皇女の値踏み
東回廊の温室は、夜でも暖かかった。
法廷宮殿の冷えた石廊下を抜けた先にだけ、別の季節が閉じ込められている。高い硝子天井には月が貼りつき、その下で濃い緑の葉と白い花が静かに息づいていた。甘い香りがある。だが癒やしより先に、監視の気配が分かる。
真琴は足を止めた。
「隠れているなら出てこい」
葉の陰で、甲冑の革が小さく鳴った。
やはりいたか、と思う。ここは秘密の逢瀬の場所ではなく、獲物の逃げ道を消した商談の場だ。
「警戒心は及第点ね」
女の声が前からした。
花棚の向こう、月光の落ちる円卓のそばに、アルセリア・ヴァルハラが立っていた。法廷のときより軽い衣装だが、かえって隙がない。白金の布は体の線を隠しすぎず、隠さなさすぎもしない。高位の人間が、自分の見せ方を完璧に知っている立ち姿だった。
「座りなさい」
命令の形だが、無理に従わせる響きではない。従うかどうかを見る声だ。
真琴は向かいに座った。
卓上には酒ではなく、水差しと薄い紙束が置かれていた。
「色気のない招待だな」
「あなたに必要なのは葡萄酒ではなく、現実でしょう」
切り返しが早い。
アルセリアは紙束を卓の上へ滑らせた。
「今日、あなたが止めた処刑はひとつ。止められなかった処刑は今年だけで二十七。再審の機会すら与えられず、罪人として北方へ送られた役人は四十三」
真琴は紙を見た。名前、日付、処分理由。どれも短い。短いぶん、雑に人が消されているのが伝わる。
「これは」
「私が集めた分だけ」
アルセリアは自分の水杯に手を添えた。
「父は病床にあり、継承は宙に浮いている。七大貴族家は継承審問を買い、教団は奇跡認証を握り、誰もが帝国を自分の財布と思っている」
言葉に怒りはない。冷えている。だからこそ、長く見てきた現実だと分かった。
「あなたは、その財布に穴を開けた」
「褒め言葉か」
「価値判断よ」
彼女は初めて小さく笑った。
「使える刃か、ただの暴発か。その見極め」
真琴は紙束を置いた。
「で、結論は」
「半々」
即答だった。
「あの場で人を救ったのは見事。でも、あなたはこの宮廷の流儀を知らない。誰を敵に回したかも、まだ半分も分かっていない」
「教えてくれるのか」
「条件次第で」
予想どおりだ。
アルセリアは身を少し乗り出した。
「私に勝たせなさい、久城真琴。継承審問を正しい形へ戻したいなら、頂に立つ人間も選ばなければ意味がない」
「自分が正しいと言うつもりか」
「少なくとも、父の死を待ちながら帳簿を食い荒らす老人たちよりは」
短い沈黙が落ちた。
真琴は彼女の目を見る。
美しい女だ。だが、それより先に統治者の目をしている。欲しいものを言葉にすることを恥じない女だ。
だからこそ、ここで頷いてはいけない。
「俺は判決を売らない」
真琴が言うと、アルセリアの睫毛がわずかに揺れた。
「私に仕える気もない」
「では何に従うの」
「事実だ」
それだけ言うと、温室の空気が少しだけ変わった。
怒るかと思った。だがアルセリアは怒らなかった。代わりに、真琴を見る角度を変えた。
値札を貼る目から、強度を測る目へ。
「面倒な男」
「よく言われる」
「嘘ね。あなたは、人に分かりやすく嫌われる前に距離を取るタイプ」
真琴は答えなかった。
その沈黙を、剣の音が割った。
葉陰から、一人の女が歩み出る。
赤い髪を高く結い、白と金の胸当てを着けていた。腰の細剣が、月明かりで青く光る。法廷では兵の列に紛れていたが、近くで見ると圧が違う。整った眉と吊り気味の目が、まっすぐ真琴へ向いていた。
「ヴァレリア・ジャッジ」
アルセリアが言った。
「近衛付き審判騎士。あなたの監視役にちょうどいい」
ヴァレリアは一礼しなかった。
「殿下、本当にこの男を残すのですか」
「値踏みの途中よ」
「なら、私にも確認させてください」
言うより早く、ヴァレリアは細剣を抜いていた。
白刃が月を裂く。
真琴は反射で椅子を蹴り、横へ飛んだ。剣先が背もたれを貫く。乾いた木片が飛び散った。
「話し合いが早いな」
「死なない程度に測ります」
二撃目がくる。
踏み込みは鋭い。下から斜めに切り上げ、逃げた先へ手首を返して突きへ繋ぐ。迷いがない。訓練だけではない実戦の剣だ。
真琴は花壇の縁を蹴ってかわす。頬に風圧が走る。遅れれば鼻先を持っていかれていた。
剣筋が見えた。
正確には、見えているのはヴァレリアの体そのものではない。肩から肘、手首へ流れる、薄い線の連なりだ。力を込める前に揺れる脈。罪脈視と同じ質感だが、嘘ではなく動きの予兆を拾っている。
右からくる。
真琴は半歩だけ前へ入った。剣の最短距離を潰す。ヴァレリアの目がわずかに開く。肘を押さえ、刃を逸らす。続けて膝を払うふりだけ見せ、後ろへ下がった。
本当に倒す気はない。倒せる保証もない。
だが、致命傷だけは避けられる。
ヴァレリアの口元が、初めて動いた。
「面白い」
三合、四合。
真琴の呼吸は重くなる。ヴァレリアの剣は速い。速いが、型の美しさがある。誇りを持って磨いてきた剣だ。だから読み筋もある。
真琴は次の突きを紙一重でかわし、細剣の鍔に指先をかけて止めた。
刃が皮膚を浅く裂く。血が滲む。
それでも、喉元まで届く一線だけは止めた。
温室が静まる。
ヴァレリアは剣を引いた。
「ここまでで十分です」
呼吸も乱れていない声だった。
アルセリアが立ち上がる。
「結論は?」
「文官ではありません」
ヴァレリアは真琴を見たまま言う。
「剣士としては粗い。ですが、死線の見切りが異様に早い。護衛を付けなければ、いずれ誰かに刺されます」
「付ければ?」
「刺される前に刺せます」
それを聞いて、アルセリアは満足そうに頷いた。
「決まりね」
「決まってない」
真琴が言うと、第一皇女は肩をすくめた。
「拒否権はあるわ。でも、明日まで生き残りたいなら持っていたほうがいい」
彼女は卓の下から小さな鍵を取り出した。黒く焦げた鉄の鍵だ。
「旧審判記録庫の鍵よ。数年前の火災でほとんど焼けたけれど、全部ではない」
真琴は鍵を受け取る。
ずしりと重い。
「あなたが探しているものがあるかもしれない」
「親切だな」
「投資よ」
アルセリアは微笑んだ。
「あなたがどちらへ転ぶにせよ、その前に価値を最大まで見ておきたい」
温室を出るとき、真琴は背後の気配に気づいた。
ヴァレリアが二歩ぶん離れてついてきている。
「監視か」
「護衛です」
「違いは」
「私が判断します」
乾いた答えだった。
真琴は小さく息を吐く。
厄介だが、悪くない。
鍵の冷たさが掌に残っていた。焼けた記録の中に、あの偽印の手がかりがあるかもしれない。
そして、第一皇女がわざわざ自分にそれを見せる理由も。




