第三話「扉の向こう」
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扉は、開かなかった。
ハルが両手で押しても、引いても、分厚い木の扉はびくともしなかった。鍵穴もなく、閂の類いも見当たらなかった。ただ、どこかで何かが噛み合っているような、重い抵抗があるだけだった。
「無理に開けようとしない方がいいかもしれない」とミナが言った。
「なぜ」
「分からない。でもそう思う」
ハルは手を離した。
扉の隙間から漏れる常火の光は、相変わらず橙と金を混ぜたように揺れていた。その光を正面から浴びると、目の奥がじんと痛んだ。痛みというより、遠い記憶を引っ張り出されるような感覚だった。
「記録しておく」とミナは言い、紙と筆を取り出した。
社殿の大きさ、扉の材質、苔の生え方、影の根が扉の下へ続いている様子。彼女は黙々と書いた。ハルはその間、社殿の周囲を一周した。
裏手に回ると、壁に何かが刻まれていた。
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石でも木でもなく、社殿の裏壁には土を塗り固めた面があり、そこに細い線で文字のようなものが刻まれていた。ただし、ハルには読めなかった。里で使われている文字ではない。かといって、どこかで見た覚えもない。
「ミナ」と呼ぶと、彼女はすぐに来た。
刻み文字を見た瞬間、ミナの手が止まった。
「読める?」とハルは聞いた。
ミナは長い時間、壁を見ていた。
「……一部だけ」とようやく言った。「これは、すごく古い書き方。私が集落で習った書き方とも違う。でも、なぜか」
「なぜか?」
「読んだことがある気がする」
昨夜の言葉の続きのようだった。知っている気がする。来たことがある気がする。読んだことがある気がする。
「何と書いてある」
ミナはしゃがんで、壁の一部に指を沿わせた。「ここは、たぶん『巡り』。ここは『火』。それから……」彼女の指が止まった。「これは、名前だと思う。二つ並んでいる」
「誰の名前?」
「分からない。でも」
ミナは顔を上げた。夜明けの薄い光の中で、彼女の目が何か別のものを見ているような色をしていた。
「二人の名前だと思う」
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里に戻ったのは、朝餉の支度が始まる頃だった。
炊事の煙が家々から上がり、鶏が鳴き、犬が走り回っていた。いつもの朝だった。昨夜から社殿の裏で何かを発見してきた二人のことなど、誰も気にしていなかった。
ハルは自分の家に戻り、土間に座って水を飲んだ。
頭が働かない。眠れなかったからではなく、あの刻み文字の二つの名前のことが、頭の中でぐるぐると回り続けているせいだった。
(二人の名前。)
(誰と、誰の。)
母が台所から顔を出した。「どこ行ってたの、こんな朝早く」
「山の方を少し」
母は特に詮索しなかった。この里の人間は、互いの行動をあまり掘り下げない。昔からそうだった。ハルは子供の頃からそれを不思議に思っていたが、今では少しだけ、その理由が分かる気がした。
掘り下げないことで、何かが保たれている。
何が保たれているのかは、まだ分からないけれど。
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昼過ぎ、弥三郎の家に再び行った。
老人はまた縁側で縄を編んでいた。ハルが来たのを見ても、顔色ひとつ変えなかった。
「奥宮に行ってきました」
縄を編む手が止まった。今度は昨日より長く止まった。
「馬鹿なことを」と弥三郎は言った。声に怒りはなかった。疲れのような、諦めのような、何か重いものが混じっていた。
「社殿の裏に刻み文字がありました。古い文字で、二人の名前が並んでいた」
老人は答えなかった。
「弥三郎さん」ハルは縁側に近づいて、低い声で言った。「この里は、いつから始まったんですか」
長い沈黙があった。
風が竹藪を揺らして通り過ぎた。どこかで子供が笑い声を上げた。遠くの山で、鳥が鳴いた。
「お前さんには、言う必要がない」と弥三郎はやがて言った。「どうせ分かる時が来る」
「どういう意味ですか」
老人は縄を編みながら、目を細めた。
「この里には、時々、お前さんのような若者が出る。山の声を聞く者が。奥宮の光を見る者が」
ハルは息を止めた。
「そういう若者は決まって、同じことをする。奥宮へ行って、裏の文字を見て、ここへ来て同じことを聞く」ハルの目を見ないまま、老人は言い続けた。「そして決まって、里を揺るがすような目に遭う。そして――」
老人の言葉が途切れた。
「そして?」
弥三郎は答えなかった。縄を編む手だけが動いていた。
ハルは、全身に鳥肌が立つのを感じた。
「決まって、何ですか」
老人はため息をついた。長い、重いため息だった。
「決まって、消える」
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夕方、ミナと落ち合った。
川沿いの土手、三年前に初めて話した場所だった。ミナは昼の間、里の古老たちを一人一人訪ねて歩いていたという。どこに行っても、奥宮の話になると口が重くなった。百五十年以前の話を聞こうとすると、みな話を逸らした。
「一人だけ、少し話してくれた人がいた」とミナは言った。「九十に近い、おヨネばあさん」
「何て言ってた?」
ミナは手元の紙を見た。記録してきたのだろう。
「『巡りが終わる前触れだ』と言っていた。影の根が出る時は、いつも巡りが終わる前触れだと。でも、巡りとは何かを聞いたら、黙ってしまった」
「弥三郎さんも、似たようなことを言っていた」ハルは川の流れを見ながら言った。「そして、消える、と」
「消える」とミナは繰り返した。「誰が?」
「たぶん、奥宮に関わった者が」
二人はしばらく黙っていた。川は変わらず流れていた。
「怖い?」とミナが聞いた。
ハルは少し考えた。正直に言うなら、怖い。しかし怖さよりも先に来るものがあった。あの社殿の前に立った時の、説明のつかない悲しみ。まるで何度も別れを経験してきた魂の重さのような、あの感覚。
「怖いより先に」とハルは言った。「知りたい。あの火が何なのか。刻まれた二人の名前が誰なのか。この里が何のために存在しているのか」
ミナは川を見ていた。
「私も」と静かに言った。「知りたい。でも」
「でも?」
「知ることで、消えてしまうとしても?」
ハルはミナを見た。彼女は川を見たまま、唇を少しだけ動かした。
「私は消えたくない。ここで記録を書き続けたい。あなたの隣で」
ハルは何も言えなかった。
言葉が出なかったのは、同じ気持ちだったからだ。消えたくなかった。この場所で、この人の隣で、続きを生きたかった。
それなのに、体の奥底で何かが囁いていた。
知らなければならない、と。
どれほど怖くても。どれほど失いたくなくても。
あの扉の向こうを、見なければならない、と。
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その夜、ハルは夢を見た。
真っ暗な場所だった。足元に何もなく、上にも下にも果てがなかった。ただ、遠くに光が一つ揺れていた。橙と金の、あの常火の光だった。
光に向かって歩くと、誰かが立っていた。
後ろ姿だった。長い黒髪。細い肩。
名前を呼ぼうとして、呼べなかった。声が出なかった。
その人が振り返った。
顔が見えなかった。光が眩しすぎて、ただ輪郭だけが分かった。
でも、知っていた。
何度も会ったことがある。何度も、この場所で。
「また」とその人は言った。
声だけが聞こえた。
「また、始まるのね」
夢はそこで終わった。
ハルは暗い部屋の中で目を開け、天井を見た。
心臓が速く打っていた。
また、という言葉だけが、耳の奥に残っていた。
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(第三話 了)




