6 町の人々
その朝、リュシアは時計たちの合唱よりも早く目を覚ました。
窓の外はまだ暗かった。物置部屋の小さな窓から見える細長い空は、夜の紺色の端がほんのわずかに白みはじめたばかりだった。リュシアは毛布の中で身体を丸め、天井の梁を見上げた。眠れなかったわけではない。ただ、目を閉じていることが、どうしてもできなかったのだ。
今日、外へ出る。
その言葉を胸の中で繰り返すたびに、心臓が小さく跳ねた。怖いのか、待ち遠しいのか、自分でもよくわからなかった。わからないまま、リュシアは表の部屋の振り子時計が最初の一音を鳴らすのを待った。
ゴーン、と低い音が響いた。
リュシアは寝台から下りて、壁に掛けた服に手を伸ばした。釦は、もう一度で留められるようになっていた。
◇
台所に行くと、ベルノーが粥の鍋をかき混ぜていた。
「早いな」
「……はい」
「今日だったか」
「はい」
ベルノーはそれ以上何も言わず、いつものように椀に粥をよそった。リュシアが棚の上の蜂蜜の壺を見ると、ベルノーは黙ってそれを椀の横に置いた。自分で垂らせ、ということらしい。リュシアは匙で蜂蜜をすくい、粥の上にそっと落とした。金色の筋が、白い粥の上でゆっくりと広がっていった。
食べ終えた頃、ベルノーが奥の部屋から何かを持ってきた。
焦げ茶の毛糸の肩掛けだった。壁に掛けてあったものとは別の、もう少し大きなものだ。
「朝はまだ冷える。羽織っていけ」
「ありがとう、ございます」
「それから」
ベルノーは額の拡大鏡を指で押し上げ、灰色の目でリュシアを見た。
「日が暮れる前に帰ってこい。あの若造が何を言おうとだ」
リュシアが頷くと、ベルノーはふん、と鼻を鳴らして作業場へ消えていった。
カラン、と扉の鈴が鳴ったのは、それからすぐのことだった。
「おはよう!」
フェリクスの声がした。続けて、ごん、という鈍い音と、「いってえ」という声。
「学習しろ」
作業場から、ベルノーの声が飛んだ。
◇
工房の扉を一歩出たとき、リュシアは思わず目を細めた。
光が、まぶしかった。
王宮の私室の窓から見る光とも、工房の小さな窓から差し込む光とも違った。光は上からだけでなく、四方八方から降ってきた。石畳に照り返し、向かいの家の白い壁に跳ね返り、軒先に吊るされた銅の鍋に弾けて、きらきらと目に飛び込んでくる。
風が、頬を撫でた。
肩掛けの裾が揺れた。髪が顔にかかった。どこかでパンを焼く匂いと、馬の匂いと、雨上がりの土の匂いが入り混じって、鼻の奥をくすぐった。
「大丈夫?」
隣でフェリクスが、少し腰をかがめるようにしてこちらを覗き込んでいた。
「……はい」
「まぶしいよな。爺さんの工房、薄暗いから」
フェリクスは笑って、自分も手でひさしを作って空を見上げた。
「いい天気だ。運がいいな、リュシア」
リュシアも、フェリクスの真似をして空を見上げた。
家々の屋根の間に、細長い空があった。青く、高かった。その青の向こう、屋根の連なりの先に、白い尖塔がいくつか突き出しているのが見えた。
王宮だった。
リュシアは、すぐに目を逸らした。
「どうした?」
「……いえ。なんでも、ありません」
フェリクスは一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
「じゃ、行こうか。まずは市場からだ」
◇
市場は、工房から路地を三つ曲がった先の広場にあった。
広場に足を踏み入れた瞬間、リュシアは立ち止まってしまった。
人が、たくさんいた。
王宮の評議の間にも、謁見の間にも、人はたくさんいた。けれど、あの人たちは皆、決められた場所に立ち、決められた順番で話し、決められた方向を向いていた。ここにいる人々は違った。誰もが好きな方向へ歩き、好きなように立ち止まり、好きな声で喋っていた。
色とりどりの天幕が、広場を埋め尽くしていた。赤、黄、青、緑。天幕の下には木箱や籠が並び、その中に野菜や果物や、干した魚や、ぐるぐる巻きにした布や、鈍く光る鍋や包丁が積まれていた。売り手が声を張り上げ、買い手が値切り、子どもたちが駆け回り、犬が吠え、どこかで誰かが笛を吹いていた。
「すごいだろ」
フェリクスが、自分のことのように胸を張った。
「……はい」
リュシアは、ただそう答えることしかできなかった。
フェリクスは、まず広場の入り口のパンの屋台に立ち寄った。焼きたての丸パンを二つ買い、ひとつをリュシアに渡す。
「熱いから気をつけて」
リュシアはパンを両手で受け取った。表面はかりっと固く、手のひらがじんと温かくなった。割ってみると、中から白い湯気が立ちのぼった。
ひと口かじる。
香ばしかった。ベルノーの工房で食べる固いパンとは違って、中はふわりと柔らかく、ほんのりと甘い。
「うまい?」
「……おいしい、です」
「だろ」
フェリクスは満足そうに、自分のパンを大きくかじった。
そのときだった。
リュシアの肩に、何かがとまった。
小さな重み。かすかな爪の感触。首を巡らせると、茶色い雀が一羽、肩の上でこちらを見上げていた。
リュシアが瞬きをするより早く、もう一羽が反対の肩にとまった。それから、頭の上にもう一羽。腕に一羽。パンを持つ手の甲に一羽。
気づけば、リュシアの身体には五、六羽の雀がとまっていた。
「うわ」
フェリクスが、パンをくわえたまま固まっていた。
雀たちは、パンを狙っているわけではなかった。手の甲の雀は、パンには見向きもしなかった。ただ、リュシアにとまって、羽を膨らませ、くつろいだようにしている。肩の雀が、ちょん、と跳ねてリュシアの首元に寄り、小さな頭を頬にすりつけてきた。
くすぐったかった。
リュシアは、そっと頬を傾けた。雀の羽毛は柔らかく、温かかった。
「……おまえたち」
思わず、声が漏れた。
「どこから、来たの」
雀は答えなかった。答える代わりに、もう一度、リュシアの頬に頭をすりつけた。
広場を行く人々が、足を止めてこちらを見ていた。母親に手を引かれた子どもが、「鳥がいっぱい!」と指を差す。屋台の売り子が、「こりゃ珍しい」と目を丸くする。
「リュシア、すごいな」
フェリクスが、ようやくパンを口から離して言った。
「鳥に好かれる体質ってやつ?俺、パン持ってても一羽も寄ってこないのに」
「……わかりません」
本当に、わからなかった。王宮にいた頃、ほかの鳥と触れ合ったことなど一度もなかった。窓の外を飛ぶ鳥たちは、いつも遠くにいた。
やがて、どこかで大きな物音がした。雀たちは一斉に飛び立ち、広場の上空でひとかたまりになって旋回し、屋根の向こうへ消えていった。
リュシアは、雀たちが消えた空を見上げていた。
「……また」
「ん?」
「また、来てくれるでしょうか」
フェリクスは、少し驚いたようにリュシアを見た。それから、にっと笑った。
「来るよ。きっと」
「どうして、わかるのですか」
「だって、あいつら、すごく気持ちよさそうだったもん」
根拠になっているのかどうか、わからない答えだった。けれどリュシアは、なぜかそれで安心した。
◇
広場を半分ほど回ったところで、ごろごろと何かが転がる音がした。
見ると、果物を山と積んだ荷車の車輪が石畳の窪みにはまり、荷台が大きく傾いていた。積まれていたリンゴが次々とこぼれ落ち、四方八方へ転がっていく。
「あらあら、あらあらあら!」
荷車の持ち主らしい女性が、両手を広げて悲鳴を上げた。
ふくよかな身体つきに、日に焼けた丸い顔。栗色の髪をひっつめにして、花柄の前掛けをしている。四十をいくつか過ぎたくらいだろうか。女性は荷車を支えようとしたが、ひとりではどうにもならない。リンゴはなおも転がり続けていた。
リュシアの足元にも、ひとつ転がってきた。
リュシアは、しゃがんでそれを拾った。
赤いリンゴだった。艶やかで、手のひらにずしりと重い。
顔を上げると、ほかにもあちこちにリンゴが転がっていた。屋台の下、人の足元、石畳の溝。リュシアは立ち上がり、ひとつ、またひとつと拾い集めていった。肩掛けの裾を持ち上げて、そこにリンゴを入れていく。
フェリクスが荷車に駆け寄り、車輪を窪みから持ち上げた。周りにいた人たちも、それにつられるように手を貸しはじめた。
ほどなくして、リンゴは荷車の上に戻った。
「助かったよ、ほんとに助かった!」
女性は大きな手でリュシアの手を握り、ぶんぶんと振った。
「あんた、見ない顔だね。どこの子だい?」
「ハンナさん、この子、ベルノー爺さんのとこにいるんだ」
フェリクスが横から口を挟んだ。
「ベルノーさんの?あの偏屈爺さんの?」
ハンナと呼ばれた女性は、目を丸くしてリュシアをまじまじと見た。それから、荷車の一番上のリンゴをひとつ取って、前掛けでごしごしと磨き、リュシアの手に押しつけた。
「これ、お礼。今年一番の甘いやつだよ」
「あ、あの……」
「いいからいいから。拾ってくれた分のお駄賃だと思って」
リュシアは、手の中のリンゴを見下ろした。さっき拾ったリンゴより、ひとまわり大きく、赤く、つやつやと光っていた。
「……ありがとう、ございます」
「いいんだよ」
ハンナは豪快に笑った。それから、ふと思い出したように声をひそめた。
「そうそう、気をつけなよ。このあいだなんか、お城の兵隊さんたちがこの辺りの屋根の上まで覗き込んで、何か探し回ってたからね」
「兵隊?」
フェリクスが聞き返した。
「なんでも、陛下の可愛がってる小鳥が逃げたんだってさ。鳥一羽にあんな大騒ぎして、偉い人の考えることはわかんないねえ」
リュシアの指が、リンゴを握りしめた。
フェリクスは「へえ」と気のない返事をしただけだった。ハンナもそれ以上その話を続けることはなく、すぐに別の客の相手に戻っていった。
リュシアは、ゆっくりと息を吐いた。
手の中のリンゴが、ひどく重く感じられた。
◇
広場の真ん中に、時計塔があった。
石造りの、四角い塔だった。高さは、近くの家の屋根の倍ほど。てっぺんには文字盤があり、その上に小さな鐘楼が載っている。石の壁はところどころ黒ずみ、蔦が絡まり、文字盤の数字のいくつかは塗装が剥げて読めなくなっていた。
「これが、話してた時計塔」
フェリクスは塔の根元まで歩いていき、古い石壁を手のひらでぽんぽんと叩いた。
「古いだろ。俺のじいさんのじいさんの頃からあるらしい。で、とにかくよく止まる」
リュシアは、文字盤を見上げた。針は、太陽の高さからするとたしかに少し遅れているように見えた。
「俺さ、ガキの頃、ここで迷子になったことがあるんだ」
フェリクスは塔の石段に腰を下ろし、リュシアにも隣を示した。リュシアは少し迷ってから、そこに座った。
「祭りの夜でさ。六つくらいだったかな。母さんと手つないでたのに、人がすごくて、気づいたら離れてて。灯りはいっぱいあるのに、知ってる顔がひとつもなくて。怖くて怖くて、この塔の下でずっと泣いてた」
フェリクスは、照れくさそうに頭をかいた。
「そしたら、鐘が鳴ったんだ。ちょうど時間で。ゴーン、ゴーンって。それ聞いたら、なんか、ここにいればいいんだって思えてさ。泣くのやめて、鐘の下でじっと待ってたら、母さんが見つけてくれた」
「……鐘の、下で」
「そう。だからさ、この塔、ぼろいし、よく止まるし、文句言われてばっかりだけど、俺は結構好きなんだ」
フェリクスは塔を見上げた。琥珀色の瞳に、古い文字盤が映っていた。
リュシアも、塔を見上げた。
王宮の時計機構を思い出した。壁一面の歯車。硝子の室の中の羽根。誰にも見せず、誰にも聞かせず、ひとりのためだけに時を刻んでいた時計。
この塔は、違う。
広場にいる誰もが、見上げることができる。誰もが、その鐘の音を聞くことができる。迷子の子どもにさえ、ここにいればいいと教えてくれる。
そのとき、頭上で鐘が鳴った。
ゴーン、と、大きな音が広場に降ってきた。続けて、ゴーン、ゴーン。石段に座ったリュシアの身体の芯まで、その音は響いた。
広場の人々が、一瞬だけ顔を上げる。昼か、と誰かが言う。もうそんな時間か、と誰かが答える。
「……五分遅れてる」
フェリクスが、空の太陽を見上げて苦笑した。
リュシアは、鐘の音が消えていくのを聞いていた。
余韻が、空気の中にゆっくりと溶けていく。人々がまたそれぞれの話に戻り、それぞれの方向へ歩きはじめる。
明日も、この音を聞きたい。
ふと、そう思った。
明日も、ここへ来たい。明日も、あの雀たちに会いたい。明日も、この広場の人々の声を聞きたい。
それは、生まれて初めて抱いた、「明日」への願いだった。
◇
帰り道、日はゆっくりと傾きはじめていた。
路地を歩きながら、フェリクスがふと言った。
「そういえばさ」
「はい」
「リュシア、俺のこと、まだ一回も名前で呼んでないよな」
リュシアは足を止めた。
言われてみれば、そうだった。フェリクスは何度も自分の名前を呼んでくれたのに、自分はまだ一度も、彼を名前で呼んだことがなかった。
「……ごめんなさい」
「いや、謝ることじゃないって」
フェリクスは慌てて手を振った。
「ただ、なんて呼んでくれるのかなって、ちょっと気になっただけ」
リュシアは、少し考えた。
「……フェリクス、さん」
口にしてみると、思っていたよりずっと、くすぐったい響きだった。
「さん、かあ」
フェリクスは、少し困ったように笑った。
「呼び捨てでいいよ。爺さんなんて、俺のこと『おい』とか『若造』とかしか呼ばないし」
「……フェリクス」
言いかけて、喉の奥で言葉が詰まった。
「……さん」
結局、付け足してしまった。
フェリクスは一瞬きょとんとして、それから声を上げて笑った。
「いいよ、いいよ。無理しなくて」
「でも……」
「慣れたらでいい。そのうち、呼びたくなったら呼んでくれれば」
フェリクスはそう言って、また歩き出した。
リュシアはその背中を見つめた。広い背中だった。少し前を歩きながら、ときどき振り返って、リュシアがついてきているかを確かめてくれる。
急かさない人だ、と思った。
ベルノーもそうだった。何も聞かず、何も急かさず、ただ待ってくれる。この町の人たちは、みんなそうなのだろうか。
◇
工房に戻ると、ベルノーが作業台の前で懐中時計を分解していた。
「遅い」
「まだ日、暮れてないだろ」
フェリクスが抗議すると、ベルノーは窓の外をちらりと見て、ふん、と鼻を鳴らした。
リュシアは、肩掛けの中に大事に抱えてきたリンゴを、作業台の端にそっと置いた。
「ハンナさんに、いただきました」
「ハンナのとこのか。あそこのは甘い」
ベルノーは手を止めずに言った。
「食うなら剥いてやる。後でな」
「……はい」
リュシアは、リンゴの赤い肌を指先でなぞった。それから、作業台の前で背中を丸めているベルノーに向かって、小さな声で言った。
「ベルノーさん」
「なんだ」
「明日も、出かけてもいいですか」
ベルノーの手が、止まった。
拡大鏡を額に跳ね上げ、ゆっくりとこちらを振り返る。灰色の目が、じっとリュシアを見た。
「わしに聞くな」
「え……」
「おまえさんの足だ。おまえさんの好きにしろ」
それだけ言って、ベルノーはまた懐中時計に向き直った。
フェリクスが、横で小さく吹き出した。
リュシアは、作業場の窓から外を見た。夕陽が路地を橙色に染めていた。屋根の向こうから、遠く、時計塔の鐘の音がかすかに聞こえてきた。
昨日まで、窓の外は知らない場所だった。
今は、違う。
あの窓の向こうには、パンの屋台がある。雀たちがいる。ハンナさんのリンゴがある。迷子のフェリクスを待っていてくれた、古い時計塔がある。
明日も、行きたい場所がある。
リュシアは、作業台の上のリンゴをそっと両手で包んだ。




