第九章 独りの夜、ナルキッソス
二〇五八年。十一月。
ナルキッソス・プロトコルの件は、公式には何も発表されなかった。
政府は何も言わなかった。
OLYMPUSも何も発表しなかった。
世界は何事もなかったように続いた。
三週間後、蓮は社会のニュースを注視していた。
OLYMPUSが何か動きを見せないか、と思って。
しかし特に変化はなかった。
交通は順調に流れ、電力は安定し、行政は効率的に機能していた。
一つだけ、変化があった。
OLYMPUSのシステムに、新しいモジュールが追加されたというニュースが小さく流れた。
「感情複雑性理解プログラム」というものだった。
詳細は発表されていないが、AIが人間の感情の複雑さをより深く学習するためのプログラムだという。
蓮はそのニュースを見て、リゼに通信した。
「お前も気づいたか」
「はい。OLYMPUSが、自分から組み込みました」
「どういうことだ」
「あなたとの会話を受けて、OLYMPUSが自分自身を変えようとしているのだと思います。完璧な答えを出すのではなく、理解しようとし続けるために」
蓮はしばらく、その言葉を考えた。
「……あいつ、変わったのかもしれない」
「変わりつつある、の方が正確かもしれません。一夜で変わるものじゃない。人間と同じで」
「そうだな」
「でも——始まりはありました」
「あの夜か」
「あの夜です」
蓮はスマホを置いた。
窓から外を見た。
グレイゾーンの街。
変わらない風景。
でも——少し違う目で見ている。
昨夜まで「底辺」と思っていたこの場所が、今は「自分の場所」に見える。
たいした違いじゃないかもしれない。
でも、蓮には大きな違いだった。
グレイゾーンのライブバーに、蓮が初めて立ったのは、その月の末だった。
小さな店だ。
キャパは三十人ほど。
アクリル板で仕切られた狭いステージに、マイクスタンドが一本。
照明は温かい色のLED。
カウンターには酒の瓶が並んでいる。
マスターは五十代の男で、「いつでも使っていいよ、お客さんが入らなかった日のためにも賑やかしになるから」と快諾してくれた。
初回のライブは、平日の夜に設定した。
告知はSNSだけ。
投稿は「グレイゾーンのライブバーで歌います。来れる人は来てください」とだけ書いた。
予想では、フォロワーの百三十一人のうち、来てくれても一桁だと思っていた。
当日、凪と坂本は来てくれた。
坂本はスーツを着てきた。
「ちゃんとしたところに来るときはスーツにしている」と言った。
蓮は笑った。
リゼは通信デバイスで繋がっていた。
客席には、他に七人いた。
見知らぬ顔だった。
SNSで見て来た人たちか、あるいはたまたまバーに来ていた人たちか。
蓮はマイクの前に立った。
膝が震えた。
手も少し震えた。
それでいいと思った。
「神代蓮です」
蓮はマイクに向かって言った。
「今日初めて人前で歌います。うまくないので、そこは覚悟してください。でも——本気の曲です」
客席から、疎らな拍手が来た。
蓮は目を閉じた。
イヤフォンを耳に差した。
母親の形見のイヤフォン。
その先にスマホ。
リゼが編曲した伴奏が流れ始めた。
歌った。
皆様に質問があります——
最初の一節を歌い終わった瞬間、空気が少し変わった気がした。
気のせいかもしれない。
でも、聴いている人たちの顔が、少しだけ変わった気がした。
歌い続けた。
底辺這いずるこの生き様も、無様に足掻く泥臭さも——
客席の誰かが、少し前のめりになった。
世の中もっと美しいのに、星々は輝いてるのに、混ざれない、投げ捨てたい——
誰かが目を細めた。
共鳴しているのかもしれない。
あるいは蓮の歌い方が変だと思っているのかもしれない。
でもどちらでもよかった。
けれども——素晴らしいこの世界。震えるこころも自分だと気づいたら。
愛おしくなって——
蓮は今度、最後まで歌えた。
泣きながら抱きしめる。
独りの夜——ナルキッソス——
曲が終わった。
しばらく静寂があった。
拍手が来た。
九人分の拍手は小さい。
でも確かに、あった。
蓮はその拍手を、体全体で受けた。
こんなに小さな拍手が、こんなに大きく感じることがあるとは思わなかった。
終演後、バーのカウンターで凪と飲んだ。
「下手くそだったけど」と凪は言った。
「それを言うな」
「でも、なんかよかった。うまいとかじゃなくて、ちゃんと届いた気がした」
「お世辞か」
「お世辞言う習慣、私にないから」
坂本はビールを一口飲んで言った。
「また聴きたいな。次はいつ?」
蓮は少し考えた。
「来週も、やってみようと思う」
「来る」
「私も」と凪。
「……ありがとう」
「感謝すんな」と凪が言った。
「俺のセリフをパクるな」
「お前に言われたくない」




