第七話「南の頂、そして」
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南の山は、東より険しかった。
夜明けから歩き続けて、昼を過ぎても頂上が見えなかった。東の頂から一度里へ下り、水と食べ物を少し持って、すぐに南の登山道へ入った。道は東よりさらに細く、途中から完全に消えた。獣道すら定かでない斜面を、二人で手を貸し合いながら登った。
影の根は、もうここまで来ていた。
地面を這う根の筋が、南の頂を目指して動いていた。速くはなかった。しかし着実だった。根の先端が土を割り、石をよけ、一直線に上を目指している。
「根の方が速いかもしれない」とミナが言った。
「速くない」とハルは言った。「俺たちの方が速い」
確信があったわけではなかった。しかしそう言わなければならない気がした。
ミナは何も言わなかった。ただ、歩く速度を上げた。
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頂上まであと少し、というところで、道が崩れていた。
大雨か何かで地盤が緩んだのか、登山道の一部が幅十歩ほどにわたって抉れていた。向こう側の地面まで、飛べない距離ではないが、踏み切りを誤れば崖下へ落ちる。
ハルは崩れた縁まで近づいて、向こう側を測った。
「跳べる」と言った。
「私は」とミナが言った。「跳べるかどうか分からない」
「俺が先に跳んで、向こうから手を貸す」
「落ちたら?」
「落ちない」
「根拠は?」
「この巡りで、お前を置いていく気はないから」
ミナは少しの間、崩れた地面を見ていた。それから小さく頷いた。
ハルは助走をつけて跳んだ。向こう側の地面に着地して、振り返った。
「来い」と手を伸ばした。
ミナは助走した。跳んだ。
手と手が、空中で触れた。ハルは掴んで、引いた。二人で向こう側の地面に倒れ込んだ。
一瞬の沈黙の後、ミナが言った。「……跳べた」
「言っただろう」
二人はそのまま少しの間、地面に座っていた。息を整えながら、空を見た。雲が流れていた。白い、普通の雲だった。
「行こう」とハルが立ち上がった。
「うん」とミナも立ち上がった。
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頂上に着いた時、根は炎の半歩手前まで来ていた。
東の頂よりも小さな火だった。岩の窪みの中で、今にも消えそうに揺れていた。周囲を取り囲む根の本数が多く、炎を絞り込むように迫っていた。
ハルは駆けた。
根を踏んだ。根が足首に絡みついた。転んだ。立ち上がった。また駆けた。
炎の前に手を伸ばした。
手のひらを開いた。
東の頂で繋いだ時と同じように、常火から分けられた光の粒が——しかし今は手の中にない。東で使い切っていた。
「どうする」とミナが後ろから言った。根を避けながら近づいてきながら。
ハルは炎を見た。消えかけの、小さな火を。
考えた。
常火が言っていた。繋ぎ直すことだ、と。根が切った繋がりを、もう一度結ぶ、と。
光の粒がなければ、繋げないのか。
それとも——
ハルは炎の前に膝をついた。根が背中に触れた。冷たかった。しかし退かなかった。
両手を炎に向けた。光の粒を持っていた時と同じように。ただし、今度は何もない手のひらで。
何かを渡すのではなく、何かを受け取るように。
炎が揺れた。
根の一本が、ハルの手首に絡みついた。引っ張られた。しかし炎から離れなかった。
「ハル」とミナが叫んだ。
「大丈夫だ」
炎が、揺れながら、手のひらへ向かって傾いた。
まるで、手を握り返そうとするように。
温かくはなかった。熱もなかった。しかしその傾きに、確かな意志のようなものを感じた。
根がまた引いた。今度は強く。
ハルは根を引き剥がそうとした。しかし本数が多すぎた。足首、手首、肩、根が絡みついてきた。
「ハルッ」
ミナが走り込んできた。
根を素手で引き剥がし始めた。一本、また一本。手が傷ついた。それでも引き剥がし続けた。
「お前まで絡まれるぞ」とハルは言った。
「黙って」とミナは言った。「今は黙ってて」
根がミナの腕にも絡みついた。しかしミナは止まらなかった。ハルに絡みついた根を、一本一本、引き剥がし続けた。
ハルは炎を見た。
炎が——大きくなっていた。
根が引けば引くほど、炎が戻ってきた。根に押しつぶされていた炎が、二人が根を引き剥がすたびに、少しずつ、少しずつ、本来の大きさを取り戻していた。
「ミナ」とハルは言った。「これだ」
「何が」
「繋ぎ直すって、こういうことだ。光の粒じゃない。根を引き剥がすことだ」
ミナは手を止めずに言った。「最初からそう言ってくれれば」
「俺も今気づいた」
二人は並んで、根を引き剥がし続けた。手が痛かった。根は引いても引いても生えてきた。しかしその速度より、二人の方が速かった。
やがて、炎の周囲から根が退いた。
炎が、東の頂と同じ、安定した橙と金の大きさに戻った。
二人は並んで、その前に座り込んだ。
手が傷だらけだった。ミナの腕にも、根に引っ搔かれた赤い線が何本も走っていた。
「大丈夫か」とハルは聞いた。
「大丈夫」とミナは言った。「あなたは」
「大丈夫じゃない」
ミナが顔を上げた。
「嘘をつかないで」とハルは言った。「大丈夫じゃない時は大丈夫じゃないと言う。そう決めた。この巡りでは」
ミナは少しの間、ハルを見ていた。
それから「私も大丈夫じゃない」と言った。「手が痛い。足も痛い。怖かった」
「うん」
「でも、来てよかった」
「うん」
南の頂から、里が見えた。東の頂から見た時よりも広い角度で、常瀬の里全体が眼下に広がっていた。田畑も、川も、家々も。西と北の外れには、家がなくなった空白が見えた。しかしそれ以外は、まだそこにあった。
空に、夕焼けが広がり始めていた。
橙と金の空だった。
まるで常火の色のような、と二人は同時に思った。
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里に戻ったのは、日が落ちてからだった。
奥宮の方角を見ると、常火の光がいつもより強く、安定して輝いていた。四隅の火が繋がったからかもしれなかった。
弥三郎の家の前を通ると、老人が縁側に座っていた。暗がりの中で、二人を見た。二人の手の傷を見た。何も言わなかった。しかし、縄を編む手を止めて、深く頭を下げた。
ハルは頷いた。
ミナは頭を下げ返した。
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その夜、川沿いに座って、二人は黙って水の流れを見た。
「次は何をすればいいんだろう」とハルは言った。
「炎に聞かないと分からない」とミナは言った。「でも、今夜はいい」
「今夜は?」
「今夜は、ただここにいたい」
ハルは川を見た。水が月明かりを映して流れていた。
「この巡りが、あとどのくらい続くか」
「分からない」
「怖いか」
「怖い」とミナは言った。「でも」
「でも?」
「終わることより、終わる前に何もできなかったことの方が怖い」
ハルはミナを見た。
川沿いの夜の風が、彼女の黒髪を揺らした。
三年前、ここで初めて話した時から、彼女はずっとそういう人だった。消えたものを残そうとする人だった。いなかったことにしないために、記録し続ける人だった。
「ミナ」
「何」
「俺は、お前のことを次の巡りに持ち越したくない」
ミナは川を見たまま、少しだけ目を細めた。
「意味が分からない」
「この巡りで、ちゃんとお前に言いたいことを言っておきたい、ということだ」
「……聞いてる」
ハルは少し間を置いた。
「好きだ」と言った。「ずっと前から。最初に会った時から、たぶん」
川が流れた。
ミナは川を見たままだった。
それから、静かに言った。
「私も」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
二人は並んで、川の流れを見続けた。常火の光が、遠く、山の方で揺れていた。
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(第七話 了)




