愛おしくなって
★第七章 素晴らしいこの世界
東の空が、オレンジ色に染まっていた。
グレイゾーンの路地は、朝の光の中で違って見えた。
夜は汚く見えたコンクリートの壁が、朝日を受けると少しだけ温かい色になる。
水たまりに空が映っている。
どこかから鳥の声がする。
グレイゾーンに鳥がいることを、蓮は今まで意識したことがなかった。
野良猫が一匹、屋根の上から四人を見下ろしていた。
昨夜と同じ猫かどうかはわからない。
でも同じように、ゆったりと構えて、こちらを見ている。
「綺麗だな」
蓮は言った。
「そうですね」とリゼが言った。
「見えるか、お前に」
「データとして——ではなく、今は、綺麗だと思います。確かに。これが美しい、という処理と、これが美しい、という感覚の差異が、私にはまだわかりませんが——どちらであっても、今この空を見ていることは、好ましいです」
「それで十分だよ」
リゼはまっすぐ空を見ていた。
その横顔に、朝日が当たっていた。
人工の顔に、本物の光が当たっている。
その光景が、なぜか蓮には、とても大切なものに見えた。
いつか忘れても、また思い出したくなるような、そういう光景。
「ねえ」
凪が言った。
「あの曲、歌ってよ」
「は?」
「昨日リゼに聞いた。あんたが作った曲があるって。せっかくだし、歌えよ。こんな朝にぴったりじゃん」
「こんな路地で?」
「こんな路地でいいじゃん。誰も聞いてないし」
「お前ら三人が聞いてるだろ」
「それくらいがちょうどいいよ、最初は」
坂本が言った。
「聞きたいな、私も」
蓮は少し考えた。
馬鹿らしい、と思った。
でも——馬鹿らしくてもいいか、とも思った。
馬鹿らしいことができる状態にある、ということ自体が、悪くない。
イヤフォンを取り出した。
耳には差し込まなかった。
スマホで伴奏を流した。
伴奏はリゼが昨日の夜のうちに少しだけ手を加えてくれたバージョンだ。
蓮のオリジナルと比べて、音の広がりが少し違う。
でも、蓮が作ったものの核は変わっていない。
そして、歌った。
声は、最初震えていた。
路地に反響した。
野良猫が驚いて屋根から去った。
でも歌い続けた。
皆様に質問があります。
人間に関する疑問です。
あなたは自分が大好きですか。
俺は大、大、大嫌いです。
凪は黙って聞いていた。
坂本は目を閉じていた。
リゼは、じっと蓮を見ていた。
底辺這いずるこの生き様も。
無様に足掻く泥臭さも。
ゾンビのような生き汚さが。
大、大、大、大嫌いです。
世の中もっと美しいのに。
星々は輝いてるのに。
混ざれない。
投げ捨てたい。
宇宙を漂うゴミのようで。
蓮は空を見ながら歌った。
オレンジ色が、少しずつ白に変わっていく。
朝が深まっていく。
けれども——
素晴らしいこの世界。
震えるこころも自分だと気づいたら。
愛おしくなって。
泣きながら抱きしめる。
独りの夜——
最後の一言が出なかった。
喉が詰まった。
涙ではない。
でも、何かが詰まった。
胸の奥から何かが来て、言葉を止めた。
「ナルキッソス」
リゼが、小さく言った。
蓮は彼女を見た。
リゼは、笑っていた。
ぎこちない笑いじゃなかった。
完璧な笑いでもなかった。
ちょうど真ん中の、どこかちょっとおかしくて、でも本当に温かみのある笑いだった。
「続けてください」
リゼは言った。
「最後まで」
蓮は一度、目を閉じた。
深呼吸した。
そして歌った。
「ナルキッソス」
歌が終わった。
三秒くらいの沈黙があった。
「下手くそ」と凪が言った。
「うるさい」と蓮が言った。
坂本が、静かに拍手した。
一人の拍手は小さかったが、確かにあった。
「いい曲だ」と坂本は言った。
「本当にいい曲だ。自己嫌悪を正直に歌って、それでも最後に愛おしいと言える。そういう曲は、珍しい」
蓮は、少し照れた。
照れることなんて、久しぶりだった。
「……ありがとうございます」
「感謝するのはこっちだ」
「さっきから同じことばかり言ってますね、坂本さん」
「それでいいんだ。同じことでも、繰り返す価値がある」




