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異邦審判官と聖女の天秤 〜偽りの判決を砕く召喚者〜  作者: セルヴォア


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2/6

聖女は膝を折らない

控え室の扉が閉まると同時に、真琴は壁へ肩を預けた。


誰にも見られていないと思った瞬間、右腕が小さく震えた。握り込む。骨の内側にまで雷が残っているようだった。


無理もない、と自分で思う。


つい数刻前まで、通勤途中の駅前にいたはずだった。曇った空、歩道橋、信号の電子音。そこから白い光に呑まれ、気づけば石の法廷で人を救うか自分が死ぬかの二択だ。


震えないほうがおかしい。


だが、扉の外には兵の気配があった。弱っているところを見せる気はなかった。


「開けなさい」


女の声がして、兵たちが慌てる物音が続いた。


次の瞬間、控え室の扉が静かに開く。


白い衣の女が、ひとりで入ってきた。


法廷の燭火の下で見たときより近い。白銀の髪は背の半ばまで流れ、細い金の飾り紐が肩から胸を横切っている。祈りの人形のように整った顔立ちだったが、その眼差しは人形よりずっと厳しい。


兵たちは扉の外で止まった。彼女がそう命じたのだろう。


「聖女シュリア・セイントです」


名乗りは短かった。


「あなたに確認したいことがあります」


「尋問か」


「必要なら」


真琴は壁から背を離した。


「好きにしろ」


シュリアはまっすぐ歩み寄り、真琴の手元を見た。審判印はすでに光を失っていたが、銀の冷たさだけが残っている。


「その印は、古い審判官の象徴です。いまの宮廷で、正式に使える者はいません」


「じゃあ、さっきのは予定外だったわけだ」


「ええ。予定外で、説明のつかない事態です」


彼女はためらわず続けた。


「私は、あの力を神意と断定できません」


「異端だと?」


「侵食かもしれない、と言っています」


口調は冷たいが、声を荒げはしない。そのぶん、言葉の輪郭が際立つ。


真琴は彼女の表情を見た。恐れている、とは少し違う。見逃してはならないものを見極めようとする目だ。


「人を助けた」


真琴が言うと、シュリアは即座に返した。


「その場では」


「不満か」


「短い結果だけで、力の正しさは測れません」


彼女はそこで、やっと息をひとつ吐いた。


「神殿には、救うために始まって、人を壊した奇跡がいくつも残っています」


その一瞬だけ、声が柔らかくなった。


真琴は少しだけ見方を変えた。この女は、ただ神を振りかざしているわけではない。壊れたものを知っている。


「なら、なおさら見張ってろ」


真琴は椅子に腰を下ろした。わざとゆっくりと。


「俺も自分の力を信用しきってない」


シュリアの睫毛が動いた。


「……本気ですか」


「あんたの目から見て、嘘に見えるなら好きに言え」


沈黙が落ちる。


控え室の外から、誰かが走る足音が近づいた。扉が叩かれる。


「聖女様、緊急の訴えです」


シュリアが短く許可を出すと、若い神官が顔を覗かせた。息を切らし、額に汗を浮かべている。


「北方からの穀物搬入に関する帳面で不一致が見つかりました。先ほど処刑が止まった男の件と、同じ署名が」


真琴とシュリアは同時に顔を上げた。


「誰が拘束されている」


真琴が問うと、神官は一瞬迷ってから答えた。


「会計係の男です。穀倉から麦を抜いた疑いで地下牢に」


「審理は」


「まだです。ですが、公爵家の家令が、今夜中に処分すべきだと」


真琴は立ち上がった。


「案内しろ」


シュリアが前に出る。


「待ちなさい。あなたには何の権限も」


「さっき止めた処刑の続きだ」


「それはあなたの判断です」


「じゃあ、あんたはどうする」


真琴は扉の外を指した。


「牢で別の冤罪が口を塞がれるかもしれない。聖女様は祈って見送るか?」


神官が青ざめる。


シュリアは真琴を見た。


怒るかと思った。だが彼女は、数拍の沈黙のあと、神官に言った。


「灯りを二つ。鍵束も持ってきなさい」


地下牢は、法廷宮殿の下層にあった。


石段を下るごとに空気が湿る。鉄格子の並ぶ通路には、薄い尿臭と古い藁の腐りかけた匂いが混じっていた。遠くで誰かが咳き込み、鎖が小さく鳴る。


先導の神官が止まったのは、一番奥の房だった。


中では、中年の男が膝を抱えて座っていた。髭が伸び、指先に墨の染みが残っている。机に向かう仕事の人間だとすぐ分かった。


「名は」


「バシュレル……バシュレル・サンテスです」


男は立ち上がりかけ、足の鎖に引かれてよろめいた。目だけが必死だった。


「私は盗んでいない。帳面を合わせろと言われただけで」


「誰に」


バシュレルはシュリアの姿を見ると、泣きそうな顔になった。


「聖女様……!」


祈るように手を伸ばしかけ、すぐに下ろす。鎖が鳴る。


「北方徴税局から来た使いです。印璽つきの命令書を持っていた。税を一割増やし、そのぶんの不足は穀倉から補えと。だが数字が合わない。合うはずがないんです、死んだ鉱夫の名まで働き手に数えていた」


真琴は格子越しに房の中を見回した。藁の下、壁際の壺、食器。違和感は帳面だった。木箱の上に投げられた二冊の冊子。そのうち一冊だけ、墨の乾きが新しい。


「見せろ」


神官が鍵を開ける。


真琴は帳面を開いた。読めるはずのない文字列なのに、不思議と意味が頭へ入ってくる。召喚の副作用なのか、この世界の都合なのかは分からない。ただ助かった。


数頁めくって、真琴は眉を寄せた。


修正跡が荒い。元の数字を削り、上から塗りつぶしている。しかも、徴税命令の写しに押された印影の欠け方が、頁ごとに違った。


「この印、同じ型じゃないな」


バシュレルがはっとした。


「分かるのですか」


「見りゃ分かる」


真琴は写しをシュリアへ差し出した。


「あんたは」


シュリアは紙を受け取り、目を落とす。黙って二枚を見比べ、やがて唇を結んだ。


「……印の縁が違います」


「偽物か」


「少なくとも、神殿が継承審問で使う正式印ではありません」


バシュレルの肩が激しく揺れた。


「言ったんです、偽物だと。そしたら、私の妻と娘を北方の採掘村へ送ると」


真琴は帳面を閉じた。


やはり繋がっている。法廷の偽証、北方徴税、偽の印。


そして誰かが、証拠を持つ人間から順番に消そうとしている。


「この男は移せ」


真琴が言うと、神官が困った顔をした。


「どこへ」


「少なくとも、今夜ここより安全な場所へ」


「それを決めるのは私では」


「私が預かります」


シュリアの声で、通路の空気が止まった。


神官が目を見開く。


シュリアはなおも帳面を見ていた。その横顔は白いままだったが、先ほどまでの揺らがぬ確かさに、小さなひびが入っているように見えた。


「この件は、神殿付きの保護房へ移します。名目は再審のための身柄保全」


「聖女様、それでは公爵家が」


「私が答えます」


神官は黙った。


真琴はシュリアを見る。


「助かる」


「勘違いしないでください」


彼女は顔を上げた。


「あなたを信じたのではありません。帳面が、あなたの言葉を裏づけただけです」


「十分だ」


その返しに、シュリアは一瞬だけ言葉を失った。


やがて踵を返し、神官へ指示を飛ばす。


真琴はその背を見ながら、妙に静かな気分になっていた。


白いだけの聖女ではない。


膝を折らないぶん、折れたときは深いだろう。そんな予感が、胸のどこかに引っかかった。


地下牢を出ると、外はすでに夜の色へ変わっていた。


火皿の明かりが廊下を赤く染める。その先で、細い背の侍女が待っていた。


「久城真琴様」


侍女は深く一礼した。


「第一皇女殿下がお呼びです。夜半、東回廊の温室にて」


シュリアが振り返る。


侍女は視線を伏せたまま、逃げるように去っていった。


聖女の横顔が、わずかに硬くなる。


「行くのですか」


「呼ばれたならな」


「皇女殿下は、あなたを裁きには使いません」


「何に使う」


シュリアはすぐには答えなかった。


その沈黙自体が、十分に答えだった。

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