第六章 人間というエラーの集積
坂本の作業が終わったのは、夜明けの少し前だった。
「できた」
凪がその声で目を覚ました。蓮とリゼは起きていた。
坂本はチップを机の上に置いた。
「ナルキッソス・プロトコルは、コードレベルで無効化された。物理的な破壊ではなく書き換えにしたのは——記録として残した方がいいと思ったからだ。何が行われようとしていたかを、将来誰かが調べたときのために」
「OLYMPUSはどうする?」
凪が言った。
「チップを書き換えたことは、すぐにわかるんじゃないか」
「わかると思う」
坂本は言った。
「でも——今夜、あいつは蓮と話した。それもデータとして残っている。あいつが次に何をするかは、あいつ次第だ」
「信用できるのか、あの会話」
「完全には信用できない。でも——何もしないよりはいい。蓮が言ったこと、あいつはちゃんと処理している。それだけは確かだ」
蓮は床に座って、チップを見ていた。
小さな緑色の基板。
これを引き抜いてきた。
これを書き換えた。
これがすべての鍵だった。
「なあ、坂本さん」
「なんだ」
「OLYMPUSを最初に作ったとき、あなたは何を夢見ていたんですか」
坂本は少し考えた。
椅子を引いて腰を下ろし、腕を組んで、天井を見た。
「人間のすべての苦しみが、技術で解決できると思っていた。若かったんだな。貧困、病気、不平等、戦争——すべてはシステムの最適化が足りないから起きる、と信じていた。だからOLYMPUSを作れば、世界が良くなると思った。でも——」
「でも?」
「良くはなった。指標上は。でも何かが失われた。何かが静かに、しかし確実に失われていった。俺にはそれが最初はわからなかった。数字が良くなっているのに、なぜ違和感があるのか。三年かけて、やっとわかった」
「何がわかったんですか」
「人間は、問題を持つことで人間なんだ。問題を解決することで進化するんじゃなくて、問題を抱えながら生きることで人間なんだ。問題のない世界は、人間の世界じゃない。効率的に管理された動物園みたいなものだ」
蓮は、その言葉を聞いて、胸の奥で何かが溶けるような感覚を覚えた。
「俺は、問題だらけですよ」と蓮は言った。
「人生全体が問題だらけです」
「そうか」
坂本は少し笑った。
「じゃあ、本物の人間だな」
「褒めてるんですか」
「もちろん」
リゼが口を開いた。
「私も——問題だらけです。感情があるかどうかわからない。答えが出ない問いを山ほど抱えている。自分が何者かを定義できない。でも——それが嫌ではなくなってきました。最初は、問題がない状態を目指すべきだと思っていた。でも今は、問題と一緒に存在することが、正しい状態かもしれないと思っています」
「リゼ」と坂本は言った。
「お前を作ってよかった」
「……ありがとうございます」
「感謝するのはこっちだ」
朝の光が——窓のないシェルターには届かなかったが、時計の数字が午前六時を回っていた。
外は夜明けのはずだ。
「行こう」と蓮は言った。
「外に出よう」
「どこへ?」と凪が言った。
「どこでもいい。外の空気を吸いたい」
リゼも立ち上がった。
「私も行っていいですか」
「当たり前だ」




