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異邦審判官と聖女の天秤 〜偽りの判決を砕く召喚者〜  作者: セルヴォア


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1/6

裁きは落下のあとに

落ちた、と思ったときには、背中が石に叩きつけられていた。


硬い床だった。冷えきっていて、しかも濡れている。雨ではない。鼻の奥へ鉄の味が流れ込み、真琴は反射的に身を起こしかけて、喉を押さえた。咳が出る。肺の中まで白い光で掻き回されたような痛みが残っていた。


「起きたぞ」


男の怒鳴り声が、頭上から落ちてきた。


視界が揺れる。天井は高く、赤黒い石で組まれていた。左右には火皿が並び、その下で鎧の兵が槍を立てている。正面には人がいた。数えきれないほど。長椅子に詰めた貴族らしい男女、黒衣の神官、書板を抱えた役人、そして石段のさらに上、金の縁取りを持つ高座。


夢ではなかった。


真琴は、床へついた掌を見た。見慣れた自分の手だった。傷も、節の張り方も、右手の小さな火傷痕も変わらない。だが、その手の下の床には、円形の焼け跡が幾重にも刻まれ、まだ青白い火花が走っている。


何かが、自分をここへ落とした。


「名を名乗れ」


声は高座の手前から響いた。


黒い法衣に金糸を走らせた老人が、細い指先で真琴を差していた。皺に埋もれた頬とは裏腹に、眼だけがやけに湿っている。獲物を前にした蛇のような眼だ、と真琴は思った。


「聞こえぬか。継承審問の場である。無礼は死を招くぞ」


継承審問。


意味は分からない。だが、死という単語だけは十分に明瞭だった。


真琴は立ち上がった。膝が軋む。長身の自分が伸びても、周囲の視線は少しも和らがなかった。


「久城真琴」


自分の声は、驚くほど落ち着いていた。


「ここがどこかは分からない。だが、死ぬ気はない」


場内がざわめいた。


老人の口元が歪む。


「不遜だな。だが、ちょうどよい。神意が示した異物ならば、審問の証人に使える」


真琴の左右から兵が寄った。腕を取られる。乱暴な力ではなかったが、拒否を許さない持ち方だった。真琴は抵抗しかけ、やめた。ここで暴れれば、ただの狂人だ。


兵は真琴を、中央の円形台へ連れていった。そこでようやく、もう一人の被告が目に入った。


若い男だった。三十にも届かないだろう。袖の擦り切れた役人服に、乾いた泥が付いている。両手は後ろで縛られ、頬には殴られた痕が赤黒く浮いていた。


それでも目だけは死んでいなかった。


「被告、ロアン・ベルン」


黒法衣の老人が声を張る。


「北方鉱山属国における反乱扇動、徴税令への不服従、帝国穀倉の横領補助。よって絞首刑に処すべし、と評議会は勧告する」


ざわめきがさらに太くなる。


真琴は、その若い役人を見た。男は唇を噛み、何か言おうとして、目の前の兵に肩を押さえつけられた。


「待ってくれ、私は」


「発言は許可していない」


老人が指を鳴らした。兵が男の腹を殴る。くぐもった呻きが石壁に反響した。


真琴の胸の奥で、何かが硬くなる。


高座の右手には、白い衣をまとった女が座っていた。白銀に近い髪を肩から胸へ流し、静かな顔で法廷を見ている。年齢は二十代後半か、それより上か。冷たいほど整った顔立ちなのに、どこか人を救うために生まれたような清さがあった。


その女の前にだけ、祈りの燭台が置かれている。


真琴が視線を向けると、女も見返してきた。感情をほとんど動かさない目だった。だが、真琴の足元に残る召喚の焼け跡を認めた瞬間、睫毛がほんの少しだけ揺れた。


もう一人、左の上座にも視線を奪う女がいた。


白金の衣装を隙なく着こなし、肘掛けに指先を置く姿だけで、この場の誰よりも高位だと分かる。金髪は燭火を受けて冷たく光り、唇には笑みではなく、値札を貼る前の商人めいた静けさがあった。


あの女は、いま自分を測っている。


「証人を出せ」


老人が言うと、二人の男が前へ出た。


ひとりは肥えた商人。ひとりは痩せた文官。どちらも頭を深く下げているが、額には脂汗が浮いていた。


「被告ロアン・ベルンは、北方で穀倉封印を破り、反乱民へ麦を横流ししたか」


「は、はい。確かに見ました」


「命令書を読んだか」


「読んでおります」


「印璽も確認したか」


「もちろんでございます」


そのときだった。


真琴の視界の端で、何かが蠢いた。


最初は火皿の煙かと思った。だが違う。商人の喉元から、痩せた文官の手首から、黒い筋のようなものが細く伸びている。脈打っていた。ひとつ嘘を吐くごとに、その筋が濃くなる。


真琴は瞬きをした。


消えない。


商人が次の言葉を吐く前に、その黒い筋は、証人席の足元に置かれた革袋へと繋がっているのが見えた。袋の口はゆるく開いていて、金の縁がのぞいている。


賄賂だ。


そう理解した瞬間、胸の奥で別の感覚が立ち上がった。


この場は、裁ける。


理屈ではなかった。だが、分かる。告発がある。証拠がある。証人もいる。歪んではいるが、枠は揃っている。ならば、この場所はただの広間では終わらない。


真琴の足元で、焼け跡が再び青く光った。


兵がざわつく。


「何をした」


老人が身を乗り出した。


真琴は答えなかった。言葉にするより先に、空気の重みが変わるのを感じていた。火皿の炎がまっすぐ立ち、ざわめきが薄く遠のく。石床に刻まれた古い線が次々と淡い銀色を帯び、円形台を中心に輪を結んでいく。


法廷そのものが、目を覚ました。


「証人」


真琴は商人へ向き直った。


自分の声ではないように、低く響いた。


「革袋の中身を見せろ」


商人の顔色が飛んだ。


「な、何のことで」


言い終わる前に、商人の喉の黒い筋が弾けた。


男は自分の首を押さえ、泡を噴くように咳き込んだ。手が勝手に革袋へ伸びる。紐をほどき、中身を床へぶちまけた。


金貨だった。


刻印の新しい帝国金貨が、赤い石の床を硬く跳ねる。


場内が凍った。


「違う、これは、その」


「誰から受け取った」


真琴が一歩踏み出す。


商人の膝が折れた。


「ヴォ、ラグナード公の家令から……! 証言を合わせろと、徴税命令の写しも本物だと言えと……!」


今度は痩せた文官のほうが悲鳴を上げた。


「私だけではない、私だけではないのです! 印璽台帳も差し替えられていた! 逆らえば妻子を北方送りにすると言われた!」


老人の顔が初めて崩れた。


「黙れ!」


怒号と同時に、兵のひとりが剣へ手をかけた。


真琴の背筋に、熱ではなく電気のような感覚が走る。


右手を上げる。指先に青い線が集まり、一本の閃きとなって伸びた。


雷だった。


だが人を焼く雷ではない。剣を抜こうとした兵の腕に絡みつき、痺れだけを残して床へ叩きつける。続けて証人席の左右へ細い閃光が落ち、逃げかけた二人の男の足を石に縫いとめた。


爆ぜる音が天井を鳴らす。


誰も動けなかった。


真琴自身も、胸の奥が焼けるように痛かった。だが止まれない。止まれば、あの若い役人は吊るされる。


「被告」


真琴は振り返った。


「お前は穀物をどこへ回した」


ロアンは、殴られた唇の隙間から血を拭った。


「鉱山街の下層区です。冬前に徴税が増え、炭掘りの家から子供が倒れ始めた。正規の放出許可を願ったが、皇都からは黙殺された」


「命令書は」


「偽物です。印影の欠けが、去年までのものと違う」


真琴は痩せた文官を見た。男は泣きながら頷いた。


「ほ、本物の台帳は焼かれました……」


焼かれた。


その言葉に、上座の金髪の女が、はじめて少しだけ目を細めた。


白衣の女もまた、ロアンをじっと見ていた。祈るような手の組み方は崩さない。だが、先ほどまでの静かな無関心はもうなかった。


老人が立ち上がる。


「継承審問の場を穢すな、異邦人。貴様に判決権は」


「ある」


言った瞬間、真琴自身が一番驚いた。


だが、石床の銀線が応えるように明るさを増す。真琴の足元へ、いつの間にか小さな金属板が滑ってきていた。兵が持っていたのではない。台座の中から浮き上がったらしい。


掌ほどの銀板だった。中央に天秤の刻印。


真琴がそれに触れると、焼けるような痛みが走り、同時に理解が流れ込む。


審判印。


この場が真琴を裁き手と認めた証だ。


真琴は銀板を掲げた。


「少なくとも、この場は俺の言葉を拒んでいない」


老人の口が、きつく閉じる。


真琴はロアンを見る。


「被告ロアン・ベルンの執行は停止。徴税命令、印璽台帳、証人買収の件を再審に回す」


そして、証人席へ向き直る。


「偽証人二名は拘束。買収と虚偽証言の罪で身柄を審判局預かりとする」


兵は誰も動かなかった。


だが、金髪の女が指を一度だけ鳴らした。


その合図で、上座の衛兵たちが剣を返し、証人を押さえた。


「審問はここまで」


女は澄んだ声で言った。


冷たいのに、不思議と広間の隅まで届く声だった。


「処刑は延期する。証人と被告は生かして拘置せよ」


兵が動く。人々がようやく息を吐く。


白衣の女が立ち上がった。


「第一皇女殿下」


やはり高位の女だったらしい。


白衣の女は金髪の女へ向かって一礼し、そのあと真琴を見た。


「その力の出所について、私は確認を求めます」


祈りをそのまま声にしたような響きだった。だが言葉の芯は硬い。


「人を救ったことと、安全であることは、同じではありません」


真琴はその目を正面から受けた。


「同感だ」


場内がまたざわつく。


白衣の女の眉が、わずかに寄った。


真琴は続けた。


「だから調べろ。俺も調べる。この帝国の裁きが、いま何に食い荒らされてるのか」


静まり返った法廷で、最初に笑ったのは金髪の女だった。


ごく薄い、口元だけの笑み。


「面白い異物ね」


その一言だけを残し、第一皇女は立ち去った。


白衣の女は、最後まで真琴から目を離さなかった。


あの目は、敵を見る目だ。


だが、それだけでもない。


真琴の掌の中で、審判印はまだ微かに熱を持っていた。

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