7 自分の仕事
町へ出るようになって、三日が過ぎた。
リュシアは毎日、日が高くなる前に工房を出て、広場まで歩き、パンの屋台の前を通り、時計塔の鐘を聞いて、日が傾く前に戻ってきた。フェリクスが一緒のときもあれば、ひとりのときもあった。ひとりで歩くのは最初は怖かったが、三つ目の路地の角を曲がったところにいる黒猫や、毎朝同じ窓辺で鉢植えに水をやる老婆の顔を覚えるうちに、少しずつ怖さは薄れていった。
雀たちは、毎日来てくれた。
広場に足を踏み入れると、どこからともなく茶色い影が飛んできて、肩や頭にとまる。ハンナはそれを見るたびに「あんたは鳥の神様にでも好かれてるのかね」と笑った。
その日の朝、リュシアは工房の台所で、粥の椀を前にしてじっと座っていた。
ベルノーは竈の前で鍋を洗っていた。腰を伸ばすたびに、小さく顔をしかめる。拳で腰をとんとんと叩き、それからまた鍋に向かう。
リュシアは、その背中を見ていた。
この数日、ずっと考えていたことがあった。
ここへ来てから、自分は何をしただろう。
食事を出してもらった。服を用意してもらった。寝る場所を与えてもらった。外へ出たいと言えば、出してもらった。帰ってくれば、温かいスープが待っていた。
何もかも、してもらってばかりだった。
王宮でも、そうだった。何もかも与えられていた。寝台も、果物も、絹の敷布も。けれどあのとき、リュシアはそれを当たり前だと思っていた。与えられることに、何の疑問も持たなかった。その代わりに、背中の羽根を差し出していたから。
ここでは、何も差し出していない。
ベルノーは、何も求めない。羽根も、言葉も、何ひとつ。それなのに、毎日食事を作り、寝床を貸してくれる。
それが、ありがたくて、そして少しだけ、落ち着かなかった。
「ベルノーさん」
リュシアは、粥の椀を両手で包んだまま言った。
「なんだ」
「わたしにも、何か、させてください」
ベルノーの手が止まった。
鍋を置き、濡れた手を前掛けで拭いながら、ゆっくりと振り返る。灰色の目が、拡大鏡の下からじっとこちらを見た。
「何ができる」
「……わかりません」
正直に答えた。
「でも、何か、したいんです。してもらってばかりでは、なくて」
ベルノーは、しばらく黙っていた。
壁の時計がコチコチと鳴る。竈の火がぱちりとはぜる。
やがて、ベルノーは顎で作業場のほうを示した。
「食ったら来い」
◇
作業場の隅に、大きな木箱が置かれていた。
ベルノーがその蓋を開けると、中には、ありとあらゆる小さな金属がぎっしりと詰まっていた。ねじ、ばね、歯車、軸、留め金、名前もわからない細かな部品。銀色のもの、真鍮色のもの、赤く錆びたもの。それらが何の区別もなく、ごちゃまぜに放り込まれていた。
「三十年分だ」
ベルノーは、まるで他人事のように言った。
「直した時計から外したもの、余ったもの、床から拾ったもの。いつか使うと思って取っておいたが、いざ使おうとすると見つからん。これを、分けろ」
「分ける……」
「ねじはねじ、歯車は歯車。大きさごとにだ。錆びたのは別にしておけ。使えるかどうかは、わしが見る」
ベルノーは作業台の上に、浅い木の小皿をいくつも並べた。それから、引き出しから予備の拡大鏡をひとつ取り出し、リュシアの手に押しつけた。
「小さいのはこれで見ろ。目が疲れたら休め」
それだけ言うと、ベルノーは自分の作業台に戻り、背中を向けた。
リュシアは、木箱の前に座った。
手を入れて、ひとつかみすくう。手のひらの上で、冷たい金属がじゃらりと鳴った。
まず、ねじと歯車を分けた。それは簡単だった。形が違うからだ。けれどねじの中にも、長いもの、短いもの、頭が丸いもの、平たいもの、溝が一本のもの、十字のものがあった。歯車にも、大きいもの、小さいもの、歯の数が多いもの、少ないもの、薄いもの、厚いものがあった。
リュシアは、ひとつひとつを指先でつまみ、目の前にかざし、見比べた。
最初は、うまくいかなかった。似たような大きさのねじが、どちらの皿に入れるべきかわからない。拡大鏡を目に当ててみると、今度は近すぎて何が何だかわからない。指先が震えて、小さな歯車を床に落とす。
床に落ちた歯車を、這いつくばって探す。見つけて、拾って、また皿の前に戻る。
何度か繰り返すうちに、少しずつ、手の動きが落ち着いてきた。
ねじは、まず長さで分ける。それから頭の形。溝の形は、拡大鏡で見ればすぐにわかる。歯車は、まず大きさ。同じ大きさなら、指の腹で歯をなぞって数を比べる。錆びたものは、別の皿へ。
工房の中は、静かだった。
ベルノーがピンセットを置く音。壁の時計の音。窓の外を荷車が通り過ぎていく音。そして、リュシアの指先で、小さな金属がかちりと皿に落ちる音。
かちり。かちり。かちり。
気づけば、昼を過ぎていた。
いつのまにか、リュシアの肘のそばに、湯気の立つ茶の杯と、チーズを挟んだパンがひと切れ置かれていた。
振り返ると、ベルノーはもう自分の作業台に戻って、背中を丸めていた。何も言わなかった。リュシアも、何も言わずにパンをかじった。茶は、ほんの少しだけ蜂蜜の味がした。
◇
カラン、と扉の鈴が鳴った。
「爺さーん、こないだの懐中時計——」
フェリクスの声が途中で止まった。
作業場の戸口で、フェリクスが身をかがめたまま立ち止まっていた。その目が、作業台の隅に座るリュシアと、その前に整然と並ぶ小皿の列を、交互に見ている。
「……え、何してんの」
「部品を、分けています」
リュシアは拡大鏡を額に上げて答えた。ベルノーの真似をして、革紐で額に留めていたのだ。
フェリクスは作業台に近づき、並んだ小皿をひとつずつ覗き込んだ。
一番左の皿には、長さ三分ほどの頭の丸いねじだけ。その隣には、同じ長さで頭の平たいねじだけ。その隣には、もう少し長いもの。歯車の皿は、大きさの順に左から右へ。錆びたものの皿は、少し離れたところに。
フェリクスは、ひとつの皿に指を入れ、ねじを一本つまみ上げた。光にかざし、目を細め、また皿に戻す。別の皿からも一本。それも戻す。
「……完璧じゃん」
フェリクスは、ほとんど呆れたような声で言った。
「これ、爺さんがやったんじゃないよな?」
「わしがそんな暇なことをするか」
背中を向けたまま、ベルノーが言った。
「すごいな、リュシア」
フェリクスは、作業台に両手をついて、リュシアの顔を覗き込んだ。
「俺、見習いの頃これやらされて、半日で投げ出したんだ。爺さんに怒鳴られてさ。こんなきっちり分けられるの、初めて見た。爺さんより丁寧だよ」
「余計なことを言うな」
ベルノーの声が飛んだ。
リュシアは、フェリクスの顔を見上げた。
褒められた。
王宮でも、王はよく「いい子だ」と言ってくれた。言われたとおりに肩にとまったとき、言われたとおりに羽根を差し出したとき。けれど、今のフェリクスの言葉は、それとは違う響きがした。
自分の手で、何かをした。そのことを、見てくれた人がいる。
胸の奥が、ほんのりと温かくなった。
ふと、フェリクスが目を瞬かせた。
「……笑ったな」
「え?」
リュシアは、自分の頬に手を当てた。
「今の、いい顔してたからさ」
フェリクスは、どこか嬉しそうに言った。
リュシアは、自分が笑っていたことに、言われるまで気づかなかった。笑う、ということを、自分がするとは思っていなかった。王宮の鏡に映る自分は、いつも静かな顔をしていた。
「……いけませんか?」
思わず、そう尋ねていた。
フェリクスは、一瞬きょとんとした。それから、ふっと目元を和らげた。
「まさか。いいことだよ」
その言葉が、リュシアの胸の中に、すとんと落ちた。
◇
夕方、ベルノーが台所に立つと、リュシアはその隣に並んだ。
「料理も、教えてください」
ベルノーは横目でリュシアを見て、それから、黙って籠の中のじゃがいもを指差した。
「皮を剥け」
ベルノーが差し出したのは、大きな包丁だった。
刃渡りはリュシアの手のひらより長く、柄は太く、ずしりと重い。ベルノーの大きな手にはちょうどいいのだろうが、リュシアの手には余った。柄を握ると、指が回りきらない。
じゃがいもを左手に持ち、右手の包丁を皮に当てる。
刃が、うまく入らなかった。力を入れると、刃が滑って厚く削げる。力を抜くと、刃が止まる。じゃがいもはどんどん小さく、角ばっていった。
「……」
ベルノーは何も言わず、自分は人参を刻んでいた。トントントン、と小気味よい音が響く。
リュシアは、二つ目のじゃがいもを手に取った。今度は、包丁を動かすのではなく、じゃがいものほうを回してみた。少しだけ、うまくいった。皮が、さっきより薄く剥けた。
「指は切るなよ」
ベルノーが、人参から目を離さずに言った。
「はい」
「その包丁は、わしの手に合わせて打ってもらったもんだ。おまえさんには重いだろう」
「……少し」
「少し、か」
ベルノーは、ふん、と鼻を鳴らした。
五つ目のじゃがいもを剥き終えたとき、リュシアの右手の指はじんじんと痺れていた。剥いたじゃがいもは、どれも少しずつ形がいびつで、大きさもばらばらだった。
けれどベルノーは、それを何も言わずに鍋に入れた。
その夜のスープには、リュシアが剥いたじゃがいもが入っていた。
いびつな形のじゃがいもを、匙ですくう。口に入れる。ほくほくと崩れて、塩と人参の甘さが染みていた。
「……悪くない」
向かいに座ったベルノーが、ぼそりと言った。
それがスープの味のことなのか、じゃがいもの剥き方のことなのか、リュシアにはわからなかった。けれど、どちらでもいいと思った。
◇
食事が終わり、リュシアが椀を洗っていると、ベルノーが台所の戸口に立った。
「おい」
「はい」
「手を出せ」
リュシアは濡れた手を前掛けで拭き、言われたとおりに右手を差し出した。
ベルノーは、その手のひらに、何かを載せた。
小さな布袋だった。生成りの麻布を巾着のように縫い合わせ、口を細い紐で絞ってある。持ち上げると、中で何かがちゃりんと鳴った。
「……これは」
「手間賃だ」
リュシアは、手のひらの布袋を見つめた。
紐をほどいて中を覗くと、銅貨が数枚と、小さな銀貨が一枚入っていた。
「部品の仕分け、三十年分だ。本当なら職人を雇うところだ。それと、じゃがいもの皮剥き」
「でも……」
リュシアは、布袋を両手で包んだまま、首を振った。
「いただけません。わたし、ここに置いていただいて、食べさせていただいて、それなのに——」
「それとこれとは別だ」
ベルノーは、リュシアの言葉を遮った。
「世話は世話。仕事は仕事だ。おまえさんは今日、仕事をした。だから払う。それだけのことだ」
「……」
「わしは、ただ働きさせるほど落ちぶれちゃおらん」
ベルノーはそう言って、腕を組んだ。
リュシアは、手の中の布袋を見下ろした。
王宮では、何もかもが与えられた。けれどそれは、羽根と引き換えだった。痛みと引き換えだった。与えられたものはどれも美しかったが、ひとつとして、自分のものだと思えたことはなかった。
この布袋は、違う。
誰かに差し出されたものではない。奪われたものの代わりでもない。今日一日、自分の目で見て、自分の指でつまみ、自分の手で分けた、その分の重さ。
リュシアは、ゆっくりと布袋を握りしめた。
「……ありがとう、ございます」
声が、少しだけ震えた。
「礼を言われる筋合いはない」
ベルノーはそっけなく言って、背を向けた。
けれど、戸口をくぐる直前、ベルノーは立ち止まった。
「明日も、木箱の続きがある。まだ半分も終わっとらん」
「……はい」
「それから、じゃがいもは明日の分もある」
「はい」
ベルノーは、もう振り返らずに作業場へ消えていった。
◇
その夜、リュシアは物置部屋の寝台の上で、布袋を膝に載せて座っていた。
窓から差し込む月明かりで、布袋の口をそっと開ける。中の銅貨を一枚取り出し、手のひらに載せた。
冷たくて、小さくて、少しだけ重い。
表には、王の横顔が刻まれていた。
どの硬貨にも刻まれている、変わらない若く美しい王の顔。
リュシアは、しばらくその横顔を見つめていた。それから、銅貨を裏返した。裏には、麦の穂と、小さな鳥の模様が刻まれていた。
リュシアは、銅貨を布袋に戻し、紐を固く結んだ。それから、布袋を枕の下にそっと入れた。
指先が、まだじんじんと痺れていた。目の奥が、拡大鏡を覗きすぎて少し重かった。
疲れている、と思った。
けれどそれは、羽根を抜かれた後の、身体の芯が冷えるような疲れではなかった。もっと温かくて、もっと心地よい疲れだった。
自分の手で、何かを成し遂げた。
その重さを枕の下に感じながら、リュシアは目を閉じた。
工房の時計たちが、ばらばらの拍子で時を刻んでいた。




