聖女は膝を折らない
控え室の扉が閉まると同時に、真琴は壁へ肩を預けた。
誰にも見られていないと思った瞬間、右腕が小さく震えた。握り込む。骨の内側にまで雷が残っているようだった。
無理もない、と自分で思う。
つい数刻前まで、通勤途中の駅前にいたはずだった。曇った空、歩道橋、信号の電子音。そこから白い光に呑まれ、気づけば石の法廷で人を救うか自分が死ぬかの二択だ。
震えないほうがおかしい。
だが、扉の外には兵の気配があった。弱っているところを見せる気はなかった。
「開けなさい」
女の声がして、兵たちが慌てる物音が続いた。
次の瞬間、控え室の扉が静かに開く。
白い衣の女が、ひとりで入ってきた。
法廷の燭火の下で見たときより近い。白銀の髪は背の半ばまで流れ、細い金の飾り紐が肩から胸を横切っている。祈りの人形のように整った顔立ちだったが、その眼差しは人形よりずっと厳しい。
兵たちは扉の外で止まった。彼女がそう命じたのだろう。
「聖女シュリア・セイントです」
名乗りは短かった。
「あなたに確認したいことがあります」
「尋問か」
「必要なら」
真琴は壁から背を離した。
「好きにしろ」
シュリアはまっすぐ歩み寄り、真琴の手元を見た。審判印はすでに光を失っていたが、銀の冷たさだけが残っている。
「その印は、古い審判官の象徴です。いまの宮廷で、正式に使える者はいません」
「じゃあ、さっきのは予定外だったわけだ」
「ええ。予定外で、説明のつかない事態です」
彼女はためらわず続けた。
「私は、あの力を神意と断定できません」
「異端だと?」
「侵食かもしれない、と言っています」
口調は冷たいが、声を荒げはしない。そのぶん、言葉の輪郭が際立つ。
真琴は彼女の表情を見た。恐れている、とは少し違う。見逃してはならないものを見極めようとする目だ。
「人を助けた」
真琴が言うと、シュリアは即座に返した。
「その場では」
「不満か」
「短い結果だけで、力の正しさは測れません」
彼女はそこで、やっと息をひとつ吐いた。
「神殿には、救うために始まって、人を壊した奇跡がいくつも残っています」
その一瞬だけ、声が柔らかくなった。
真琴は少しだけ見方を変えた。この女は、ただ神を振りかざしているわけではない。壊れたものを知っている。
「なら、なおさら見張ってろ」
真琴は椅子に腰を下ろした。わざとゆっくりと。
「俺も自分の力を信用しきってない」
シュリアの睫毛が動いた。
「……本気ですか」
「あんたの目から見て、嘘に見えるなら好きに言え」
沈黙が落ちる。
控え室の外から、誰かが走る足音が近づいた。扉が叩かれる。
「聖女様、緊急の訴えです」
シュリアが短く許可を出すと、若い神官が顔を覗かせた。息を切らし、額に汗を浮かべている。
「北方からの穀物搬入に関する帳面で不一致が見つかりました。先ほど処刑が止まった男の件と、同じ署名が」
真琴とシュリアは同時に顔を上げた。
「誰が拘束されている」
真琴が問うと、神官は一瞬迷ってから答えた。
「会計係の男です。穀倉から麦を抜いた疑いで地下牢に」
「審理は」
「まだです。ですが、公爵家の家令が、今夜中に処分すべきだと」
真琴は立ち上がった。
「案内しろ」
シュリアが前に出る。
「待ちなさい。あなたには何の権限も」
「さっき止めた処刑の続きだ」
「それはあなたの判断です」
「じゃあ、あんたはどうする」
真琴は扉の外を指した。
「牢で別の冤罪が口を塞がれるかもしれない。聖女様は祈って見送るか?」
神官が青ざめる。
シュリアは真琴を見た。
怒るかと思った。だが彼女は、数拍の沈黙のあと、神官に言った。
「灯りを二つ。鍵束も持ってきなさい」
地下牢は、法廷宮殿の下層にあった。
石段を下るごとに空気が湿る。鉄格子の並ぶ通路には、薄い尿臭と古い藁の腐りかけた匂いが混じっていた。遠くで誰かが咳き込み、鎖が小さく鳴る。
先導の神官が止まったのは、一番奥の房だった。
中では、中年の男が膝を抱えて座っていた。髭が伸び、指先に墨の染みが残っている。机に向かう仕事の人間だとすぐ分かった。
「名は」
「バシュレル……バシュレル・サンテスです」
男は立ち上がりかけ、足の鎖に引かれてよろめいた。目だけが必死だった。
「私は盗んでいない。帳面を合わせろと言われただけで」
「誰に」
バシュレルはシュリアの姿を見ると、泣きそうな顔になった。
「聖女様……!」
祈るように手を伸ばしかけ、すぐに下ろす。鎖が鳴る。
「北方徴税局から来た使いです。印璽つきの命令書を持っていた。税を一割増やし、そのぶんの不足は穀倉から補えと。だが数字が合わない。合うはずがないんです、死んだ鉱夫の名まで働き手に数えていた」
真琴は格子越しに房の中を見回した。藁の下、壁際の壺、食器。違和感は帳面だった。木箱の上に投げられた二冊の冊子。そのうち一冊だけ、墨の乾きが新しい。
「見せろ」
神官が鍵を開ける。
真琴は帳面を開いた。読めるはずのない文字列なのに、不思議と意味が頭へ入ってくる。召喚の副作用なのか、この世界の都合なのかは分からない。ただ助かった。
数頁めくって、真琴は眉を寄せた。
修正跡が荒い。元の数字を削り、上から塗りつぶしている。しかも、徴税命令の写しに押された印影の欠け方が、頁ごとに違った。
「この印、同じ型じゃないな」
バシュレルがはっとした。
「分かるのですか」
「見りゃ分かる」
真琴は写しをシュリアへ差し出した。
「あんたは」
シュリアは紙を受け取り、目を落とす。黙って二枚を見比べ、やがて唇を結んだ。
「……印の縁が違います」
「偽物か」
「少なくとも、神殿が継承審問で使う正式印ではありません」
バシュレルの肩が激しく揺れた。
「言ったんです、偽物だと。そしたら、私の妻と娘を北方の採掘村へ送ると」
真琴は帳面を閉じた。
やはり繋がっている。法廷の偽証、北方徴税、偽の印。
そして誰かが、証拠を持つ人間から順番に消そうとしている。
「この男は移せ」
真琴が言うと、神官が困った顔をした。
「どこへ」
「少なくとも、今夜ここより安全な場所へ」
「それを決めるのは私では」
「私が預かります」
シュリアの声で、通路の空気が止まった。
神官が目を見開く。
シュリアはなおも帳面を見ていた。その横顔は白いままだったが、先ほどまでの揺らがぬ確かさに、小さなひびが入っているように見えた。
「この件は、神殿付きの保護房へ移します。名目は再審のための身柄保全」
「聖女様、それでは公爵家が」
「私が答えます」
神官は黙った。
真琴はシュリアを見る。
「助かる」
「勘違いしないでください」
彼女は顔を上げた。
「あなたを信じたのではありません。帳面が、あなたの言葉を裏づけただけです」
「十分だ」
その返しに、シュリアは一瞬だけ言葉を失った。
やがて踵を返し、神官へ指示を飛ばす。
真琴はその背を見ながら、妙に静かな気分になっていた。
白いだけの聖女ではない。
膝を折らないぶん、折れたときは深いだろう。そんな予感が、胸のどこかに引っかかった。
地下牢を出ると、外はすでに夜の色へ変わっていた。
火皿の明かりが廊下を赤く染める。その先で、細い背の侍女が待っていた。
「久城真琴様」
侍女は深く一礼した。
「第一皇女殿下がお呼びです。夜半、東回廊の温室にて」
シュリアが振り返る。
侍女は視線を伏せたまま、逃げるように去っていった。
聖女の横顔が、わずかに硬くなる。
「行くのですか」
「呼ばれたならな」
「皇女殿下は、あなたを裁きには使いません」
「何に使う」
シュリアはすぐには答えなかった。
その沈黙自体が、十分に答えだった。




