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異邦審判官と聖女の天秤 〜偽りの判決を砕く召喚者〜  作者: セルヴォア


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消される前の口

生け捕りにした傭兵が目を覚ましたのは、朝と呼ぶにはまだ暗すぎる刻だった。


使われなくなった小審問室は、法廷の華やかさとは無縁だった。壁の布は色褪せ、机は古く、片側の窓はひびが入ったまま板で塞がれている。だが扉が一つで、出入りを絞りやすい。真琴にはその貧相さがありがたかった。


広すぎる場所は守りにくい。


机の上には焼け残った徴税帳、継承審問の名簿断片、偽の命令写しが並んでいる。部屋の隅ではマティアスが煤を払った紙を乾かし、ヴァレリアは縛った傭兵の正面で壁にもたれていた。


「審問室というより物置ですね」


ヴァレリアが言う。


「贅沢を言える立場か」


「言っていません。守りやすい、と褒めています」


真琴は傭兵の前に椅子を引いた。男は両手を後ろで縛られ、口元の氷膜だけ剥がされている。頬は青ざめていたが、目つきはまだ死んでいない。


「名前」


男は黙る。


「雇い主」


やはり黙る。


真琴は肩をすくめた。


「別に忠義を見せたいなら止めない。ただ、お前を黙らせるために次が来る」


その言葉にだけ、男の喉元の黒い脈がびくりと震えた。


来る、ではない。もう動いている。


「毒を噛んだ。自害を仕込まれてた。ここで黙っても、向こうはお前を助けない」


真琴が淡々と続けると、男は初めて鼻で笑った。


「助けなんぞ最初からねえよ」


声は掠れていた。


「だからこそ余計なことは言わねえ」


ヴァレリアの視線が細くなる。


「口だけは回るようですね」


男は彼女を見返さなかった。真琴だけを見ている。諦めている目に見えて、その奥でまだ何かを計っていた。


真琴は机の上の革帯を持ち上げた。葡萄の蔓を噛む狼の刻印がある。


「この印は古い私兵のものだと言ってたな」


ヴァレリアが短く頷く。


「公爵家が表向きに切ったあとも、汚れ仕事だけは残る。そういう連中です」


「なら、こいつらは誰かに使い捨てられてる」


マティアスが紙から顔を上げた。


「裁堂殿、これを」


差し出されたのは、さきほどの断片とは別の細切れだった。灰にまみれた端へ、名簿番号らしき数字と、継承審問の書式でよく使う締めの文句だけが残っている。


「継承側の束から出ました。北方徴税の記録と同じ箱に押し込まれていました」


「別の棚の書類が混ざっていた?」


「意図して抜いて、まとめて焼いたのでなければ説明がつきません」


真琴は紙片を見たまま、背筋の奥が少し冷えた。


北方の不正を隠すためだけなら、ここまで継承審問に触れたがる必要はない。


敵は、同じ穴を塞いでいる。


扉の外で足音が止まった。


ヴァレリアの手が剣へ落ちるより早く、扉が二度叩かれる。


「私です」


シュリアの声だった。


ヴァレリアは真琴を見た。真琴が頷くと、扉を半分だけ開ける。


白い衣の聖女はひとりではなかった。若い神官と、もうひとり、顔色を失った役人を連れている。役人は両腕で書板を抱え、汗で襟元を濡らしていた。


「入れてくれ」


真琴が言うと、シュリアは部屋へ入るなり机の上を見渡した。


嫌そうな顔をするかと思ったが、しなかった。代わりに、ここが仮でも仕事場になっていると一瞬で理解した目になった。


「保護房から移送命令が出ました」


挨拶抜きで本題だった。


「バシュレルを北棟の勾留房へ戻せと」


神官が一枚の命令書を差し出す。真琴は受け取る前に、紙の縁の癖を見た。


新しい。


しかも、押印の朱が乾きすぎている。書き上げた刻より前に印だけ別で置いた紙だ。


「誰の命令だ」


シュリアが連れてきた役人が、びくりと肩を跳ねさせた。


「わ、私には分かりません。ただ、評議会の補佐官が急ぎだと」


「名前」


「ルデック……ルデック補佐官です」


真琴は命令書を開く。文面は丁寧だが、行間にある癖が地下牢で見た偽命令と近い。数字の払い、語尾の揃え方、余白の取り方。


黒い脈は、その役人の手首ではなく、命令書を持つ指の根元から立っていた。


この男が書いたわけではない。だが、何かを知っている。


「その補佐官は今どこにいる」


「し、下で兵を待たせています」


ヴァレリアが壁から背を離した。


「連れ出しに来たわけですか」


シュリアの横顔が冷える。


「保護命令は私名義です。解除には私の封印が要る。なのに先に移送文が出ている」


「つまり偽物だ」


真琴が言うと、役人は青白いまま首を振った。


「い、いえ、私はただ運んだだけで」


その瞬間、扉の外で剣の鍔が鳴った。


ヴァレリアが動く。


扉を開くと同時に、外にいた兵のひとりが短く息を呑んだ。廊下の先に、濃紺の上着を着た細身の男が立っている。年は四十前後、髭は整えられ、腰には官用の短剣。いかにも書類と命令で人を動かす顔だった。


「何の騒ぎです」


声だけは落ち着いている。


だが真琴の目には、その喉元から黒い脈がくっきり見えた。しかも先は、役人が抱えていた書板ではなく、さらに下階へ伸びている。


待たせている兵か。


「ルデック補佐官だな」


真琴が廊下へ出ると、男は初めて露骨に眉をひそめた。


「あなたに名乗る理由が?」


「ある。バシュレルをどこへ動かすつもりだった」


「勾留房です。規定に従って」


「規定のどこに、聖女の封印を飛ばして移送していいと書いてある」


ルデックはすぐにシュリアへ向き直った。


「聖女様、北棟の守りは近衛が担います。神殿の房に置き続けるほうがむしろ政治的に」


「私の問いに答えなさい」


シュリアが遮る。


「解除命令を、誰が作らせたのです」


一拍だけだった。


だがその一拍で、ルデックの黒い脈は大きく跳ねた。


真琴は踏み込んだ。


「兵を下げろ、ヴァレリア」


「下げる必要は?」


「下げたふりでいい」


彼女は一瞬だけ真琴を見たあと、すぐに理解したらしい。廊下にいた近衛へ片手を振る。


「数歩後退。聖女様の通路を空けろ」


兵が動く。


その隙に、階下の曲がり角で待っていた別の二人が姿を見せた。鎖帷子の上から無地の外套を羽織り、荷運び人に見せかけている。だが歩幅が違う。人を運ぶ足ではなく、襲う足だ。


「やはり来た」


真琴が言うと、ルデックの顔色が落ちた。


「違う、私は」


言い終わる前に、その男は袖の中へ手を入れた。


ヴァレリアの剣が先に閃く。


短剣が床に跳ね、続いてルデック自身も壁へ押しつけられた。階下から駆け上がろうとした二人は、近衛に混じっていたヴァレリア配下の兵に取り押さえられる。真琴はそこで初めて、彼女が最初から数を伏せていたと気づいた。


「守りやすい部屋を選んだのは正解でしたね」


ヴァレリアはルデックの腕をねじ上げたまま言う。


「おかげで逃げ道も少ない」


ルデックが呻く。


「待て、誤解だ。私は命じられただけで」


「誰に」


真琴が問う。


「評議会の……」


そこで男は口を噤んだ。


喉元の黒い脈が喰い込む。名を出せば家ごと消されると知っている顔だ。


真琴はそれ以上追わなかった。ここで無理に吐かせても、末端の名前しか落ちない。


代わりに、床へ転がった命令書を拾い上げる。


「これで十分だ」


シュリアが低く言った。


「保護房への偽命令。実行役の待機。しかも私の封印を無視して」


彼女はルデックを見下ろした。法廷で見せた静かな顔のままなのに、いまは祈りの色がなかった。


「神殿の房へ手を入れるなら、次は私を通しなさい」


ルデックは返せない。


真琴は机の上の紙へ視線を戻した。


証人を消したい。徴税帳を消したい。記録庫も焼きたい。


そこまで急ぐのなら、次に出すべきは守りではない。表の場だ。


「ロアンの再審を立てる」


マティアスが顔を上げる。


「いまからですか」


「いまだからだ。裏で消す手が動いてるなら、表に引っ張り出したほうが早い」


ヴァレリアがルデックを兵へ引き渡しながら言う。


「再審には原簿が要ります。継承審問の出席記録、押印台帳、徴税命令の控え」


「全部出させろ」


真琴が言うと、マティアスが息を呑む。


「継承審問の原簿まで?」


「そこを触られると困るから、こいつらは急いでるんだろ」


シュリアの視線が真琴へ向く。


疑っている。だが、否定しきれない。


「私も立ち会います」


「異端監視のためか」


「それもあります」


彼女は即答した。


「ですが、いまの命令書を見た以上、神殿の名だけ綺麗にして下がる気はありません」


真琴は小さく頷いた。


「なら朝だ」


窓板の隙間から、弱い光が差し始めていた。


夜のうちに人を消す手は、朝の法廷を嫌う。


だからこそ、そこへ持ち込む価値があった。

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