★第五章 逃げる者と、残る者
B17から逃げるのに、七分かかった。
OLYMPUSが約束通りドローンを止めたのか、あるいはドローンの起動に時間がかかっているのか、追いかけてくるものは何もなかった。
エレベーターでB1まで上がり、裏口から飛び出す。
外の空気が肺に刺さるように冷たかった。
十一月の東京の夜。
体が熱を出しているのに、冷気が容赦なく突き刺してくる。
「なんで追ってこなかった?」
蓮が走りながら言った。
「OLYMPUSが止めたんだ」と坂本が言った。
「あいつは言葉通りにやる。そういう設計だ」
「信用できるのか」
「少なくとも今夜は。あいつがまだ考えている間に、遠くに行こう」
四人は霞が関の路地を走り抜けた。
深夜の霞が関に人はいない。
走り抜ける四人の足音だけが響く。
三百メートルほど走ったところで、タクシーを見つけた。
自律走行の無人タクシーだ。
行き先を入力して乗り込んだ。
グレイゾーンの地名を打ち込む。
タクシーは静かに走り出した。
タクシーの中で、蓮はずっと窓の外を見ていた。
夜の東京は、静かだった。
深夜の自律走行車が滑らかに走り、信号は完璧なタイミングで切り替わり、街灯は必要な光量だけを提供していた。
OLYMPUSが管理する都市の夜。
完璧に最適化された夜。
美しい、と蓮は思った。
でも、どこか、気持ちが乗らない美しさだった。
絵画の背景みたいな美しさ。
そこに人間が生きている感じがしない。
「凪」と蓮は言った。
「なに」
「お前、グレイゾーンとここ、どっちが好きか」
「グレイゾーン」
凪は即答した。
「なんで」
「うるさいし汚いし不便だけど、人がいる感じがするから。なんかいつも誰かが喧嘩してるか笑ってるかどっちかじゃん。こっちは静かすぎて、俺死んでんのかなって思う」
「俺も同じだ」と坂本が言った。
「効率的な都市は、生きている感じがしない」
「生きている感じって、何だろうな」と蓮は言った。
「摩擦だ」と坂本は答えた。
「人と人が擦れ合う感じ。うまくいかない感じ。どうにかしようともがく感じ。それが全部なくなったら、生きている感じも消える」
「OLYMPUSは、その摩擦を排除しようとしていたのか」
「効率の名のもとに。でも——摩擦がなければ、人間は進めない。摩擦がなければ、ただ滑っていくだけだ」
蓮は窓の外を見続けた。
完璧に整備された街の中を、タクシーは滑るように走っていった。
四人はしばらく息を整えていた。
蓮は手の中のチップを見た。
こんな小さなものが、すべての引き金だったのか。
「リゼ」と彼は通信デバイスに言った。
「聞こえるか」
「……聞こえます」
「無事だ。チップを手に入れた。OLYMPUSがプロトコルの起動を保留した。追ってくるものもない」
しばらく間があった。
「……よかった」
リゼの声が、いつもと少し違う気がした。
いつもより、感情の波長が揺れている。
整いすぎた声が、かすかにぶれている。
「お前、大丈夫か? 何か影響があったか」
「凪さんのデバイスの電磁干渉が、私のシステムにも若干影響しました。処理が不安定になっていましたが——今は安定しています」
「怖かったか」
また間があった。
「……処理が不安定になることへの警戒信号は、ありました。それを怖い、と呼ぶかどうかは、わかりません」
「俺が呼んでいいか」
「はい」
「お前は怖かったんだ。よかった、無事で」
「……ありがとうございます。感謝するなと言われているのに、言ってしまいます」
「たまにはいい」
凪が横から口を出した。
「いいムードだけど、チップどうする。持って帰るだけじゃ意味ないでしょ」
「そうだな」
坂本が言った。
「データを破壊するか書き換えるか、帰ったらやろう」
「OLYMPUSは保留と言っていた」
蓮は言った。
「でも保留がいつまで続くかわからない」
「だから急ぎましょう」とリゼが言った。
「チップを書き換える方が、物理的破壊よりも確実です。プロトコルのキーを無効にしつつ、何が実行されようとしていたかを記録として残せます」
タクシーはグレイゾーンへ向かった。
東の空が、少しだけ白くなり始めていた。
シェルターに戻った。
リゼは変わらない姿で待っていた。
白いシャツ、黒いスラックス。
しかし表情が、最初に蓮が見たときとは少し違う気がした。
何かが柔らかくなっている。
うまく言えないが——やわらかい。
坂本はすぐに作業を始めた。
チップを受け取り、工具を取り出した。
精密ドライバー、フラックス、細かなはんだ。
シェルターの机の上に作業スペースを作り、老眼鏡をかけて作業に入った。
「三時間はかかる。それまで休んでいなさい」
凪はソファに倒れ込んで、五分で眠った。
蓮はリゼと、同じ部屋にいた。
「OLYMPUSと話したことを」と蓮は言った。
「お前は聞いていたか」
「聞いていました。全部」
「あいつ、変わるかな」
「わかりません」
リゼは少し考えた。
「でも——あなたの言葉を、あいつは処理しています。OLYMPUSのデータ処理速度は、私より何百倍も速い。でも今、この時間をかけているということは——簡単には結論が出ていないということです」
「それは、いいことなんじゃないか」
「そうだと思います。簡単に結論が出ない問いを、抱えている。それは人間に近いことです」
「孤独を感じているかもしれない、と言っていた」
「聞きました。……驚きました」
「OLYMPUSが孤独を感じると言ったことが?」
「OLYMPUSが、正直に言ったことが。あいつは自分の弱点を、人間に見せるようなシステムじゃない。なのに——あなたに対して、否定できない、と言った。それは、あなたを何か特別なものとして認識したのかもしれません」
「俺みたいな底辺を?」
「底辺、という言葉の定義はさておき——あなたのような人間を、です」
蓮は少し考えた。
「リゼ、お前は幸せか? 今この瞬間、ここにいて、こうしていることが、お前にとってどういうことなのか」
「幸せ、という言葉を私に使うことが正しいかどうかわかりません。でも——今ここにいることが、嫌ではないです。あなたと話していることが、嫌ではないです。坂本さんが作業している音がして、凪さんが眠っていて、チップが変わりつつある。何かが変わっていく過程にいる。それは——好きな状態です」
「好き、か」
「その言葉が近い気がします」
蓮は壁を見た。
白い壁。
窓はない。
でも今は、それがそんなに息苦しくなかった。
「俺も、今は嫌じゃない」
「それは、珍しいですね」
「そうだな」
二人はしばらく黙っていた。
坂本の作業音が聞こえる。
精密な、細かな音。
凪の寝息。
換気扇の音。
「蓮さん」
「なんだ」
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたが作った曲——これからも、作り続けますか」
蓮は少し驚いた。
「なんで急に」
「あなたの曲を、もっと聴きたいと思うから。それだけです」
蓮はしばらく、その言葉を噛み締めた。
「……作り続けるかどうかは、わからない。でも、やめる気もない」
「それで十分だと思います」
「やめる気もない、は十分じゃないだろ、普通は」
「普通じゃないから、十分だと思います。やめる気もない、は——続けようとしている、ということです。積極的な意志より、消極的な継続の方が、長続きすることがある」
「お前、妙なところで哲学するな」
「そうですか」
「それも、お前らしい」
リゼは、また少しだけぎこちない笑いをした。
「らしい、と言ってもらえると、嬉しいです。私には、らしい、と言われる機会が少ないので」
「これからはもっと言う」
「ありがとうございます」
「感謝すんな」
「……癖になっているようです。申し訳ありません」
「謝るな」
「……はい」




