3 時計屋の老人
最初に聞こえたのは、音だった。
チク、タク、チク、タク。
リュシアは目を閉じたまま、その音を聞いていた。聞き慣れた音だ。王の私室の、壁一面の時計機構の音。だから自分はまだ、あの籠の中にいるのだと思った。昨夜のことは夢だったのだ。嵐も、開いた扉も、雨に濡れた石畳も。
けれど、何かが違った。
音が、多すぎるのだ。
チク、タク、という音の向こうに、別の音が重なっている。もっと速い、コチコチという音。もっとゆっくりとした、コトン、コトンという音。高い音、低い音、かすれた音、澄んだ音。ばらばらの拍子で刻まれる無数の音が、雨上がりの朝の空気の中で、絡まり合いながら響いていた。
リュシアは目を開けた。
見知らぬ天井だった。
黒ずんだ太い梁が渡され、そこから乾燥させた薬草の束がいくつか吊り下げられている。漆喰の壁には細かなひびが走り、その壁という壁に、時計が掛けられていた。
大きな振り子時計。小さな鳩時計。文字盤が欠けたもの、針が一本しかないもの、硝子の覆いの中で歯車がむき出しになったもの。どれも時を刻んでいたが、どれも少しずつ違う時刻を指していた。
リュシアは、狭い寝台の上に横たわっていた。
毛布が二枚、身体の上にかけられている。どちらも古く、ところどころ継ぎが当ててあった。肌に触れる敷布は絹ではなく、ごわごわとした麻で、日向の匂いがした。
着ているものも違っていた。濡れた薄衣ではなく、大きすぎる男物の寝間着だった。袖が指先まで届き、襟元がだらりと開いている。
身体を起こそうとして、リュシアは小さく息を呑んだ。
背中が、軽かった。
少女の姿のとき、いつもそこにあった翼の重みがない。手を回して触れてみると、薄い寝間着越しに、ただ肩甲骨の硬さがあるだけだった。
昨夜、路地に落ちたときのことを思い出す。翼のない姿。それが、まだ続いている。
怖いとは思わなかった。ただ、ひどく不思議だった。背中にあるはずのものがない。それなのに、身体は軽く、どこも痛まない。羽根を抜かれた跡の疼きさえ、今はなかった。
「起きたか」
声がして、リュシアは顔を上げた。
部屋の入り口に、老人が立っていた。
小柄ではない。背は高いほうだが、少し腰が曲がっている。白い髪は四方八方に乱れ、寝癖なのか生まれつきなのか判別がつかない。顎からは同じく白い髭が胸のあたりまで伸びていた。額には丸い拡大鏡を革紐で留めていて、それが額の上で、もうひとつの目のようにこちらを見ている。身につけているのは、使い込まれて飴色になった革の前掛けだった。前掛けのポケットからは、ねじ回しやピンセットの柄が何本も突き出している。
深い皺に囲まれた灰色の目が、じっとリュシアを見ていた。
昨夜の声の主だ、と思った。ランタンの明かりと、白い髭。温かくて大きな手。
「……あの」
声がかすれた。喉がからからに渇いていた。
老人は鼻を鳴らすと、部屋の隅の棚から木の杯を取り、水差しから水を注いで差し出した。
「飲め。話はそれからだ」
リュシアは両手で杯を受け取った。思っていたより重く、少しこぼしてしまった。老人は何も言わず、ただ眉間の皺を一本増やした。
水は冷たく、かすかに鉄の味がした。王宮の銀の水差しの水とは違う味だった。けれど喉を通っていくと、身体の奥まで沁みていくようだった。気づけば、杯は空になっていた。
「もう一杯いるか」
「……はい」
老人はもう一度水を注いだ。リュシアは今度はゆっくりと飲んだ。
「熱は下がったな」
老人は寝台の横の椅子にどかりと腰を下ろし、リュシアの額に手の甲を当てた。ごつごつとした、油の匂いのする手だった。
「熱、が……?」
「出てたんだよ。一晩中な。あんな雨の中で寝てりゃ当たり前だ」
そうだったのか、とリュシアは思った。何も覚えていなかった。
「あの……ここは」
「時計屋だ。見りゃわかるだろう」
老人は壁の時計をぐるりと顎で示した。
「わしはベルノー。ここの主だ。と言っても、主も何も、わし一人しかおらんがな」
「ベルノー……さん」
「おまえさん、名前は」
リュシアは少し迷った。
名前を呼ぶのは、ずっと王だけだった。ほかの誰も、リュシアの名前を知らない。王宮の人々にとって、自分は「陛下の小鳥」でしかなかった。
この名前を口にしてよいのだろうか。
けれど、ほかに名乗る名前を、リュシアは持っていなかった。
「……リュシア、です」
「リュシアか」
ベルノーはその名前を、口の中で一度転がすように繰り返した。それ以上、何も言わなかった。
リュシアは身構えていた。どこから来たのか。なぜあんなところに倒れていたのか。家はどこか。家族はいるのか。そういうことを、きっと聞かれるのだろうと思っていた。聞かれたら、何と答えればいいのだろう。嘘をつくことには慣れていない。かといって本当のことを言えば、この人をどんな目に遭わせるかわからない。
けれどベルノーは、何も聞かなかった。
椅子から立ち上がり、腰を叩きながら部屋を出ていく。戸口のところで、振り返りもせずに言った。
「腹は減ってるか」
「え……」
「減ってるかと聞いてる」
リュシアは自分の腹に手を当てた。言われてみれば、身体の奥がしんと冷えて、空っぽになっているような感じがした。これが腹が減っているということなのだろうか。
「……たぶん」
「たぶん、ときたか」
ベルノーは呆れたように肩をすくめ、廊下の向こうへ消えた。
◇
ほどなくして、ベルノーは盆を持って戻ってきた。
盆の上には、湯気の立つ椀がひとつと、厚く切ったパンが二切れ載っていた。椀の中身は、野菜をくたくたに煮込んだスープだった。玉ねぎと人参と、何かの豆。表面にうっすらと油が浮いている。
「食え」
ベルノーは盆を寝台の上に置くと、自分はまた椅子に座って、前掛けのポケットから小さな懐中時計を取り出した。蓋を開け、額の拡大鏡を目に下ろして、中を覗き込む。どうやら修理の途中らしい。リュシアのほうは見ていなかった。
リュシアは椀を両手で包んだ。熱かった。指先がじんと痺れる。
匙を取り、スープをすくって口に運んだ。
熱さに驚いて、少しむせた。向かいの席のベルノーの真似をして、匙の上のスープに息を吹きかけてから、もう一度口に入れた。
塩の味がした。それから、玉ねぎの甘さ。豆のほっくりとした歯ざわり。
王宮の食事は、いつも美しかった。銀の皿に、色とりどりの果物や菓子が並べられていた。けれどリュシアはそれを、ほとんど鳥の姿でついばむだけだった。少女の姿で、匙を使って、温かいものを食べる。そのことが、ひどく新鮮に感じられた。
二口、三口と食べるうちに、身体の内側から温かさが広がっていった。冷えて固まっていた指先に、血が通いはじめる。
パンもちぎって食べた。固く、噛むたびに顎が疲れた。けれどスープに浸すと柔らかくなって、麦の香ばしさが口に広がった。
気づけば、椀は空になっていた。
リュシアは匙を置き、しばらく空の椀を見つめていた。
「……おいしかった、です」
ベルノーは懐中時計から目を離さないまま、「そうか」とだけ言った。
けれどその声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
◇
カラン、と扉の鈴が鳴った。
「爺さん、いるかー?」
明るい声が、工房の表のほうから響いてきた。
ベルノーが拡大鏡を額に跳ね上げ、露骨に顔をしかめた。
「爺さんと呼ぶなと何べん言ったらわかる」
「あ、いたいた」
足音が近づいてきて、戸口からひょいと顔が覗いた。
若い男だった。
戸口の上の梁に頭をぶつけそうになり、慣れた仕草で身をかがめて入ってくる。背が高く、肩幅が広い。日に焼けた腕には細かな傷がいくつもあり、袖をまくった腕は太く引き締まっていた。乱れた栗色の髪があちこちに跳ねていて、それを片手でかき上げながら、彼は部屋の中を見回した。
そして、寝台の上のリュシアと目が合った。
琥珀色の瞳だった。
リュシアは、思わず息を止めた。
あの日、窓の外を飛んでいた鳥と同じ色。陽の光を閉じ込めたような、深く温かい金色。
「お。目、覚めたんだ」
若い男は、ぱっと顔をほころばせた。
屈託のない笑顔だった。目尻が下がり、白い歯がこぼれる。その笑顔を向けられた瞬間、リュシアの肩から、知らず知らずのうちに入っていた力がふっと抜けた。
「よかった。熱、下がったみたいだな」
「……?」
リュシアが首を傾げると、彼は「あ」と小さく声を上げ、頭をかいた。
「いや、ごめん。いきなり。俺、フェリクス。この近くで時計屋やってる。爺さんの、まあ、元弟子みたいなもん」
「みたいなもん、じゃない。弟子だ。それも出来の悪い」
「ひどいな」
フェリクスは笑いながら、腕に抱えていた布包みを作業台の上に置いた。布をほどくと、中から古い置き時計が出てきた。木の枠に細かな彫刻が施され、文字盤の硝子にはひびが入っている。
「これさ、パン屋の婆ちゃんのとこの。昨日から止まっちまって、開けてみたんだけど、脱進機のあたりがどうもおかしくて。俺じゃ手に負えないから、見てもらえないかなって」
「自分で直せ」
「直せないから持ってきたんだって」
「なら、直せるようになれ」
「だからそのために見せてくれって言ってんの」
二人のやりとりを、リュシアは寝台の上から黙って見ていた。
言葉はとげとげしいのに、少しも険悪な感じがしなかった。ベルノーは文句を言いながらも、もう置き時計を手に取って、裏蓋を開けている。フェリクスはその横に立ち、身をかがめて覗き込んでいる。
不思議な光景だった。王宮では、誰もがみな言葉を選び、声を低め、決して相手の言葉を遮らなかった。王に向かって「ひどいな」などと言う者は、一人もいなかった。
「ああ、これはな」
ベルノーが拡大鏡を下ろし、ピンセットの先で歯車のひとつを示した。
「爪が欠けてる。ここが噛まんから、振り子が力を受け取れん。替えの部品は——あったはずだ。奥の棚の、三段目の左の箱」
「わかった」
フェリクスは奥の棚へ向かいかけて、ふと足を止め、寝台のほうを振り返った。
「そういえば、まだ名前、聞いてなかったな」
リュシアは一瞬、ベルノーのほうを見た。ベルノーは置き時計から目を上げなかった。
「……リュシア、です」
「リュシアか」
フェリクスはその名前を、まるで珍しい部品を手のひらに載せたときのように、少し大事そうに繰り返した。
「いい名前だな。よろしく、リュシア」
名前を呼ばれた。
王以外の誰かに名前を呼ばれるのは、初めてだった。
リュシアは、どう答えればいいのかわからなかった。だから、ただ小さく頷いた。
フェリクスはそれで十分だというように、また笑って、奥の棚へと歩いていった。
◇
昼過ぎになって、置き時計の修理は終わった。
フェリクスが部品を付け替え、ベルノーがそれを見ながら何度も「違う」「そこじゃない」「だから言っただろう」と口を挟んだ。最後に振り子を揺らすと、置き時計はコトン、コトンと、ゆっくりとした音で時を刻みはじめた。
「よし」
フェリクスは満足そうに腕を組んだ。
「婆ちゃん、喜ぶぞ。この時計、旦那さんの形見なんだってさ」
「なら、二度と落とすなと言っておけ」
「言っとく言っとく」
フェリクスは置き時計を布で包み直し、腕に抱えた。それから寝台のほうを見た。
リュシアはずっとそこにいた。寝台の上で膝を抱え、時計の修理を見ていた。何をしているのかはほとんどわからなかったが、歯車が組み合わさり、止まっていたものがまた動き出す、その瞬間だけは、なぜか目が離せなかった。
「なあ、爺さん」
フェリクスが、声を少しだけ落とした。
「この子、どうすんの」
リュシアは身体を固くした。
そうだ。ここにずっといられるわけではない。自分はただ、路地で拾われただけの者だ。熱が下がったなら、出ていかなくてはならない。
けれど、どこへ。
王宮には、戻りたくなかった。それだけははっきりしていた。数日前までは、そんなことを考えたこともなかったのに。今は、あの黄金の格子のことを思い出すだけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。
けれど、ほかに行く場所を、リュシアは知らなかった。
ベルノーは作業台の上の道具を片づけながら、ぶっきらぼうに言った。
「どうもせん」
「どうもせんって」
「行く当てがあるなら行けばいい。ないなら、いればいい。それだけのことだ」
リュシアは顔を上げた。
ベルノーはこちらを見ていなかった。ねじ回しを一本ずつ前掛けのポケットに戻しながら、まるで天気の話でもするように続けた。
「奥にもう一部屋ある。物置にしとったが、片づければ寝るくらいはできる。飯は一人分も二人分も手間は変わらん」
「……あの」
リュシアは、やっとのことで声を出した。
「どうして、ですか」
「何がだ」
「どうして……何も、聞かないのですか」
ベルノーの手が、一瞬だけ止まった。
それから、最後のねじ回しをポケットに差し込み、ようやくリュシアのほうを見た。灰色の目が、拡大鏡の下から、静かにこちらを見つめていた。
「聞いてほしいのか」
リュシアは、答えられなかった。
「なら、聞かん」
ベルノーはそう言って、また背を向けた。
「話したくなったら話せばいい。ならんなら、それでいい。時計だってな、無理にこじ開けりゃ壊れる。開くときが来りゃ、勝手に開く」
フェリクスが、小さく笑った。
「爺さん、たまにいいこと言うよな」
「たまにとはなんだ」
ベルノーはフェリクスの背中を軽く小突き、フェリクスは大げさに痛がってみせた。
それから、フェリクスはリュシアのほうへ向き直った。
「だってさ。よかったな、リュシア」
リュシアは、二人の顔を交互に見た。
白い髭の老人と、栗色の髪の若者。どちらも、昨日まで知らなかった人たちだ。
壁の時計たちが、ばらばらの拍子で時を刻んでいる。チク、タク。コチコチ。コトン、コトン。その音の中に、自分の心臓の音がまぎれているような気がした。
「……しばらく」
リュシアは、小さな声で言った。
「しばらく、ここに、いさせてください」
ベルノーは振り返らず、ただ片手をひらりと振った。
フェリクスが、また笑った。
その笑顔を見ながら、リュシアは思った。この人の瞳の色は、やはり、あの鳥と同じだ。




