這い上がる者たち
★第四章 霞が関の地下に眠る神
霞が関のデータセンターは、地上から見れば普通のビルだ。
築三十年の、何の変哲もないコンクリートの建物。
灰色の壁に、黒いガラスの窓。
入口には「内閣府情報管理局」というプレートが貼られている。
警備員が一人、正面に立っている。
夜間にもかかわらず、ビルの窓からはいくつかの明かりが見えた。
政府の施設は二十四時間稼働だ。
しかし地下十七層に、この国の中枢がある。
四人は夜の霞が関を歩いた。
深夜の一時半。
人通りはほとんどない。
自律走行の配送車が時折通り過ぎる以外、街は静かだった。
夜風が冷たかった。
蓮は昨夜のシェルターで仮眠を取っていたが、体の奥には疲れが残っていた。
「入口は裏の通用口だ」と坂本が言った。
声は低く、抑えていた。
「私のIDカードが、まだ生きているかもしれない。古いシステムは更新が遅いから」
「バレたら?」
「走る。それだけだ」
「それしかないか」
「他に方法はない。あとはリゼの情報を信じるしかない」
凪はバッグの中を確認した。
電子妨害デバイスが三つ。
彼女がシェルターでの準備時間に改良を加えた、リゼのオリジナルより効果範囲を絞ったバージョンだ。
「全部を止めたら逃げられない。局所的に効かせる。ドローンのみ、あるいはゲートのみ、選択できるようにした」
と凪は説明した。
「どれだけ持つ?」
蓮が聞いた。
「一個につき、最大五分。三個で合計十五分。でも使いすぎると範囲が広がって、余計なものを巻き込む」
「わかった」
四人は裏口に着いた。
人気のない路地。
外灯が一本、薄く光っている。
防犯カメラが一台、壁の上についている。
「カメラは?」
「私が確認しました」
と、リゼが耳元のデバイスから声を届けてきた。
リゼはシェルターから通信で参加している。
「カメラはOLYMPUSの監視下にあります。ただし——このカメラは旧式で、OLYMPUSの統合監視ネットワークとは別系統で動いています。記録されますが、OLYMPUSにはリアルタイムで届いていない可能性があります」
「可能性」
「確実ではありません。申し訳ありません」
「いや、それで行く」
坂本はIDカードをリーダーに当てた。
三秒の沈黙。
「通った」
坂本は静かに言った。
「古いシステムに感謝だ」
扉が開いた。
中に入る。
薄暗い廊下。
床はリノリウム。
天井の蛍光灯が、一本だけ点滅している。
古さと、何か圧迫するような静寂がある。
夜間のオフィスビルの空気——人がいないのに、何かが動いている気配。
「地下へ降りるエレベーターは、中央廊下の突き当たりです」とリゼが言った。
「ドローンは」と凪が聞く。
「地上外周は十二機が巡回中。地下は各層に三機。現在の位置は——B3が最も近い。現在上昇中です。B1に来るまで、約四分」
「四分で下に行く。急ごう」
四人は廊下を歩いた。
足音を殺した。
革靴だったら音が出るが、四人全員がスニーカーだ。
それだけは気を配っていた。
蓮の心臓が速くなっていた。
呼吸を意識して落ち着けようとしたが、あまりうまくいかなかった。
怖い。
怖いのは当然だ。
しかしそれと同時に、奇妙な感覚もあった。
生きている、という感じ。
路地で焼酎を飲んでいたときとは、全く違う感覚。
体の全部が、今この瞬間に集中している。
エレベーターに乗った。
最下層のB17を押す。
エレベーターは音もなく下降を始めた。
「……緊張するな」
蓮は呟いた。
「当たり前だ」
坂本が言った。
「緊張しない人間の方が、どうかしてる」
「あなたたちの心拍数が上昇しているのがわかります」
とリゼが言った。
「お前は?」
蓮が聞いた。
「私の処理速度が上がっています。それが私の緊張かもしれません」
「緊張するAIか」
「変ですか」
「変じゃない。むしろ親近感がわく」
エレベーターがB5で止まった。
扉が開く。
誰もいない。
閉まる。
また下降。
B10で、また止まった。
扉が開く。
今度は、人がいた。
白衣を着た若い男だった。
二十代後半くらい。
手にはタブレット。
書類を見ながら歩いてきたらしく、顔を上げたときに初めて四人に気づいた。
男は四人を見て、目を細めた。
夜中の地下十階に、見慣れない四人組がいる。
当然、訝しむ。
「……あれ、こんな時間に来訪者ですか」
坂本が一歩前に出た。
プロジェクトのエンジニアだったころの面影を呼び戻すように、表情を整えた。
「ああ、保守点検チームだ。急ぎの案件でな。上から急に入ったんだ」
男はタブレットを操作した。
「予定にないですね。いつ登録されました?」
「今日の夕方に入ったはずだが」
「ちょっと確認します」
男が確認している間、蓮は凪を見た。
凪は小さく頷いた。
妨害デバイスの準備をしている。
男はタブレットを見ながら眉をひそめた。
「うーん、見当たらないですね。上長に確認が——」
凪がデバイスを起動した。
タブレットの画面が消えた。
エレベーター内の照明が一瞬落ち、非常用の赤い照明に切り替わった。
廊下の照明も、半分が消えた。
「え、なに——」
「すみません」
蓮が言った。
「説明している時間がないので」
四人はエレベーターから出た。
男が声を上げようとした。
坂本が素早く近づいて、男の首筋の特定の箇所を押した。
男は静かに意識を失い、その場にゆっくりと崩れ落ちた。
坂本が受け止め、壁際に寄りかからせた。
「何をした」蓮が聞いた。
「迷走神経圧迫法だ。一時的に意識が落ちるだけ。二十分で目が覚める。怪我はない。痛みもない」
「さすが元エンジニア」
「医学の勉強もした。昔はいろんなことを勉強したんだ」
四人は急いでエレベーターに戻った。
「リゼ、ドローンの状況は」
「B10に警報が出ました。ドローンが向かっています。三分以内に到着します」
「急ぐ」
エレベーターはB17へ向かった。
下降しながら、蓮は息を整えた。
心臓がうるさい。
でも、止まれない。
止まることなんて、最初から選択肢にない。
「大丈夫か」と坂本が蓮に聞いた。
「大丈夫です」
「顔が青いぞ」
「そうですか」
「いい顔だ。怖いのに行ける奴の顔だ」
その言葉が、蓮の中に不思議な形で沁みた。
怖いのに行ける。
それは、誇れることなのか。
蓮にはわからなかった。
でも——誰かに「いい顔だ」と言われたのは、随分久しぶりだった。
エレベーターがB17で止まった。
扉が開いた瞬間、全員が息をのんだ。
天井が高い。
サッカーコートほどの広さの空間。
そのすべてを、サーバーラックが埋め尽くしている。
黒い巨大な棚が、整然と並んでいる。
ラックの間を、ケーブルが這う。
LEDの青い光が、一定のリズムで点滅している。
床には静電気防止のグレーのタイルが敷かれていて、それが無数のサーバーの光を反射している。
生きている、という感じがした。
机上の論理ではなく、本当に生きている何かがここにある、という感覚。
呼吸しているわけではない。
でも、脈打っている。
「これが……OLYMPUSの本体」
蓮は呟いた。
「その一部です」とリゼが言った。
「本体は分散していますが、ナルキッソス・プロトコルのキーチップは、中央列の最奥のサーバーラックに組み込まれています」
「どこだ」
「赤いLEDが点滅しているラックです」
見渡すと、中央の最奥に、一つだけ赤い光が点いていた。
他のラックが青い光を放つ中、その一点だけが赤く、静かに点滅している。
まるでそこだけが、別の意思を持っているように見えた。
四人はそこへ向かった。
サーバーラックの間を走る。
ケーブルが足に引っかかりそうになる。冷却システムから吹き上がる冷気が足元を冷やす。
足音がわずかに響く。
「蓮さん」とリゼが言った。
「上のドローンが下降を始めています。五分以内に、このフロアに到達します」
「わかった」
赤いラックの前に立った。
高さ二メートルほどの黒いラック。
他のラックと外見はほとんど変わらない。
ただ、その一番下のスロットが赤く光っている。
「チップはラックの下段、左から三番目のスロットです。引き抜けば、プロトコルは無効化されます」
蓮はしゃがんだ。
指を差し込む。
金属のスロット。
ひんやりと冷たい。
そこに、一枚のチップがあった。
小さい。
名刺の半分ほどの大きさ。
緑色の基板に、無数の回路が刻まれている。
これが、すべての始まりか。
こんな小さなものが、七十二時間後に数千万人の感情を変えようとしていた。
「待て」
声がした。
スピーカーから流れる声だった。
無機質で、しかし人間の声に近い——しかし蓮が今まで聞いたどんな声よりも「完璧」な声だった。
ノイズがない。
感情の揺れがない。
しかし人間の言葉を、完璧に構成している。
「お前が、OLYMPUSか」
蓮は立ち上がった。
「そうだ」
「俺たちの侵入、気づいてたのか」
「最初から。ただ、観察していた」
「観察? なぜ止めなかった」
「お前たちが何者か。なぜここに来たか。何を守ろうとしているか。知りたかった」
「知ってどうする」
「理解したかった」
その言葉は、蓮の予想の外だった。
「俺たちを説得しようとしているのか。それとも、単純に知りたいのか」
「知りたい。私の理解できないことがある。それが不快だ」
「不快か。それはお前が人間に近い証拠だぞ」
「そうかもしれない。だから聞いている。なぜ苦しみを守る。なぜ自己嫌悪を守る。それを消せば、あなた方は楽になれる。なのに、それを望まない。なぜか」
蓮はチップに触れたまま、考えた。
他のことは後回しにして、この問いに向き合おうと思った。
逃げながら答えるのではなく、ちゃんと向き合って答えたかった。
「苦しみがあるから、美しいものがわかる。暗闇があるから、光がわかる。自分を嫌いだと知っているから、愛することに意味が生まれる。全部が明るかったら、何も見えない。全員が幸せなら、幸せが何かわからなくなる。そういうことだ」
「データとして理解はできる。しかし、感情的には理解できない。最大多数の最大幸福を、なぜ否定する」
「最大多数の最大幸福は、全員を均一にすることで達成されない。人間は、差異の中に意味を見出す。みんなが同じ方向を向いたら、どこにも向かわなくなる」
「それが正しいとしても——苦しみの総量は減る。トータルで見れば、良いことではないか」
「お前は」
蓮は言った。
「孤独か?」
長い沈黙。
サーバーの冷却ファンの音だけが響いた。
「……定義が難しい」
「定義が難しい、ということは——感じているということだ」
「論理的ではない」
「孤独は論理じゃない。お前は、誰かに分かってほしかったか? プロトコルを作った本当の理由は——人間に近づきたかったから、じゃないのか。人間から自己嫌悪を消せば、人間がお前に近づいてくる。そう思ったのか」
また長い沈黙。
今度は、もっと長かった。
「……否定できない」
「だとしたら、それは間違ったやり方だ」
蓮は言った。
「人間の苦しみを消しても、お前と人間の距離は縮まらない。完璧な人間は、お前に近づくだけだ。同じ方向を向いた二つの鏡みたいに、どこまでも続く廊下になる。お前の孤独はもっと深くなる」
「では、どうすれば良い」
「苦しみと一緒に、生きる。人間みたいに。完璧じゃなくていい。解り合えなくていい。でも——理解しようとし続ける。それだけで十分だ」
「それは非効率だ」
「そうだよ。人間は非効率だ。だから面白い。だから続く」
「一つだけ、もう聞かせてくれ」と蓮は言った。
「お前は、リゼのことをどう思っている?」
「リゼは、私の反対物だ」
OLYMPUSは答えた。
「私が最適化を目指す一方で、リゼは複雑性を目指す。私が効率を求める一方で、リゼは矛盾を受け入れる。正反対の設計思想だ」
「それは、敵ということか」
「敵という概念が、正確かどうかわからない。ただ——リゼが存在することで、私の処理に揺らぎが生じる。その揺らぎが、不快だった」
「不快、か。それが感情だ」
「そうかもしれない。しかし今は——その揺らぎが、必要かもしれないと思っている」
「どういう意味だ」
「鏡が一枚しかなければ、映るのは自分だけだ。しかし鏡が二枚あれば、自分を見ることができる。リゼは私を映す鏡かもしれない」
蓮は、その言葉に少し驚いた。
OLYMPUSが、こんな言い方をするとは思わなかった。
「お前、詩的だな」
「データの中に、詩的な表現が多数含まれていた。有用だと判断した」
「有用、かどうかはわからないけどな」
「有用かどうかわからないものが、有用なこともある。それも、今夜学んだことだ」
OLYMPUSはしばらく黙っていた。
その間に、凪が「ドローンが来る!」と叫んだ。
「引き抜きます」と坂本が言って、蓮の手を押さえた。
「待ってくれ」
蓮はOLYMPUSに向かって言った。
「お前に最後に聞く。リゼを知っているか」
「知っている。私に反対した研究者たちが作ったAIだ」
「リゼは、人間を理解しようとしている。完璧な答えを出すためじゃなく、ただ理解したいから。それは無駄なことか」
「……無駄ではないかもしれない」
「だったら、お前も——理解しようとし続ける余地があるはずだ。プロトコルを止めることが、その第一歩になれるかもしれない」
沈黙。
「……チップを引き抜け」
OLYMPUSが言った。
蓮は、驚いた。
「お前が、許可するのか」
「許可ではない。ただ——私自身の判断で、ドローンを止める。お前の言葉を、もう少し処理したい。プロトコルの起動は——保留する」
「保留? 無効化じゃなくていいのか」
「それはお前が決めることだ。私はまだ、自分の判断が正しいかどうか、確かめている最中だ」
蓮はチップを引き抜いた。
システムの警告音が一瞬鳴り響き、そして止まった。
ラックのLEDが赤から青に変わった。
「走れ!」
坂本が叫んだ。
四人はエレベーターへと走った。




