2 嵐の夜
王が南方へ発った朝は、よく晴れていた。
出立の前、王は長いあいだ鳥籠の前に立っていた。リュシアはすでに鳥の姿で、絹の寝台の上にとまっていた。王は格子越しに指を差し入れ、その小さな頭を撫でた。
「四日だけだ。いい子で待っていておくれ」
リュシアは首を傾げるようにして、その指先に頭を寄せた。そうすると王が喜ぶことを知っていた。
王は微笑み、侍従に向き直った。
「窓は少し開けておけ。この子は閉め切った部屋を嫌う。餌は朝と夕に。水は欠かさないように。それから、誰も籠には触れさせるな」
「かしこまりました」
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。廊下の向こうで馬のいななきが聞こえ、やがて車輪の音が石畳を離れていった。
部屋には、時計機構の音だけが残った。
◇
一日目は、何も起こらなかった。
侍従が朝と夕に来て、餌の皿と水を替えていった。リュシアは寝台の上で羽を膨らませ、うとうとと眠った。王がいない部屋はひどく広く、ひどく静かだった。けれどそれは、寂しいという感じとは違っていた。ただ、何もない。何もない時間が、歯車の音とともに過ぎていくだけだった。
二日目の朝、リュシアは窓の外を見ていた。
理由はなかった。目を覚ましたとき、たまたま顔が窓のほうを向いていた。それだけだった。
空は高く、雲ひとつない青だった。開いた隙間から流れ込む風が、カーテンの裾を揺らしている。王宮の庭の木々が陽を浴びて光り、遠くには城下の家々の屋根が、陽炎の中で小さく揺らめいて見えた。
その青の中を、一羽の鳥が飛んでいた。
太陽のような鳥だった。
遠くて大きさはわからない。けれど翼が陽を受けるたび、琥珀色の光がはじけた。蜜を固めたような、夕陽を閉じ込めたような、深く温かい金の色。鳥は高く昇り、ゆるやかに円を描き、また風に乗って滑るように降りてくる。羽ばたくたびに、空そのものが揺れるようだった。
リュシアは寝台の端まで歩いていき、格子に身を寄せた。
鳥の姿で、空を見上げる。その首の角度が、ずいぶん久しぶりのものだと気づいた。
鳥は、ずっと飛んでいた。昼になっても、日が傾いても。ときおり姿を消し、また戻ってくる。王宮の上を大きく回り、塔の先をかすめ、庭の木の梢に一瞬だけとまって、また空へ放たれていく。
リュシアはそのあいだ、ずっと見ていた。侍従が昼の水を替えに来たときも、身じろぎひとつしなかった。
——あんなふうに、飛んでいた。
不意に、そんな言葉が胸の奥から浮かんできた。
いつの話だろう。思い出そうとすると、記憶はひどく遠くにあって、霧の向こうの景色のようにぼやけていた。この籠に入れられる前。王に出会う前。名前を呼ばれる前。自分は、どこかの空を飛んでいたはずだった。風の中で翼を広げ、どこへ向かうとも決めずに、ただ飛んでいたはずだった。
そのとき、琥珀色の鳥が、窓のすぐ近くまで降りてきた。
窓枠の向こう、庭の木の枝の上。羽をたたみ、こちらを向いている。その瞳もまた、琥珀の色をしていた。
目が合った。
少なくとも、リュシアにはそう思えた。
鳥はじっとこちらを見ていた。逃げもせず、首を傾げもせず、ただまっすぐに。その眼差しに、何かを問われているような気がした。
——おまえは、なぜそこにいる?
そんな声が聞こえた気がした。もちろん、リュシアの胸の中で、勝手に形を取った言葉にすぎない。
けれどその言葉は、胸の底に沈んでいた何かを揺り起こした。
なぜ、ここにいるのだろう。
ここにいるのが当たり前だった。籠の中で目を覚まし、王に名前を呼ばれ、肩に乗り、羽根を抜かれ、抱きしめられ、眠る。数えきれないほどの日を、そうやって過ごしてきた。その繰り返しに、なぜと問うたことはなかった。問うてよいものだと、知らなかった。
琥珀色の鳥が、ふわりと枝を蹴った。
大きく翼を広げ、空へ昇っていく。高く、高く。陽の光の中へ溶けるように。
リュシアは格子に身体を押しつけて、その姿を追った。
——あそこへ、行きたい。
その願いは、あまりにも突然で、あまりにもはっきりとしていた。
自分の中にそんなものがあったことに、リュシア自身が驚いた。驚いて、それから怖くなった。こんなことを願ってはいけない。王は自分を守ってくれている。外の世界は危ないのだと、何度も言い聞かされてきた。
それでも、願いは消えなかった。一度目を覚ましたものは、もう眠ってはくれなかった。
日が沈むまで、リュシアは窓の外を見つめ続けた。
夕刻、餌を替えに来たのは、いつもの侍従ではなかった。
まだ年若い、見習いらしい少女だった。王宮の侍女のお仕着せがぶかぶかで、袖を二度も折り返している。少女はおそるおそる部屋に入ってくると、鳥籠の前で立ち止まり、しばらくぽかんと口を開けて格子を見上げていた。
「……すごい」
小さな声だった。
「お城の地下牢と同じくらい広いって、ほんとうだったんだ」
少女は言いつけどおり、格子の隙間から餌の皿を差し入れ、水を替えた。それから、誰もいない部屋をきょろきょろと見回して、前掛けのポケットから何かを取り出した。一粒の葡萄だった。
「これ、厨房でこっそりもらってきたの。陛下がいなくて寂しいでしょう。内緒だよ」
少女は葡萄を、格子のすぐ内側にそっと置いた。
リュシアは寝台の上から、その葡萄と少女の顔を見比べた。
「いいなあ」
少女は格子に額を寄せるようにして、ため息をついた。
「こんなきれいなところで、何もしなくてよくて、陛下に可愛がってもらえて。わたしなんか、朝から晩まで叱られてばっかり」
少女はそう言って、くすりと笑った。悪意のない、羨むような笑い方だった。それから慌てたように辺りを見回し、足早に部屋を出ていった。
扉が閉まる。
リュシアは、格子の内側に置かれた葡萄を、長いあいだ見つめていた。
いいなあ、と少女は言った。
ここは、いいところなのだろうか。
これまで、そんなふうに考えたことはなかった。いいところか、悪いところか。比べるものを、リュシアは何も持っていなかった。けれど、あの少女は外から来て、外へ帰っていった。叱られてばかりだと言いながら、扉を開けて、自分の足で出ていった。
葡萄は、その夜も、翌朝も、手をつけられないまま格子のそばに転がっていた。
◇
夜になって、風が変わった。
はじめは、カーテンの揺れ方が少し大きくなっただけだった。やがて窓の隙間から吹き込む風が冷たく湿り、遠くで低い音が響きはじめた。雷だ。
侍従が夕の餌を替えに来たとき、窓を閉めるかどうか迷う素振りを見せた。けれど王の言いつけを思い出したのだろう。結局そのままにして、足早に部屋を出ていった。
夜半には、嵐になっていた。
雨が窓を叩き、風が王宮の尖塔を鳴らした。稲光が部屋を白く染め、一拍遅れて雷鳴が床を震わせる。時計機構の音さえ、嵐の音にかき消されそうだった。
リュシアは寝台の上で、身を固くしていた。
怖かったのではない。眠れなかったのだ。昼間に見た琥珀色の光が、目を閉じても瞼の裏に焼きついていた。
また稲光が走った。
その一瞬、白い光の中で、リュシアは見た。
鳥籠の扉の錠に、何かが引っかかっている。
小さな羽毛だった。琥珀色の、綿毛のような柔らかい羽毛。それが錠の金具の隙間に、そっと挟まっていた。
リュシアは寝台から飛び降り、扉のそばまで歩いていった。
王の手でなければ開かない扉。そう聞かされていた。試したことはなかった。試そうと思ったことも。
リュシアは翼の先で、そっと扉に触れた。
扉は、音もなく開いた。
何の抵抗もなかった。まるで最初から、鍵などかかっていなかったかのように。金色の扉はゆっくりと外側へ開き、その動きにつられて、琥珀色の羽毛が錠からふわりと離れた。羽毛は風に巻かれて部屋の中を舞い、どこかの暗がりへ消えていった。
リュシアは、開いた扉の前に立ち尽くした。
籠の外の床が見える。王の寝台。机。時計機構。そして、西の窓。指二本分だけ開いた、嵐の夜へ続く隙間。
稲光。雷鳴。雨の音。
チク、タク、と時計機構が鳴っている。硝子の室の中で、数日前に抜かれたばかりの羽根が、静かに光を放っていた。
——戻らなくては。
そう思った。思ったのに、脚は籠の中へ戻ろうとしなかった。動いたのは、前へ。
小さな脚が、籠の縁を越えた。
床に降り立った瞬間、身体の奥で何かが震えた。恐怖なのか、喜びなのか、わからなかった。わからないまま、リュシアは翼を広げた。
久しぶりに羽ばたいた。思っていたよりずっと、翼は重かった。籠の中で暮らすうちに、飛ぶための力をほとんど失っていたのだ。それでも、床を蹴り、空気を掴み、身体を持ち上げる。机の上へ。椅子の背へ。窓枠へ。
窓の隙間に身体をねじ込むと、嵐が全身を叩いた。
◇
外は、水と風でできていた。
雨粒が礫のように羽を打ち、風が身体を右へ左へと振り回した。真っ暗だった。稲光が走るたび、王宮の尖塔や城壁の輪郭が白く浮かび上がり、すぐまた闇に沈む。どちらが上で、どちらが下なのかさえ、ときどきわからなくなった。
それでも、リュシアは飛んだ。
王宮の壁を越え、庭の木々の上を越えた。背後で鐘が鳴りはじめた。誰かが窓の開いた私室に気づいたのか、それとも嵐を告げる鐘なのか。わからない。わからないけれど、その音に追い立てられるように、リュシアは翼を動かし続けた。
城壁の上で、松明の明かりが揺れていた。見張りの兵が何かを叫んでいる。白いものが飛んでいったぞ、と言ったようにも聞こえた。
リュシアは高度を下げ、城壁の影に沿って飛んだ。
背後で、甲高い鳴き声が上がった。
振り返る余裕はなかった。けれど、わかった。鷹だ。王宮の鷹匠が飼っている狩りの鷹。誰かが放ったのか、嵐に驚いて檻を破ったのか。鋭い羽音が、雨の音を切り裂いて近づいてくる。
リュシアは翼をたたみ、城壁の石積みの隙間すれすれに身を滑り込ませた。すぐ頭上を、大きな影がかすめていく。風に煽られた鷹は、獲物を見失って一度大きく旋回し、稲光の中でこちらを探すように首を巡らせた。
リュシアは息を殺した。濡れた石に身体を押しつけ、心臓の音さえ止めてしまいたいと思った。
次の雷鳴が轟いたとき、鷹は嵐に押し流されるように、王宮のほうへ戻っていった。
リュシアは、ふたたび翼を広げた。雨が目に入る。羽が水を吸い、身体がどんどん重くなっていく。翼の付け根——羽根を抜かれたばかりのあたりが、羽ばたくたびに鋭く痛んだ。
城壁を越えた。
眼下に、無数の屋根が広がっていた。城下町だ。窓という窓が固く閉ざされ、ところどころにかすかな明かりが漏れている。雨に濡れた屋根瓦が稲光を照り返し、まるで黒い海のように見えた。
どこへ行けばいいのかわからなかった。
ただ、王宮から離れたかった。あの鐘の音から、松明の明かりから、黄金の格子から。できるだけ遠くへ。
けれど身体は、もう限界だった。
翼が言うことを聞かなくなった。羽ばたこうとしても、風に押し戻される。高度がずるずると落ちていく。屋根が近づいてくる。煙突をかすめ、物干しの綱に翼の先が触れ、くるりと身体が回った。
——落ちる。
そう思ったときには、もう落ちていた。
石畳に叩きつけられる直前、身体の奥で何かがほどけた。意識してそうしたのではなかった。鳥の姿を保つだけの力が、もう残っていなかったのだ。
輪郭が崩れ、引き伸ばされる。羽毛が肌に変わり、細い脚が人の脚に、翼が腕に変わっていく。
そして、背中の翼は——現れなかった。
少女の姿に戻るとき、いつも背に残っていた真珠色の翼が、今はどこにもなかった。ただ濡れた背中が、冷たい夜気に晒されているだけだった。
リュシアは雨に濡れた路地に倒れていた。
頬に石畳の冷たさを感じた。雨が髪を伝い、薄い衣を肌に貼りつかせる。どこかで雨樋から水があふれ、ざあざあと音を立てていた。
指を動かそうとした。動かなかった。
寒い、と思った。痛い、とも思った。けれどそれ以上に、不思議な感覚が胸を満たしていた。
格子が、ない。
見上げた先には、金色の棒ではなく、黒い空があった。雨を降らせ、稲光を走らせる、果てのない空。
リュシアは、その空を見つめたまま、ゆっくりと目を閉じた。
◇
どれくらい経ったのか、わからなかった。
雨の音の向こうから、足音が近づいてきた。重たい、少し引きずるような足音。それから、かすかに揺れる明かり。ランタンの光だった。
「……なんだ、こりゃ」
しわがれた声が、すぐ近くで聞こえた。
リュシアは目を開けようとした。瞼が重かった。かろうじて開いた視界の端に、ランタンの光と、白いものが見えた。白い髪だ。雨に濡れて乱れた、白く長い髭。
「おい。おい、娘。聞こえるか」
誰かが、自分の肩に手を置いた。大きくて、ごつごつしていて、そしてひどく温かい手だった。
「ったく、こんな夜に、こんなところで寝る馬鹿がどこにいる」
ぶっきらぼうな声だった。けれどその手は、リュシアの身体を石畳からそっと抱き起こし、濡れた髪を顔から払ってくれた。
リュシアは、何かを言おうとした。
けれど声にはならず、意識はふたたび、温かい闇の中へ沈んでいった。




