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常火の里  作者: Kentarou Tou / Kentarou Theater


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第一話「影の根」


山が、唄っていた。

秋の終わりの夕刻、里の者たちは誰もそう言わない。風の音だ、と笑う。獣の遠吠えだ、と言う老人もいる。だが、ハルは幼い頃からずっとそれを知っていた。四方を囲む巽山(たつみやま)は、夜ごと低く、低く、喉の奥で何かを唱え続けている。

「また聞こえてるの」

後ろから声がした。振り返らなくてもわかる。草の香りと、かすかな墨の匂い。

「聞こえてないふりをするのが疲れた」

ミナは笑わなかった。それがハルには少し、嬉しかった。


里の名は「常瀬(とこせ)」という。

四方を巽山の稜線に囲まれた盆地の中に、百数十の家屋が肩を寄せ合うようにして立ち並んでいる。田畑は豊かで、川は清く、冬でも凍えるほど寒くはない。人々は満ち足りていた。少なくとも、そう見えた。

里の中心には、古びた(やしろ)がある。

奥宮(おくみや)」と呼ばれるそれは、山の中腹――巽山の四つのうち、北の頂に向かう参道の突き当たりにそびえていた。石畳の参道は、里の入り口から始まり、深い杉木立の中を一本だけ伸びている。参道の終わりに、誰も行ったことはない。

行ってはならない、というわけではない。ただ、誰も行こうとしない。

奥宮には、常火(とこび)が灯っている。

雨の夜も、嵐の朝も、何百年とそれは消えたことがない。里人はそれを遠くから拝む。「神様のお灯明だ」と言う者もいれば、「先祖の魂が集まっているのだ」と言う老婆もいた。いずれにせよ、その火を近くで見た者は、里にはいなかった。

ハルは、見たことがある。

七つの頃、迷子になって杉林の中を彷徨ったとき、気づけば参道の石畳の上に立っていた。闇の中に、橙と金の入り混じった光がゆらゆらと揺れているのを、遠く、けれど確かに見た。その瞬間、足が竦んだのを覚えている。恐怖ではなかった。もっと別の何か――まるで、古い夢の中の景色を現実の地平に見つけてしまったような、奇妙な既視感だった。

翌朝、母に話した。母は顔色を変えずに言った。

「夢でも見たんでしょう」

ハルはそれ以来、誰にも言っていない。


ミナが里に来たのは、三年前のことだ。

北の山向こうにあるという小さな集落が、水害で流されたのだと聞いた。生き残った者の中に、十六の娘がいた。荷物はほとんど持っていなかったが、大きな風呂敷に包んだ反故紙(ほごし)の束だけは、命より大切そうに抱えていた。

「記録です」と彼女は里の長に言った。「流された者たちの、記録です。捨てるわけにはいきません」

長は苦笑いをしながら、彼女を里に受け入れた。

ハルが初めてミナと話したのは、その翌日だった。川沿いの土手に座って、彼女は流されてきた紙の束を一枚ずつ広げて乾かしていた。黒い墨の文字が、白い紙の上に几帳面な字で並んでいた。

「誰の字ですか」とハルは聞いた。

「私の字です」とミナは答えた。

「何が書いてあるんですか」

「死んだ人の名前と、その人がどんな人だったかということです」

ハルは少し黙ってから、「なぜそんなものを書くんですか」と聞いた。

ミナは手を止めずに答えた。

「記録しておかなければ、いなかったことになってしまうから」


それからの三年間、二人はよく一緒にいた。

特別なことは何もなかった。ハルは里の若衆として田を耕し、冬には猟に出た。ミナは里の子供たちに文字を教えながら、日々の出来事を記録し続けた。誰が生まれ、誰が死に、どんな天気の日が続いたか。細かく、几帳面に、墨の字で。

ただ一つ、おかしなことがあった。

ある夜、ミナが言った。

「この里の記録、どこにも残っていないのよね」

ハルは首を傾げた。「古い記録ということですか」

「ううん。そうじゃなくて」彼女は少し考えてから続けた。「百年以上前のことが、何も残っていない。伝承もない。お社の棟札もない。まるで、ある時から急に始まったみたいに」

ハルは何も言えなかった。

そうだ、と思った。確かに、そうだった。里にある一番古い墓碑は、百五十年前のものだ。それより前は、何もない。

「気のせいじゃないですかね」とハルは笑ってごまかした。

ミナは笑わなかった。


影が現れたのは、その翌朝のことだった。

夜が明けきらない灰色の時間、ハルは猟の準備のために北の山の裾野に来ていた。霧が深く、足元の草が濡れていた。杉の枝が風に揺れて、雫を散らした。

何かが見えた。

山の斜面を、黒い筋のようなものが這っていた。

根のように見えた。大木の根が、地中から押し出されてきたように、山肌を縫いながら奥宮の方角へと延びていく。一本ではない。何本も、何本も、まるで影が地面に染み込んでいくような形で、ゆっくりと、しかし確実に奥宮へと向かって動いている。

動いている。

ハルは、目を疑った。

影は動いていた。呼吸するように、波打つように。石畳の参道の脇を避けるようにして、けれど確実にあの火の方へ向かって伸びていく。

「ハル」

振り返ると、ミナが立っていた。

夜明け前の薄明かりの中、彼女の顔は青白く見えた。手には昨日書きかけの紙を持ったままだった。目は、山の斜面に向いていた。

「見えてるの」とハルは言った。

「ええ」とミナは静かに答えた。「昨日から、ずっと」

二人は並んで、動く影を見た。

里は、まだ眠っていた。


(第一話 了)

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