に戻し、紐を固く結んだ。それから、布袋を枕の下にそっと入れた。


指先が、まだじんじんと痺れていた。目の奥が、拡大鏡を覗きすぎて少し重かった。


疲れている、と思った。


けれどそれは、羽根を抜かれた後の、身体の芯が冷えるような疲れではなかった。もっと温かくて、もっと心地よい疲れだった。


自分の手で、何かを成し遂げた。


その重さを枕の下に感じながら、リュシアは目を閉じた。


工房の時計たちが、ばらばらの拍子で時を刻んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。