5 王宮では(コンラート視点)
陛下の小鳥が消えた。
その報せを私が受け取ったのは、南方視察の三日目、領主の館で迎えた朝のことだった。
夜を徹して馬を飛ばしてきたという伝令は、泥にまみれた顔を青ざめさせ、膝をついたまま声を震わせていた。嵐の夜に、陛下の私室の鳥籠から、小鳥がいなくなった。王宮じゅうを探したが、どこにも見当たらない。
私は、まず耳を疑った。
それから、伝令の顔を見て、それが冗談でも聞き違いでもないことを悟った。
◇
私の名はコンラート。陛下の側近として、王宮の警護と軍の指揮を預かっている。
陛下にお仕えして、もう三十年になる。私が初めて王宮に上がったのは十八の年で、そのとき陛下はすでに、今と同じお姿をしておられた。淡い金の御髪。蜂蜜色の瞳。二十をいくつか過ぎたばかりの青年の、整いすぎるほどに整ったお顔立ち。
三十年経った今、私の髪は灰色になり、目尻には深い皺が刻まれた。陛下は、何ひとつお変わりにならない。
それについて、私は何も考えないことにしている。
王宮に仕える者は、皆そうだ。陛下が数百年にわたってこの国を治めておられることは、子どもでも知っている。なぜお変わりにならないのか、と問うことは、太陽がなぜ東から昇るのかと問うのに似ていた。答えを知ったところで、明日の朝に何かが変わるわけでもない。
大切なのは、陛下が賢明な王であられるということだった。
陛下の治世のもと、この国にはもう二百年以上、戦がない。飢饉の年には王宮の倉を開き、疫病の年には医師を村々へ遣わされた。裁きは公正で、税は重すぎず、軽すぎない。陛下が評議の席でお声を荒らげたところを、私は一度も見たことがなかった。
そして陛下のお側には、いつもあの小鳥がいた。
◇
手のひらに乗るほどの、小さな鳥だった。
真珠色の羽毛は、光の加減で淡く青や紫、若葉のような緑を帯びる。瞳はサファイアのように深い青で、尾羽だけが身体に比べて少し長い。この国のどこを探しても、同じ鳥は見つからないだろう。どこから来たのか、陛下がいつからあの鳥を飼っておられるのか、私は知らない。私が王宮に上がったときには、もう陛下の肩にとまっていた。
陛下は、あの鳥を片時もお離しにならなかった。
評議の席にも、謁見の間にも、祝典の場にも。王宮におられる限り、陛下の右肩にはいつもあの鳥がいた。鳥は鳴きもせず、騒ぎもせず、ただ静かに陛下の肩にとまって、居並ぶ臣下たちを見下ろしていた。
宮廷の者たちは、陛下があの鳥を寵愛されていることを、微笑ましいものとして受け止めていた。数百年を生きる孤独な王が、一羽の小鳥にだけは心を許しておられるのだと。
陛下はあの鳥を、リュシアと呼んでおられた。
その名前を知っている者は、王宮の中でもごく一部だ。陛下が鳥に向かってその名を口にされるのは、私的な場に限られていたからだ。私がそれを知ったのは、二十年ほど前、陛下の私室に呼ばれたときのことだった。
そのとき私は、初めてあの鳥籠を見た。
◇
正直に言えば、私はあれを見て、少し呆れた。
陛下の私室の中央に、黄金の鳥籠が据えられていた。それは鳥籠と呼ぶにはあまりにも大きく、豪奢だった。高さは天井近くまであり、広さは——不敬を承知で言えば——王宮の地下牢の一室ほどもあった。純金の格子は細やかな蔓草の意匠で飾られ、格子の内側には絹の寝台が置かれ、異国の織物が敷かれ、果物を盛った銀の皿が並んでいた。
その広大な空間の真ん中に、手のひらほどの小鳥が一羽、ちょこんととまっていた。
なんという贅沢だろう、と私は思った。
あの小さな身体に、寝台が要るだろうか。織物が要るだろうか。あれほどの広さが要るだろうか。陛下があの鳥にかける情は、ほとんど人に対するそれと変わらないのだと、私はそのとき思い知った。
部屋の壁には、古い時計の機構のようなものが据えつけられていた。無数の歯車が組み合わさった、奇妙な装置だった。何のための装置なのかはわからなかった。陛下は私の視線に気づかれると、ただ「古いものだ」とだけおっしゃった。私はそれ以上、尋ねなかった。
◇
南方から王宮へ戻る馬車の中で、陛下は一言もお話しにならなかった。
報せを受けたとき、陛下はほんの一瞬、まるで足元の床が抜けたかのような顔をなさった。それから、すぐに表情を消された。けれど、その蜂蜜色の瞳の奥で何かが凍りついたのを、私は確かに見た。
陛下は視察の残りの日程をすべて取り消し、その日のうちに帰途につかれた。
馬を替え、夜を徹して走った。普段であれば、陛下は決して民に無理を強いるようなことはなさらない。御者が疲れていれば休ませ、馬が息を切らせば足を止めさせる。それが、今回は違った。
「急げ」
陛下がおっしゃったのは、その一言だけだった。
何度も、何度も。
◇
王宮に戻ったのは、小鳥が消えてから二日目の夜更けだった。
陛下は馬車を降りるなり、出迎えの者たちに目もくれず、まっすぐ私室へ向かわれた。私はその後を追った。
私室の扉を開けた陛下は、戸口で足を止められた。
黄金の鳥籠の扉が、開いていた。
中には、誰もいなかった。絹の寝台も、銀の皿も、織物も、何ひとつ乱れてはいなかった。ただ、そこにいるはずの小さな鳥だけが、いなかった。
西の窓は、今は固く閉ざされていた。嵐の夜、侍従が窓を閉めずにおいたことが、小鳥が逃げた原因だと言われていた。もっとも、陛下ご自身が「窓は少し開けておけ」とお命じになっていたのだが、それを口にする者は誰もいなかった。
陛下は、しばらくのあいだ、空の鳥籠を見つめておられた。
それから、ゆっくりと、壁の時計機構のほうへ目を向けられた。
装置の中央に、硝子の小さな室のようなものがある。私が二十年前に見たときには、その中で何かがぼんやりと光っていた。今も、光っていた。けれど、その光は——気のせいだろうか——ひどく頼りないものに見えた。
陛下は、ご自分の右手の甲に目を落とされた。
長いあいだ、そうしておられた。
「……誰が」
陛下の唇から、低い声が漏れた。
「誰が、この扉を開けた」
その場にいた侍従長が、震えながら前に進み出た。
「お、恐れながら、陛下。誰も、籠には触れておりません。陛下のお言いつけどおり、侍従たちは餌と水を替えるときも、格子の隙間から差し入れるだけで——」
「では、なぜ開いている」
「そ、それは……」
侍従長は答えに窮し、床に額をこすりつけた。
誰にも、答えられなかった。あの扉は、陛下のお手でなければ開かないのだと聞いていた。どういう仕組みなのかは知らない。けれど少なくとも、小鳥が自分の嘴で開けられるようなものではないはずだった。
陛下は、侍従長を見下ろしておられた。
その沈黙が、どれほど続いたか。
「探せ」
陛下の声は、静かだった。
静かすぎた。
「王宮の中を、隅々まで。庭も、塔も、厩も、地下も。城壁の外も。城下も。この国のすべてを」
侍従長が顔を上げ、何か言いかけた。
その瞬間だった。
「探せと言っている!」
怒号が、私室の空気を引き裂いた。
私は、思わず背筋を伸ばした。侍従長は悲鳴のような声を上げて、再び床に伏した。廊下に控えていた衛兵たちが、何事かと顔を見合わせる気配がした。
陛下が、声を荒らげられた。
三十年お仕えして、一度も聞いたことのない声だった。
振り返ると、陛下はご自分の右手を左手で強く握りしめておられた。その指先に、血が滲むほどに。蜂蜜色の瞳が、見たこともないほど大きく見開かれている。そこに浮かんでいるのは怒りなのか、それとも——。
焦り、だろうか。
私は、その考えを急いで打ち消した。陛下が何を焦られることがあるだろう。たかが一羽の小鳥のことで。
いや。
たかが、ではないのだ。陛下にとって、あの鳥は。
「コンラート」
「は」
「兵を出せ。夜が明けたらすぐにだ。真珠色の小さな鳥。見つけた者には褒美を取らせる。ただし——」
陛下は、一度言葉を切られた。
「ただし、決して傷つけるな。羽根一枚、損なうことは許さん。生きたまま、私のもとへ連れてこい」
「かしこまりました」
私は深く頭を下げた。
◇
私室を辞した後、私は長い廊下を歩きながら考えていた。
なぜ、あの鳥は逃げたのだろう。
あれほど大切にされていたではないか。黄金の籠に住まい、絹の寝台で眠り、王その人の肩にとまって日々を過ごす。餌に困ることもなく、寒さに凍えることもなく、鷹に襲われる恐れもない。この国のどんな鳥も、いや、どんな人間でさえ、あれほどの扱いを受けたことはないだろう。
それを捨てて、嵐の夜の空へ飛び出していった。
鳥の考えることは、わからない。
外の世界は、あの小さな鳥にとって決して優しくはないはずだ。雨に打たれ、風に飛ばされ、腹を空かせた猫や鷹に狙われる。今頃はもう、どこかの路地で冷たくなっているかもしれない。
なんとも愚かなことだ、と私は思った。
あの籠の中にいれば、何ひとつ不自由はなかったものを。
廊下の窓から、城下の町が見えた。夜の闇の中に、ぽつぽつと家々の明かりが灯っている。あのどこかに、あの鳥がいるのだろうか。
背後で、また陛下の声がした。何を言っておられるのかは聞き取れなかった。ただ、その声がひどく掠れていたことだけが、耳に残った。
私は、窓から目を逸らした。
今夜の陛下は、私の知っている陛下ではなかった。穏やかで、賢明で、決して声を荒らげない王。数百年にわたってこの国を治めてきた、揺るぎない王。
その王が、一羽の小鳥を失っただけで、あれほどまでに取り乱しておられる。
あの鳥が陛下のお側にいた日々のことを、私は思い出していた。陛下の右肩で静かに羽を休める真珠色の鳥。その姿を、臣下たちは微笑ましく見守っていた。陛下が穏やかでおられるのは、あの鳥がいるからだと、冗談めかして言う者もいた。
あれは、冗談ではなかったのかもしれない。
そんな考えが、ふと頭をよぎった。
私は、首を振ってそれを追い払った。
夜が明けたら、兵を出さねばならない。探さねばならない。真珠色の、小さな鳥を。
陛下のために。この国のために。
それが、私の務めだった。
◇
翌朝、夜が白むのを待たずに、私は兵を集めた。
王宮の中庭に、松明を手にした兵たちが並んでいた。まだ眠気の抜けない顔、何事かと訝しむ顔、命令とあらば何でもするという顔。私は彼らの前に立ち、陛下のお言葉をそのまま伝えた。真珠色の小さな鳥。決して傷つけるな。生きたまま連れてこい。
兵たちは顔を見合わせた。
解散の号令をかけた後、一人の若い兵が、おずおずと私のもとへやってきた。今年王宮に上がったばかりの、まだ頬の丸い若者だった。
「恐れながら、隊長。お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「その……たかが鳥一羽のために、これほどの兵を?」
私は、若者の顔をじっと見た。若者は自分の言葉の重さに気づいたのか、たちまち青ざめて背筋を伸ばした。
「陛下のご命令だ」
私はそれだけ言った。
「は、はい。失礼いたしました」
若者は逃げるように持ち場へ戻っていった。
私はその背中を見送りながら、自分が口にした言葉を、口の中でもう一度転がしていた。陛下のご命令だ。それ以上の理由は要らない。三十年間、私はずっとそうやって生きてきた。
それなのに、なぜだろう。若者の問いは、昨夜の陛下の怒号と同じように、耳の奥にいつまでも残っていた。
兵たちが庭の茂みをかき分け、塔の階段を駆け上がり、厩の藁をひっくり返していく。侍女のひとりが、陛下の私室の床に落ちていたという小さな羽毛を持ってきた。琥珀色の、綿毛のようなものだった。探している鳥の色ではない。どこかから迷い込んだ雀のものだろうと、私はそれを捨てさせた。
昼前には、別の報せが届いた。嵐の夜、陛下の私室に餌を運んだ見習いの侍女が、侍従長に呼び出されて泣いているという。
様子を見に行くと、まだ十四、五の娘が、廊下の隅で肩を震わせていた。陛下の留守中に、厨房からくすねた葡萄を籠の中に入れたのだという。それが逃げた原因ではないかと、侍従長に詰め寄られていた。
「わ、わたし、ただ……陛下がいなくて、寂しそうだったから」
娘は泣きじゃくりながら言った。
「あんなにきれいなところにいて、何でもあって。それなのに、なんだか、ずっとひとりぼっちみたいに見えたから」
私は侍従長を下がらせ、娘を持ち場に戻した。葡萄一粒で鳥が逃げるはずもない。
だが、ひとりぼっち、という娘の言葉は、なぜか胸の隅に引っかかったまま、なかなか離れていかなかった。
城門が開き、兵たちが城下へと散っていく。
その上の空を、陽の光を浴びた鳥が一羽、ゆっくりと横切っていった。
私は、目もくれなかった。




