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【平日18時更新】リュシアと時計塔 〜王の鳥は自由を求めて王宮を逃げ出す〜  作者: Tania Riko


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1 黄金の鳥籠

王の私室には、朝が二度訪れる。


一度目は、東の高窓から差し込む光が、壁一面を覆う古い時計機構の歯車を一枚ずつ照らしていくとき。二度目は、その光が部屋の中央に置かれた黄金の鳥籠に届き、格子の影を床の上に長く伸ばすときだ。


リュシアが目を覚ますのは、いつも二度目の朝だった。


瞼を持ち上げると、まず金色の格子が見える。細い棒が等間隔に並び、上へ向かうにつれてゆるやかに弧を描いて、天井近くでひとつに束ねられている。鳥籠と呼ぶにはあまりにも大きい。王宮の地下にある囚人牢と同じくらいの広さがあるのだと、いつだったか王が笑いながら教えてくれた。比べる相手がおかしい、と思った記憶はない。リュシアはただ「そうなのですね」と答えただけだった。


籠の中には、寝台がある。絹の敷布と羽毛の枕。小さな卓には銀の水差しと、季節の果物を盛った皿。床には異国の織物が敷かれ、隅には磨かれた姿見までが置かれていた。欲しいと言ったものは、たいてい翌日には格子の内側に届いた。もっとも、リュシアが何かを欲しいと言ったことは、ほとんどなかったけれど。


身体を起こすと、背中で翼がかすかに鳴った。


真珠色の翼だった。光の加減で淡く青や紫を帯び、角度を変えれば若葉のような緑がよぎる。少女の姿をしているときでも、リュシアの背中にはこの翼が残る。人の形をした腕と脚、肩までの髪、そして背中の両側から、身の丈ほどもある二枚の翼。鏡に映る自分を見るたび、リュシアはそれを少し不思議なものだと思った。けれど、それ以上のことは考えなかった。


チク、タク、と時計機構が鳴っている。


壁の時計は、普通の時計ではなかった。文字盤はあるが、針は時刻を示していない。大小無数の歯車が重なり合い、その中心には卵ほどの大きさの硝子の室がはめ込まれている。硝子の中には一枚の羽根が浮かんでいた。リュシアの羽根だ。真珠色の羽根は、硝子の中でぼんやりと光を放ち、その光が細い管を伝って歯車へ、歯車からさらに奥の暗がりへと流れていく。


光は、少しずつ弱くなっていくのだった。


リュシアはそれを知っていた。羽根の光が薄れると、何が起きるのかも。


「おはよう、リュシア」


天蓋付きの寝台から、柔らかな声がした。


薄い紗の帳を払って、王が身体を起こしたところだった。淡い金の髪が肩に流れ、寝起きでさえ乱れていない。蜂蜜を溶かしたような金色の瞳が、格子越しにこちらを見て細められた。


グレイヴァン王。この国を数百年にわたって治めている王は、二十代の初めにしか見えない青年の姿をしていた。


「おはようございます、陛下」


リュシアは寝台から下りて、格子の近くまで歩いた。王もまた寝間着の上に白い長衣を羽織り、ゆっくりと鳥籠に近づいてくる。格子の隙間から差し入れられた指が、リュシアの頬にそっと触れた。


「よく眠れたかい」


「はい」


「寒くはなかった?昨夜は少し冷えた」


「いいえ」


「そうか。それならいい」


王は満足そうに微笑んだ。指先がリュシアの髪をすくい、耳の後ろへと流す。その手つきは、壊れやすい硝子細工を扱うように丁寧だった。


「今日は昼まで評議がある。退屈だろうが、少しのあいだ肩にいておくれ」


「はい、陛下」


「いい子だ」


王は格子から手を抜き、呼び鈴の紐に指をかけた。それが合図だった。


リュシアは目を閉じ、息を細く吐く。身体の輪郭がほどけていく感覚がある。腕が翼の中に溶け、脚が細く縮み、視界が低く、広くなる。肌が羽毛に覆われ、髪は冠羽に、背の翼は小さな両翼にまとまっていく。痛みはない。ただ、ひどく静かな感覚だった。


目を開けたとき、リュシアは手のひらに乗るほどの小さな鳥になっていた。


真珠色の羽毛に、サファイアのような青い瞳。尾羽だけは身体に比べて少し長い。


扉が叩かれ、侍従たちが入ってくる。彼らは寝台の王に一礼し、着替えを手伝い、朝食の盆を運び込んだ。誰ひとりとして、鳥籠の中をじっと見る者はいない。見たとしても、そこにいるのは王が寵愛する一羽の小鳥だけだ。広すぎる籠の中、絹の寝台の上にちょこんととまっている小さな鳥。侍従のひとりは、毎朝その光景にかすかな微笑みを浮かべる。陛下はほんとうにあの鳥を大切になさっている、と。


身支度を終えた王が、黄金の鳥籠の扉に手をかけた。


扉の錠は、王の手が触れたときにだけ、音もなく外れる。どういう仕組みなのかリュシアは知らない。知ろうと思ったこともない。王が人差し指を差し出すと、リュシアはそこへ飛び移り、腕を伝って肩へと上った。


「行こうか」


王の声は、リュシアだけに向けられた甘さを帯びていた。


◇


評議の間は、朝の光に満ちていた。


長い卓の両側に、重臣たちが並んでいる。白髪の者、腹の出た者、目の下に深い隈を刻んだ者。誰もが王よりずっと年上に見え、そして実際には、誰もが王よりずっと若かった。


リュシアは王の右肩にとまり、議論の声を聞くともなく聞いていた。南の街道の補修。北の村の税。隣国との交易の取り決め。どれも穏やかな話題だった。この国にはもう長いあいだ、大きな戦がない。外の敵もなく、内の争いもない。王は数百年変わらぬ姿で玉座にあり、変わらぬ声で裁きを下す。


重臣の何人かは、時折王の横顔を盗み見た。そこに浮かぶのは畏れと、ほんの少しの戸惑いだった。祖父の代にもこの方は同じ顔をしておられたという。曾祖父の代にも。なぜなのか、と問う者はいない。問う必要がないのだ。王は賢く、治世は安らかで、民は飢えずにいる。不思議を不思議のまま胸にしまっておけば、それで毎日はつつがなく回っていく。


「陛下、例の件でございますが」


卓の端で、軍装の男が口を開いた。王の側近、コンラートだった。灰色の髪を短く刈り込み、背筋を伸ばしている。


「南方視察の日程が整いました。明後日にご出立いただき、四日ほどでお戻りの予定です」


「四日か」


王はわずかに眉を寄せた。それから肩のリュシアに目をやり、指先でその胸の羽毛を撫でた。


「長いな」


「は。ですが、領主たちは陛下のお越しを心待ちにしております。数十年ぶりのご視察ですので」


「わかっている。行こう」


重臣たちの間に、小さな笑いが起こった。陛下は鳥と離れるのがお嫌なのだ、と誰かが囁く。王は咎めず、穏やかに微笑んでみせた。


リュシアはその会話を聞いていた。明後日。四日。その言葉が何を意味するのか、ゆっくりと胸の中で転がしてみたが、特別な形にはならなかった。王が部屋を空けるときは、鳥の姿のまま籠の中で待つ。それだけのことだ。


◇


午後は、謁見の間で過ごした。


玉座の前には、朝から民の列が続いていた。土地の境を争う農夫たち。商いの許しを願い出る織物商。亡くなった夫の借財を背負わされたと訴える寡婦。王はひとりひとりの話に耳を傾け、ときに問いを重ね、穏やかな声で裁きを下していった。


列の終わり近くに、幼い娘を抱いた母親がいた。


娘は熱に浮かされているのか、母親の肩にぐったりと頭を預けていた。母親は床に膝をつき、震える声で言った。村の医者では手の施しようがない。どうか、王宮の医師に一度だけ診ていただけないだろうか、と。


衛兵が前に出かけたのを、王は片手で制した。


「すぐに侍医を呼べ」


王は玉座から立ち上がり、母親のもとへ歩み寄った。膝を折り、娘の額にそっと手を当てる。肩の上のリュシアの視界が、ぐっと低くなった。


「よく、ここまで連れてきたね。心配はいらない。この子は必ず良くなる」


母親は顔を覆って泣き出した。居並ぶ廷臣たちの間から、感嘆のため息が漏れた。


リュシアは、王の横顔を見ていた。


娘の額に触れている手。それは今朝、自分の頬を撫でた手と同じだった。夕刻になれば、自分の背中から羽根を選ぶ手と同じだった。


どちらが本当の王なのか、などと考えたことはない。どちらも王なのだ。リュシアにとっては、それが当たり前だった。


娘を抱いた母親が侍医に伴われて退出していく。その背中を見送りながら、王は肩のリュシアにだけ聞こえる声で囁いた。


「民は、私がいなければ生きていけない。わかるだろう、リュシア」


リュシアは、何も答えなかった。小鳥の姿では、答える必要もなかった。


◇


夕刻、私室に戻ると、王は侍従をすべて下がらせた。


扉が閉まり、足音が遠ざかる。王は鳥籠の扉を開けてリュシアを中へ戻し、自らも籠の中へ足を踏み入れた。そして後ろ手に扉を閉める。錠が、かちりと鳴った。


「もういいよ、リュシア」


リュシアは寝台の上で翼を広げた。輪郭がふたたびほどけ、少女の姿が戻ってくる。冷たい空気が素肌の腕に触れ、背中の翼が重みを取り戻す。


王は寝台の端に腰を下ろし、自分の右手を夕陽にかざしていた。


手の甲を、じっと見ている。


リュシアも、その視線の先を見た。白く滑らかな手の甲。そこに、目を凝らさなければわからないほどの、ごく細い線が一本走っていた。皺だ。


時計機構の硝子の室の中で、羽根の光はほとんど消えかけていた。


「リュシア」


王は手を下ろし、こちらに向き直った。その声はいつもと同じ、甘く優しいものだった。


「おいで」


リュシアは王のそばへ歩いていき、背を向けて床に膝をついた。言われる前にそうするのが、いつのまにか習いになっていた。


王の手が、翼の付け根に触れる。羽毛を一枚ずつ選ぶように、指先がゆっくりと動いていく。リュシアは唇を噛みしめた。どの羽根が選ばれても、同じだ。だから考えないようにする。歯車の音を数える。チク、タク、チク、タク。


「すまないね」


王が言った。


「君を守るためなんだ。私がいなくなったら、誰が君を守る?この国の誰が、君のような美しいものを正しく扱える?欲深い者たちに見つかれば、君はばらばらにされてしまうかもしれない。だから私は、ずっとここにいなければならないんだ。君のそばに」


指が、一枚の羽根をつまんだ。


「わかるね?」


「……はい」


次の瞬間、背中を灼けるような痛みが走った。


声は出さなかった。出したことは一度もない。ただ、身体の芯が勝手に縮こまり、膝をついた床の織物を指が掴む。羽根が抜かれた場所から、熱いものが脈打つように広がっていく。視界の端が白く滲んだ。


王は抜いた羽根を手に立ち上がり、籠の外へ出て時計機構の前に立った。硝子の室を開け、光を失った古い羽根を取り出す。代わりに新しい羽根を収める。蓋を閉じると、硝子の中で真珠色の羽根がふわりと浮かび上がり、まばゆい光を放った。


光が管を伝い、歯車へ流れ込む。止まりかけていたいくつかの歯車が、ゆっくりと回りはじめた。


王はしばらく右手の甲を見つめていた。細い皺は、もうどこにもなかった。


古い羽根は、王の手の中で灰色にくすみ、指の間からさらさらと崩れて落ちた。


王は籠に戻ってくると、まだ床に膝をついたままのリュシアを、後ろから両腕で包み込んだ。


「ありがとう、リュシア」


耳元に唇が寄せられる。


「愛しているよ」


リュシアは、何も答えなかった。両手は膝の上に置いたまま、動かさなかった。王はそれを咎めない。むしろ満ち足りたように、リュシアの髪に頬を寄せて、長いあいだそうしていた。


背中の痛みは、少しずつ鈍いものへと変わっていった。抜かれた跡には、数日もすれば新しい羽毛が生えてくる。それがこの身体の性質だった。どれほど羽根を失っても、リュシアは死なない。老いることもない。だからこそ王は、リュシアを手放さない。


王の腕の中で、リュシアは窓のほうを見ていた。


西向きの大きな窓だ。夕陽が沈みかけ、空の端が橙から紫へと移ろっていく。窓は風を通すために、ほんの指二本分ほど開けられていた。そこから流れ込む風が、カーテンの裾をかすかに揺らしている。


外の匂いがした。


草の匂い。土の匂い。遠くで焼かれるパンの匂い。名前も知らない花の匂い。


そういうものが、この部屋にも届くのだと、リュシアはずいぶん久しぶりに思い出した。


◇


夜が更け、王が寝台で静かな寝息を立てはじめても、リュシアは眠れずにいた。


背中がまだ疼いていた。寝返りを打つたびに、抜かれた跡が布に擦れて、小さな痛みが走る。そういう夜は珍しくない。いつものことだ。いつものことなのだと、自分に言い聞かせる必要すらないほど、いつものことだった。


それなのに、なぜだろう。今夜は、窓が気になった。


リュシアは絹の敷布の上で身体を起こし、格子越しに西の窓を見た。月が出ている。開いた隙間から、夜の風が入り込んでくる。


王は、明後日から四日間いない。


その言葉が、昼間とは違う形をして、胸の中に落ちてきた。何かが変わるわけではない。王がいなければ、鳥の姿で籠にいる。侍従が餌と水を替えに来る。それだけだ。


それだけのはずだった。


ふと、窓の外で何かが光った気がした。


月の光ではなかった。もっと温かい色。夕陽の最後のひとかけらが、夜の中に取り残されたような、琥珀の色。


リュシアは瞬きをした。もう一度目を凝らしたときには、窓の向こうには夜の空があるだけだった。


気のせいだったのかもしれない。


けれどリュシアは、その夜、空が白むまで窓から目を離さなかった。チク、タク、と時計機構の音が、いつまでも部屋を満たしていた。


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