第八話「巡りの神」
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三日が過ぎた。
四隅の火を繋いでから、影の根の動きが止まった。里の端からの消滅も、止まった。西と北の外れに空白は残ったままだったが、それ以上広がらなかった。
常火の光は、安定していた。
しかし、何かが変わっていた。
ハルはそれを、言葉にできないまま感じていた。里の空気が、以前とわずかに違う。人々の顔が、心なしか遠い。話しかければ普通に返ってくる。笑いもする。しかし、どこか薄い膜を一枚隔てているような感触があった。
ミナも気づいていた。
「記録が変わってきてる」と彼女は言った。夕方、部屋の壁に貼られた紙を見ながら。「人々の言葉が、少しずつ似てきてる。違う人が、同じような言い回しをする。同じような顔をする」
「巡りが終わりに近づいてるということか」
「そう思う。人が個別の存在でなくなってきてる。次の巡りへ向けて、溶け始めてる」
ハルは窓の外を見た。夕暮れの里が広がっていた。
「四隅の火を繋いだのに」
「延ばしたんだと思う。完全に止めたわけじゃない」
「炎に聞かないといけないな」
「うん」とミナは言った。「でも、今夜ではない気がする」
「なぜ」
ミナは壁の紙を見たまま答えた。「今夜は、炎が呼んでいない。何かを待ってる気がする」
ハルにはその感覚が分からなかった。しかし、ミナがそう言うなら、そうなのだろうと思った。
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何を待っていたのかは、翌朝分かった。
里の中央の広場に、見知らぬ人物が立っていた。
老人だった。いや、老人と見えたが、年齢が分からなかった。白い髪、白い着物。顔の皺は深かったが、目だけが異様に若く、澄んでいた。里の者が何人か遠巻きに見ていたが、近づこうとしない。
ハルが近づくと、老人はこちらを見た。
まっすぐ、ハルだけを見た。
「来たか」と老人は言った。
初めて会う声なのに、どこかで聞いたことがある気がした。
「あなたは誰ですか」
「この巡りを作ったものだ」
ハルは息を止めた。
後ろからミナが来た。老人を見て、立ち止まった。老人はミナを見た。それから二人を交互に見て、小さく頷いた。
「二人揃っているな。ならば話ができる」
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老人は里の外れ、川沿いの土手に二人を連れて行った。
人の目から離れた場所で、川を背にして立った。
「四隅の火を繋いだことは知っている」と老人は言った。「しかし、それでは足りない」
「なぜですか」とミナが聞いた。記録するために紙を出しかけて、老人に静かに首を振られ、しまった。
「この巡りは、限界まで来ている。四隅の火はあと少しの時間を作っただけだ。根の本体はまだ動いている。奥宮の下、地の深くに」
「根の本体」
「影の根は、一つの源から来ている。その源が奥宮の真下にある。私が作ったものではない。巡りが長くなりすぎた結果、自然に生まれたものだ。澱みのようなものだ」
ハルは地面を見た。自分たちが今立っている土の下に、何かがあるということか。
「どうすれば止まりますか」
老人は川を見た。
「それを止めるには、常火の力が要る。しかし常火はあの社殿から動けない。だから、常火の力を持った者が、奥宮の真下まで行く必要がある」
「真下というのは、地の中ということですか」
「奥宮の床下に、古い井戸がある。誰も知らないが、ある。その井戸を下りた先に、根の源がある」
「そこへ行って、どうするんですか」
老人はハルを見た。
「常火に触れたことがあるな」
「はい」
「あの時、火があなたの手に傾いた。覚えているか」
ハルは覚えていた。南の頂で、手のひらを炎に向けた時、炎が自分の方へ傾いてきた、あの感覚を。
「あれは、常火があなたを選んだということだ」
「選んだ」
「巡りの中で、常火が選ぶ者がいる。ほとんどの巡りでは選ばれない。しかしあなたは選ばれた。選ばれた者は、常火の光を体の中に一時的に宿すことができる」
ハルは自分の手のひらを見た。傷が残っていた。根に引っ搔かれた傷が。
「それを根の源に向けることで、源を鎮めることができる。根は光を嫌う。常火の光を源に当てれば、根は退く」
「永遠に?」
老人は少しだけ目を細めた。「この巡りの間は」
この巡りの間は、という言葉の重さを、ハルは感じた。
「次の巡りでは、また生まれるということですか」
「そうだ。巡りが続く限り、澱みもまた生まれる。しかしあなたたちが繋ぎ直した四隅の火が残る限り、次の巡りでは今回より長く持つだろう」
ミナが口を開いた。「あなたは、何のためにこの里を作ったんですか」
老人は川を見たまま、少しの間黙っていた。
「正直に言えば、最初は実験だった」
「実験」
「世界を一つ作って、その中で何が起きるかを見ていた。しかし長くなりすぎた。今ではもう、この里の者たちが愛おしい。消してしまうことが、できなくなった」
「だから巡りを続けているんですか」
「それだけではない」老人はミナを見た。「あなたたちのような二人が、時々現れる。巡りのたびに違う顔で、違う名前で。しかし必ず現れる。そしていつも、寸前のところで何かが足りない。私はずっと、その二人が、一度でも満ちた形で終わることを、見たいと思っている」
ハルはその言葉を、静かに受け取った。
「満ちた形で終わる、というのはどういうことですか」
老人は答えなかった。
ただ、川を見続けた。
しばらくして言った。「それはあなたたちが決めることだ。私が決めることではない」
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老人は最後にもう一つだけ言った。
「井戸は、奥宮の社殿の中にある。床の中央、炎の真下の板を外せば見つかる。常火があなたを選んでいるなら、板は外れる。常火があなたの体に光を宿してくれる。それを持って下りろ」
「一人で?」とハルは聞いた。
「選ばれたのは一人だ」
ハルはミナを見た。
「私は?」とミナが老人に聞いた。
老人はミナを見た。しばらく、じっと見た。
「あなたは、記録する者だ」とやがて言った。「この巡りで起きたことを、すべて書き留めておけ。次の巡りへの、灯りになる」
「記録したところで、次の巡りの私には届かない」
「届かない」と老人は言った。「しかし、常火の中には残る。あの火の中に、すべてある。いつかあの二人が、また常火の前に立った時、その記録が力になる。形は変わっても、残り続ける」
ミナは少しの間、老人を見ていた。
それから、静かに頷いた。
老人は二人に背を向けた。川沿いを歩き始めた。数歩行ったところで、振り返らずに言った。
「急げ。根の源は、また動き始めている」
そして、霞むように、消えた。
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ハルとミナは、しばらく川を見ていた。
「行かないといけない」とハルは言った。
「分かってる」とミナは言った。
「一緒には行けない」
「分かってる」
「怖い」と、ハルは言った。この巡りで、大丈夫じゃない時は大丈夫じゃないと言うと決めていた。
「私も」とミナは言った。「あなたが一人で下りることが、怖い」
「戻ってくる」
「約束できる?」
ハルは少し考えた。
「できる」と言った。「この巡りで、お前を一人にする気はないから」
ミナは紙を取り出した。
「行く前に、一つだけ書いておく」
「何を」
「あなたが今言ったことを」
ハルは少しだけ笑った。
「記録するのか」
「記録する」とミナは言った。「消えてほしくないから」
炎の光が、山の方で揺れていた。
二人は並んで、奥宮へ向かって歩き始めた。
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(第八話 了)




