第二話「記録の穴」
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影の根は、翌朝には消えていた。
ハルが夜明けと共に北の裾野へ向かうと、山肌はいつもと変わらない杉と苔の景色だった。昨夜あれほど確かに見えた黒い筋は、どこにもない。濡れた地面に、跡すら残っていなかった。
「気のせいだったんじゃないですかね」と、昨夜の自分と同じ言葉を呟いてみた。
信じられなかった。
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ミナは信じていた。
「消えたんじゃないと思う」と彼女は言った。二人は社の境内に続く石段の脇に並んで座っていた。境内の掃き掃除をしている老社守が、二人にちらりと目をやって、何も言わずに箒を動かした。「地面の中に潜ったのよ。根だから」
「根が潜る」
「根は土の中を進むでしょう」
ハルは反論できなかった。
ミナは膝の上に紙を広げ、細い筆で何かを書き始めた。昨夜見たものの形を、記憶のままに描き留めている。何本の筋があったか。どの角度から奥宮へ向かっていたか。どのくらいの速さで動いていたか。
「記録しておくの?」
「当然でしょう」と彼女は顔を上げずに言った。「見たものを記録しておかなければ、なかったことになってしまう」
三年前、川沿いの土手で初めて聞いた言葉と同じだった。
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その日の夕方、ハルは里の長老の一人を訪ねた。
弥三郎という名の老人で、八十を超えてなお背筋が真っ直ぐだった。薬草の知識が深く、里の者が体の具合を悪くすると必ずこの家の戸を叩いた。縁側に座って縄を編みながら、老人はハルの話を黙って聞いた。
「北の山に、黒い根のようなものが這っていた。奥宮の方へ向かっていた」
弥三郎は縄を編む手を止めなかった。
「見たことがありますか」とハルは聞いた。
「ない」と老人は言った。
「では、聞いたことは」
老人の手が止まった。わずかに、ほんの一瞬だけ。それからまた動き始めた。
「ない」
嘘だ、とハルは思った。長年の付き合いから来る勘ではなかった。もっと確かな何か――声の奥で何かが軋んだような、奇妙な感触だった。
「弥三郎さん」
「若いもんは余計なことを気にするな」老人は縄を編みながら言った。「春が来れば田を耕し、秋が来れば刈り取る。それだけでいい。この里はずっとそうやってきた」
「ずっと、というのはいつからですか」
老人は答えなかった。
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その夜、ハルはミナの部屋を訪ねた。
ミナが間借りしている家の納戸を改造した小さな部屋には、壁一面に紙が貼られていた。里に来た日から書き続けてきた記録だ。生まれた子の名前、死んだ老人の享年、雨が何日続いたか、どの畑が豊作だったか。几帳面な字が、白い紙をびっしりと埋めていた。
しかしその中に、一か所だけ大きな空白があった。
「それ」とハルは言った。
「気になってた」とミナは頷いた。「この家の主人の祖父のことを調べたの。八十年前に生まれたということは分かっている。でも、その人の親の話は誰も知らない。先代の話もない。記録を遡ろうとすると、百五十年前でぷつりと切れる」
「弥三郎さんも知らないふりをした」
ミナは筆を持ったまま、壁の空白を見た。
「知らないのと、知らないふりをするのは違う」
「そうだな」
二人はしばらく沈黙した。
外で風が唸った。山が唄っているような音だった。ハルはそれを聞くたびに、あの夜のことを思い出す。七つの自分が杉林の中で足を止め、橙と金の光を見た瞬間のことを。
「ミナ」と彼女は言った。「奥宮に行ってみたい」
ミナは少しの間黙っていた。それから、壁の空白にゆっくりと目を向けたまま言った。
「私も、そう思っていた」
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翌朝、二人は夜明け前に家を出た。
参道の入り口には、古びた石の鳥居が立っている。注連縄が張られ、紙垂が風に揺れていた。里の者が日々掃き清めているのだろう、石畳には落ち葉一枚なかった。
杉木立の中に入ると、一気に空気が変わった。
湿った、重い空気だった。外の風が届かない。木々の幹は苔に覆われ、地面から白い靄が立ち上っていた。遠く、参道の奥の方から、かすかに橙の光が揺れているのが見えた。
「見える」とミナが呟いた。
「うん」
二人は並んで歩き始めた。
石畳は思ったよりも長かった。里の中心から奥宮まで、日頃見ている距離感より、ずっと遠い。五十歩、百歩、二百歩と歩いても、光は近づかない。そのくせ、後ろを振り返ると、鳥居はとうに見えなくなっていた。
「おかしい」とハルは言った。
「参道が、伸びてる」とミナは静かに言った。「あるいは、私たちが縮んでいるか」
冗談なのか本気なのか、判断できなかった。
三百歩を数えたところで、ハルは足を止めた。
石畳の脇、苔むした地面から、黒い筋が這い出ていた。
昨夜見た影の根だった。一本ではなかった。何本もの細い筋が、地面を割るようにして這い出て、参道に沿うように奥宮の方角へと伸びていく。動いている。生きているもののように、ゆっくりと、しかし確実に。
「ハル」とミナが小さく言った。
彼女の視線の先を追うと、影の根が石畳の上を横切りかけていた。踏めば、踏んでしまう。
ハルは、とっさにミナの手を掴んだ。
踏まないように、根の間を縫って、一歩、また一歩と進んだ。ミナは何も言わなかった。ただ、ハルの手を握り返した。
どのくらい歩いただろう。
突然、杉木立が途切れた。
開けた場所に出た。石畳の先に、古びた社殿が建っていた。茅葺きの屋根に苔が生え、柱は長年の雨風に黒ずんでいた。扉は閉まっている。その扉の隙間から、橙と金の入り混じった光が、細く、細く漏れていた。
常火だった。
ハルは幼い頃に見た光を思い出した。あの既視感が、また全身を包んだ。夢の中の景色を現実に見つけた、あの感覚。
しかし今は、もう一つ別のものを感じた。
悲しみだった。
説明のつかない、古い悲しみだった。まるで、何度も何度も繰り返してきた別れの、記憶の重さのような。
「ミナ」と彼女は囁いた。「何か、感じる?」
ミナは社殿の扉を見つめたまま、静かに言った。
「知っている気がする。ここを」
「会ったことのない場所なのに?」
「ええ」とミナは言った。「でも、知っている。何度も、来たことがある気がする」
ハルは、ミナの手を握ったまま、社殿の扉を見た。
影の根が、扉の下の隙間から社殿の中へと続いていた。光の方へ。常火の方へ。
扉は、風もないのに、かすかに揺れていた。
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(第二話 了)




