4 時計屋の朝
工房の朝は、音から始まる。
リュシアがそれに気づいたのは、ここで迎える二度目の朝のことだった。
夜明け前、まだ窓の外が青灰色にくすんでいる頃、最初に鳴るのは表の部屋の大きな振り子時計だ。ゴーン、と低く、腹の底に響くような音。それを合図にしたように、壁のあちこちで小さな時計たちが、思い思いの音で時を告げる。カッコウと鳴く鳩時計。チリリと震える小さな鐘。少し遅れて、思い出したようにポーンと鳴る古い置き時計。
どれも、少しずつずれていた。
ベルノーに言わせれば、「修理待ちの連中だから当たり前だ」ということらしい。ここにある時計の半分は客から預かったもので、残りの半分はベルノーが「そのうち直す」と言いながら何年も放っておいたものだという。
リュシアは、その不揃いな音が嫌いではなかった。
王の私室の時計機構は、たったひとつの音しか鳴らさなかった。チク、タク。チク、タク。寸分の狂いもなく、永遠に同じ拍子で。それに比べてこの工房の音は、てんでばらばらで、騒がしくて、まるで大勢の人が一斉に話しているようだった。
時計たちの合唱が終わる頃、廊下の向こうから、ベルノーが咳払いをする音が聞こえてくる。それから、竈に火を入れる音。薪がはぜる音。鍋が置かれる音。
それが、この家の朝だった。
◇
片づけられた物置部屋は、リュシアが両腕を広げればほとんど壁に手が届くほどの広さだった。
小さな窓がひとつ。寝台がひとつ。古い衣装箱がひとつ。壁には釘が打たれていて、そこにベルノーが古着屋で見繕ってきたという服が掛けられていた。生成りの木綿のブラウスと、くすんだ青のスカート。それに、毛糸で編まれた焦げ茶の肩掛け。
初めてその服を着ようとしたとき、リュシアはひどく手間取った。
ブラウスの釦が、うまく留められなかったのだ。
小さな木の釦を、小さな穴に通す。ただそれだけのことなのに、指が思うように動かない。釦をつまんだと思ったら滑り落ち、穴に押し込もうとすると布ごとよじれる。王宮では、少女の姿でいるときも、身につけるのは頭からかぶるだけの薄い衣だった。釦のついた服など、着たことがなかった。
一番上から順に留めていって、最後のひとつで穴が足りないことに気づいた。最初からずれていたのだ。
リュシアはため息をつき、全部外して、もう一度一番下からやり直した。
部屋を出たのは、それからずいぶん経ってからだった。
台所の竈の前で鍋をかき混ぜていたベルノーが、ちらりとこちらを見た。何か言われるかと思ったが、ベルノーはただ「座れ」と顎で椅子を示しただけだった。釦がひとつ、まだ少し斜めに留まっていることには、気づいていたはずなのに。
◇
食べることにも、少しずつ慣れていった。
朝は、たいてい麦の粥だった。ベルノーは粥に蜂蜜を垂らし、刻んだ干し葡萄を散らす。昼はパンとチーズ、ときどき燻製の腸詰め。夜は、最初の日に食べたような野菜のスープ。
リュシアは、熱いものを冷まして食べることを覚えた。固いパンはスープに浸すと食べやすいことも、チーズは薄く切ったほうがおいしいことも覚えた。
ある朝、ベルノーが粥の鍋を前にして、ふと手を止めた。
「蜂蜜と、ジャム」
「……え?」
「どっちがいい」
棚の上に、蜂蜜の壺と、赤いジャムの瓶が並んでいた。ベルノーはその二つを交互に顎で示し、リュシアの返事を待っていた。
リュシアは、二つの瓶を見つめた。
どちらがいいのだろう。
わからなかった。どちらも食べたことはある。蜂蜜は昨日の粥に入っていた。ジャムはその前の日のパンに塗ってあった。どちらもおいしかった。けれど、どちらがいいかと聞かれると、急に頭の中が白くなった。
王宮では、何も選ばなくてよかった。食べるものも、着るものも、眠る場所も、すべて王が決めてくれた。リュシアはただ、与えられたものを受け取ればよかった。
「……ベルノーさんの、お好きなほうで」
リュシアがそう言うと、ベルノーは眉間に皺を寄せた。
「わしの好みを聞いとるんじゃない」
「……」
「おまえさんが食うもんだ。おまえさんが決めろ」
ベルノーは、それきり黙った。
鍋をかき混ぜる手も止めて、ただ待っている。急かすでもなく、苛立つでもなく。壁の時計がコチコチと鳴る音だけが、台所に満ちていた。
リュシアは、もう一度二つの瓶を見た。
蜂蜜は、金色だった。窓から差し込む朝の光を受けて、壺の口でとろりと光っている。その色が、なぜか、あの日窓の外を飛んでいた鳥を思い出させた。
「……蜂蜜、を」
声が小さくなった。
ベルノーは何も言わずに蜂蜜の壺を取り、粥の上にたっぷりと垂らした。
それから、椀をリュシアの前に置いた。
「ほれ」
リュシアは匙を取り、粥を口に運んだ。
甘かった。昨日と同じ味のはずだった。けれど、なぜか昨日よりおいしく感じられた。
自分で選んだからだろうか。
そんなことで、味が変わるものなのだろうか。
リュシアは不思議に思いながら、ゆっくりと粥を食べ終えた。
◇
眠ることにも、慣れていった。
最初の夜は、ほとんど眠れなかった。寝台が狭く、毛布が重く、窓の外から聞こえる音が気になった。酔っぱらいの歌声。野良犬の遠吠え。夜回りの拍子木。王宮の私室は、夜になると時計機構の音のほかには何も聞こえなかった。
それに、格子がないことが、落ち着かなかった。
寝台の周りに何もない。手を伸ばせば、その先には何でもあった。壁にも、扉にも、窓にも、自分で触れることができる。そのことが、嬉しいよりも先に、心許なかった。
けれど二晩目、三晩目と過ごすうちに、リュシアは工房の夜の音を覚えていった。
夜回りの拍子木は、決まって真夜中に一度、明け方に一度通る。野良犬は東の路地にいて、月が明るい夜ほどよく吠える。酔っぱらいの歌声は、角の酒場が閉まる頃に聞こえて、少しずつ遠ざかっていく。
そして、そのすべての音の向こうで、工房の時計たちがばらばらに時を刻んでいる。
ある夜、リュシアは、その音を数えているうちに眠っていた。
目を覚ましたときには、もう窓の外が明るかった。夢も見なかった。背中も痛まなかった。ただ、深く眠ったあとの、身体の芯がほどけたような心地よさが残っていた。
眠るというのは、こういうことだったのか。
リュシアは毛布にくるまったまま、しばらく天井の梁を見上げていた。
◇
手を動かすことも、少しずつ覚えた。
ベルノーは、リュシアに何かをしろとは言わなかった。工房の仕事を手伝えとも、家事をしろとも言わない。リュシアが部屋にいれば放っておき、台所に来れば「座れ」と言い、作業場に来れば何も言わずに仕事を続けた。
リュシアは、たいてい作業場の隅の椅子に座って、ベルノーの手元を見ていた。
ベルノーの手は、大きくて節くれだっていて、指先にはいくつもの古い傷があった。けれどその手が時計に触れると、まるで別の生き物のように繊細に動いた。ピンセットで米粒ほどの歯車をつまみ、拡大鏡越しに覗き込みながら、ほんのわずかな角度で軸に差し込む。細いねじを、ねじ回しの先で少しずつ締めていく。
口では「この馬鹿時計め」「誰がこんな雑な直し方をしやがった」などとぶつぶつ文句を言っているのに、その手つきはどこまでも優しかった。
ある日、リュシアは作業台の端に転がっていた小さなねじを拾い上げた。
指先に載るほどの、銀色のねじだった。それを、作業台の上の小皿に戻そうとした。ただそれだけのことだったのに、ねじは指から滑り落ち、床を転がって、作業台の下の暗がりへ消えていった。
「あ……」
リュシアは慌てて床に膝をつき、作業台の下を覗き込んだ。暗くて何も見えない。
「放っとけ」
ベルノーが顔も上げずに言った。
「でも……」
「そこらじゅうに落ちとる。ひとつ増えたところで変わらん」
それでもリュシアは、床に這いつくばって手を伸ばした。指先が、埃と、木屑と、何かの金属片に触れた。いくつか拾い上げて明るいところで見てみると、どれもねじや小さな歯車だった。ベルノーの言うとおり、ここにはたくさん落ちているらしい。
最後に、さっきの銀色のねじが見つかった。
リュシアはそれを手のひらに載せて、立ち上がった。それから、ほかに拾ったものも一緒に、そっと小皿に戻した。
ベルノーは何も言わなかった。けれど、拡大鏡の下で、灰色の目がちらりとこちらを見たような気がした。
◇
フェリクスは、毎日のように工房に顔を出した。
修理を頼みに来ることもあれば、ただ通りがかりに寄っただけということもあった。表の扉の鈴がカランと鳴り、「爺さーん」という声が聞こえると、ベルノーが「爺さんと呼ぶな」と返す。それが挨拶のようなものらしかった。
明るい場所で見ると、フェリクスは思っていたより若かった。二十を少し過ぎたくらいだろうか。日に焼けた顔に、笑うと目尻に浅い皺が寄る。鼻の頭に小さな火傷の痕がひとつあって、本人いわく「見習いの頃、爺さんの焼きごてに突っ込んだ」のだそうだ。栗色の髪は相変わらずあちこち跳ねていて、ときどき作業中に邪魔になるのか、無造作に紐でくくっていた。
背が高いので、工房の低い梁の下ではいつも少し身をかがめて歩く。それでも三回に一回くらいは、どこかの梁に頭をぶつけて「いってえ」と声を上げた。そのたびにベルノーが「学習しろ」と言った。
フェリクスはよく喋った。
町の話を、いろいろと聞かせてくれた。
市場の果物売りのハンナさんのところのリンゴが、今年はとびきり甘いこと。広場の時計塔が、また五分遅れていたこと。鍛冶屋のハインツさんは無口だが、腕は町で一番だということ。パン屋の婆ちゃんが、直った置き時計を見て泣いて喜んだこと。角の酒場の亭主が、また奥さんに怒られて店の前で正座させられていたこと。
リュシアは、たいてい黙って聞いていた。フェリクスも、無理に返事を求めなかった。リュシアが小さく頷いたり、首を傾げたりするだけで、彼は嬉しそうに話を続けた。
「広場の時計塔ってさ、俺がガキの頃からずっとあるんだけど、とにかくよく止まるんだよ。古いし、作りも雑だし。俺が見習いになって最初に任された仕事が、あれの油差しだったんだ」
フェリクスは作業場の窓際に寄りかかり、腕を組んで笑った。
「てっぺんまで梯子で上ってさ。めちゃくちゃ高くて、足がすくんで。でも、上から見る町がさ、すごくいいんだよ。屋根がずーっと続いてて、煙突から煙が上がってて、市場の天幕がこう、色とりどりで」
リュシアは、その光景を思い浮かべようとした。
あの嵐の夜、空から見下ろした町を思い出す。雨に濡れた黒い屋根瓦。閉ざされた窓。かすかな明かり。あのときは、何も見えなかった。ただ暗い海のような屋根の連なりが、足元に広がっていただけだった。
晴れた日の町は、どんなふうに見えるのだろう。
「……市場には、何がありますか」
気づけば、そう尋ねていた。
フェリクスが、少し驚いたように目を瞬かせた。リュシアのほうから何かを聞いたのは、これが初めてだった。
それから、彼はぱっと笑顔になった。
「何でもあるよ。果物に野菜に、魚に肉に。布屋に古着屋に、金物屋に。朝早く行くと、焼きたてのパンの屋台が出ててさ。あれがうまいんだ。それから、大道芸人がいたり、吟遊詩人が歌ってたり」
フェリクスは指を折りながら、次々と並べていった。
「あと、鳥がいっぱいいる。屋台からこぼれたパン屑とか麦とか狙ってさ。鳩とか、雀とか。たまに見たことない色のやつもいる」
鳥。
その言葉に、リュシアの胸がかすかに鳴った。
◇
その夜、リュシアは物置部屋の小さな窓から、外を見ていた。
窓の外には、隣の家の壁と、狭い路地と、細長く切り取られた夜空があった。空には星が出ていた。王宮の私室の大きな窓から見る空よりも、ずっと狭い空だった。
けれどこの窓には、格子がなかった。
リュシアは窓枠に手をかけ、そっと押してみた。窓は軋みながら外へ開き、夜の空気が流れ込んできた。
パンの匂いがした。どこかの家の夕餉の匂い。路地の湿った石の匂い。遠くで誰かが笑っている声。
この窓の向こうに、町がある。
フェリクスが話してくれた市場がある。甘いリンゴを売るハンナさんがいる。腕のいい鍛冶屋のハインツさんがいる。よく止まる広場の時計塔がある。たくさんの鳥がいる。
王宮の窓から見ていた景色とは違う。あれは、ただの景色だった。遠くにあって、手の届かない、絵のようなもの。
けれどこの窓の向こうにあるものは、違う。
扉を開けて、歩いていけば、たどりつけるのだ。
リュシアは、自分の手を見た。釦を留められるようになった手。匙を持てるようになった手。床に落ちたねじを拾えるようになった手。
この手で、扉を開けることもできる。
ふと、怖くなった。外に出れば、誰かに見つかるかもしれない。王宮の人間がいるかもしれない。この町は王宮のすぐそばにある。見上げれば、屋根の向こうに王宮の尖塔が見えるのだ。
それでも。
それでも、見てみたいと思った。
自分の目で。自分の足で。
◇
翌朝、フェリクスが工房に来たとき、リュシアは作業場の入り口で彼を待っていた。
フェリクスは扉をくぐった瞬間に、いつものように梁に頭をぶつけかけ、ぎりぎりのところで身をかがめた。それから、入り口に立っているリュシアに気づいて、目を丸くした。
「お、おはよう。どうした?」
リュシアは、両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
言葉が、喉の奥でつかえていた。こんなことを言ってもいいのだろうか。迷惑ではないだろうか。そういう考えが、次々と浮かんでは消えていく。
作業場の奥で、ベルノーが拡大鏡を額に跳ね上げる気配がした。けれど、何も言わなかった。いつものように、ただ待っていた。
リュシアは、息を吸った。
「……外に」
声が震えた。もう一度、息を吸い直す。
「外に、出てみたいです。町を、見てみたいです」
言ってしまった。
自分で、言ってしまった。
フェリクスは一瞬、ぽかんとした顔をした。それから、ゆっくりと、顔いっぱいに笑みを広げた。
「いいよ」
彼は、まるでそれが世界で一番当たり前のことであるかのように言った。
「案内する。今日はちょっと仕事が詰まってるから——明日なら一日空けられる。それでいい?」
リュシアは、こくりと頷いた。
胸の奥で、何かが小さく羽ばたいた気がした。
作業場の奥で、ベルノーがふん、と鼻を鳴らした。それから、拡大鏡を目に下ろして、また黙々と時計の修理に戻った。
けれどリュシアは見逃さなかった。
その白い髭の奥で、口の端がほんの少しだけ持ち上がったのを。




