焼け残った記録
夜明け前の記録庫は、墓のように静かだった。
旧審判記録庫は法廷宮殿の西棟外れにある。窓は細く、扉は分厚い鉄で補強されていた。火災を出した建物とは思えないほど頑丈だ。だからこそ、中を焼いた火が自然ではないと分かる。
真琴が鍵を差し込むと、錆びた音が長く続いた。
扉を押す。冷気と一緒に、焦げた羊皮紙の匂いが流れ出た。
「ひどいな」
思わず漏らすと、背後のヴァレリアが短く答えた。
「私は当時、外周警備にいました。偶発火災として処理されましたが、納得した者は少ない」
内部は半分崩れていた。棚は黒く炭化し、石床には焼け落ちた木片と灰が積もっている。だが、奥側の列は扉に守られたのか、煤をかぶりながらも形を保っていた。
真琴は灯りを掲げ、足場を確かめながら進む。
棚板の側面に年代と案件名が刻まれている。継承、徴税、赦免、属国調停。国を回すためのあらゆる揉め事が、ここに積まれていたのだろう。
「誰だ」
奥から男の声がした。
細身の男が、崩れた棚の影から出てきた。三十過ぎ、痩せ気味、灰色の上着に墨染みの残る袖。眼の下に寝不足の影が濃い。
ヴァレリアが一歩前へ出る。
「名乗れ」
「マティアスです。旧審判局付きの書記官でした」
男は慌てて両手を見せた。
「殿下から鍵が動いたと聞いて、まさかと思って来たのです」
真琴は灯りを少し下げた。
「ここのことを知ってるのか」
「知っている、というより」
マティアスは苦く笑った。
「焼けた後片付けを命じられた一人です。ほとんどの書類は灰にされ、残りは運び出せと。ですが、運び出し先の台帳は作るなとも言われた」
「誰に」
「評議会付きの監督官に」
真琴とヴァレリアは顔を見合わせた。
マティアスは崩れた棚の奥を指す。
「北方徴税記録と継承審問の控えは、あちらの列でした。火の回り方が妙だったので、何冊かは残っているはずです」
三人で灰を払いながら探す。
真琴の指先は、煤でじきに黒くなった。何冊も焼け焦げ、めくれば崩れる。だが奥の最下段で、比較的無事な束が出てきた。
北方徴税帳。
継承審問名簿。
古い裁定写本。
真琴は徴税帳を開き、次に継承審問名簿を開いた。墨の流れに見覚えがある。昨日、地下牢で見た偽の徴税命令書と同じ癖だ。跳ねの角度、払いの長さ、数字のくせ。
「同じ手だ」
「何がです」
マティアスが覗き込む。
真琴は頁を指で叩いた。
「北方の徴税命令を偽造した奴と、継承審問の名簿を書き換えた奴。少なくとも筆を運んだ人間は近い」
マティアスの顔色が変わる。
「そんな……」
「字で分かるものか」
ヴァレリアは疑いより確認として尋ねた。
「断定はしない。でも癖はある」
真琴は次の束を開く。
そこで、煤の間に埋もれた一枚の断片が落ちた。端だけが焼け残っている。
見出しはかろうじて読めた。
非常条項。
その下は焼け落ちていた。
残ったのは、
外部
審判
招致
という、途切れた文字列だけだった。
真琴が息を止めた、そのときだった。
ぱき、と乾いた音がした。
ヴァレリアの剣が一瞬で抜かれる。
「伏せろ!」
窓の細い隙間から、火矢が飛び込んだ。
棚へ突き刺さり、油を撒いたように火が走る。
「記録ごと焼く気か!」
真琴は断片を胸元へ押し込み、近くの棚を蹴って倒した。炎の線が断たれる。だがそれで終わりではない。扉の外でも足音が増えた。
「数は」
「四、いや六」
ヴァレリアは短く数えた。
「紋章なし。雇われです」
マティアスが青ざめて後ずさる。
「逃げ道は」
「裏手に小扉が」
「そこへ行け」
真琴が言うと、マティアスは迷った。
「でも記録が」
「死んだら読めない」
言い切ったとき、扉が内側へ弾けた。
黒布で顔を隠した男が二人、低く構えて突っ込んでくる。続けて後ろから油壺が投げ込まれた。床へ割れ、鼻を刺す匂いが広がった。
焼却が目的だ。
真琴は掌を開いた。
熱が集まる。昨日の雷とは違う、重く鈍い熱だった。火は得意ではない気がした。だがやるしかない。
「ヴァレリア、伏せろ」
「命令口調ですか」
「急いでる」
言いながら、真琴は床へ手を叩きつけた。
火ではなく、熱の膜を広げる。油に引火させないまま、押し返すような熱風。火矢の炎が一瞬だけ膨らみ、そのあと酸素を奪われたように縮んだ。侵入した男たちが息を詰まらせてよろめく。
「今だ!」
ヴァレリアが走る。
白刃が一閃し、先頭の男の手首から短剣を弾き飛ばす。返す刃で足を払う。もう一人が横から突くが、真琴が棚の板を掴んで差し込み、軌道を逸らした。
肩に痛みが走る。掠った。
だが致命傷ではない。
真琴は男の胸元を掴み、そのまま壁へ叩きつけた。落ちた短剣を蹴り飛ばす。
「誰の差し金だ」
男は答えない。奥歯を噛みしめる。その口元へ黒い脈が見えた。毒だ。
「舌を噛むな!」
真琴は顎を押さえたが遅い。男の喉がひくりと震える。
それでも、完全には飲ませなかった。気道が閉じる前に、真琴は指先へ冷気を集め、男の口元へ押し当てる。氷の薄膜が唇と舌を一時的に固めた。
ヴァレリアが片眉を上げる。
「器用ですね」
「自分でも今知った」
もう二人が扉口から逃げようとしたが、ヴァレリアが追い、ひとりを蹴り倒す。もうひとりは夜の通路へ消えた。
火は小さく燻っているだけだった。
マティアスが裏手の陰から戻ってくる。足が震えていたが、目は記録束へ向いていた。
「……残った」
「全部じゃない」
真琴は肩の血を拭う。
「でも、これで十分な糸口だ」
ヴァレリアが気絶した男の襟を掴み上げる。胸元に紋章はない。だが内側の革帯に、かすかに刻印があった。
葡萄の蔓を噛む狼。
「ラグナード公爵家の私兵上がりが使う古い印です」
ヴァレリアの声が低くなる。
「表に出せない仕事でしか使われない」
真琴は焦げた断片を胸元から出した。
端は焼け、文章の大半は欠けている。それでも確かに書いてある。
非常条項。
外部から裁きを呼ぶためのものらしい、欠けた記述。
召喚は事故ではなかったのかもしれない。
そう思った瞬間、ぞっとするより先に、妙な納得があった。
マティアスが真琴を見る。
「裁堂殿」
「何だ」
「もし本当に、ここから審判局を立て直す気があるなら」
彼は煤で汚れた手を握った。
「私も戻ります。焼け残りを、今度こそ消させたくない」
真琴は頷いた。
「じゃあ働け。寝る暇は減る」
マティアスは、ひどく疲れた顔で、それでも笑った。
記録庫の外では、夜がようやく薄れ始めていた。
東の窓から差す弱い光が、煤の中の銀文字を拾う。焼け残った制度の切れ端が、まだ完全には死んでいないように見えた。




