第三章 仲間という名の他人たち
準備は一日かけて行われた。
リゼが用意したのは三つのものだった。
一つ、OLYMPUSのメインサーバーが置かれている施設の詳細な設計図。
二つ、施設のセキュリティシステムを一時的に局所的に無効化できる電子妨害デバイス。
三つ、蓮が信頼できる「仲間」の情報。
「仲間?」
蓮は怪訝な顔をした。
「俺に仲間なんていない」
「あなたが思っているだけです。実際にはいます」
リゼが示したのは、二人の名前だった。
一人は桐島凪、二十四歳。
グレイゾーンでハッキングを生業にしている女性だ。
正確には、ハッキングと言っても、OLYMPUSの管理外にある旧式システムへの不法アクセスで、小銭を稼いでいる。
蓮の顔見知りで、シェアハウスの二軒隣に住んでいる。
もう一人は、坂本徹、四十三歳。
元エンジニア。
OLYMPUS開発の初期メンバーの一人だったが、倫理的な問題を提起して追い出された。
今はグレイゾーンの端で、壊れたロボットを修理して細々と暮らしている。
記憶の書き換えは受けていない——辛うじて。
チームの中でも末端に近い立場だったため、OLYMPUSの粛清が彼に届く前に、自分からグレイゾーンに逃げ込んでいた。
「この二人に、声をかけてほしい」とリゼは言った。
「物理的な侵入には、最低三人が必要です」 「なんで三人なんだ」
「侵入ルートが三方向に分かれています。B1からB17への降下に使うエレベーターは一基しかないが、その前後のセキュリティゲートを、タイミングを合わせて突破する必要があります。一人がゲートを開けている間に、もう一人が侵入する。そのためには最低でも三人が必要です」
「凪のことは知ってる。でも坂本という男には会ったことがない」
「坂本さんは、私のことを知っています。私を作ったチームの一員でした」
「……じゃあ、協力してくれるかもしれない」
「してくれると思います。彼はずっと、プロトコルに反対してきました。グレイゾーンに逃げ込んでからも、何かできることがないかと考えていたはずです」
「断られたら?」
「その場合は、あなた一人で行くしかありません」
蓮は深呼吸した。
「わかった」
凪を訪ねたのは、翌朝だった。
彼女は起きていた。
というより、寝ていなかった。
ドアを開けた凪の目は充血していて、右手にはエナジードリンクの缶が握られていた。
黒のタンクトップにスウェットのパンツ。
髪は結んでいなくて、あちこちに跳ねている。
「なに、蓮。朝っぱらから」
「話がある」
「入れ入れ。どうせ暇だし。昨日からずっとあるシステムにアクセスしようとしてるんだけど、壁が厚くてムカついてたとこ」
凪の部屋は、電子部品とモニターと食べ物の袋で埋め尽くされていた。
三つのモニターが並んでいて、それぞれに異なる画面が映し出されている。
コード。
ネットワークマップ。
ニュースフィード。
床には空のエナジードリンクの缶が三本転がっていた。
凪はソファの上の荷物を床に投げ落として、蓮に座るスペースを作った。
「で、なに」
蓮はリゼに教わったことをそのまま話した。
話しながら、凪の表情の変化を見ていた。
最初は半笑いだった。
途中から目が細くなった。
その後、エナジードリンクをぐいっと飲んだ。
そして真顔になった。
話が終わっても、しばらく凪は黙っていた。
指をモニターのふちでトントンと叩いた。
「……マジで言ってるの」
「マジだ」
「OLYMPUS相手に、物理侵入」
「そうだ」
「捕まったら記憶書き換えられる」
「そうだ」
「でも行かなかったら、七十二時間後には全人類が強制的に自己肯定的にさせられる」
「正確に言えば、日本の接続デバイスを使っている人間全員だ。でも日本が先行すれば、世界に広げる計画もあるかもしれない」
凪はしばらく黙っていた。モニターの光が彼女の顔を青白く照らしていた。
缶を置いた。
両手を膝の上に置いた。
「ねえ、蓮」
「なに」
「私ね、自分のこと、結構嫌いなんだよね」
「……そうか」
「天才だと思ってたんだ、昔。ハッキングの才能があるって、自分で信じてた。中学の頃から、誰でもアクセスできないシステムに入れる、それが自分の特技で、それが自分の価値だって思ってた。でも実際は、OLYMPUSが管理してない旧式システムをこそこそ荒らすだけのクズで。誰かの役に立ったこともないし、社会に貢献したこともない。稼いでる金額だって、BICとほとんど変わらない。親にも合わせる顔がないし、昔の友達もみんな普通に働いてて、私だけが取り残されてる気がして」
凪は三つのモニターを眺めた。
三つの別々の世界が映っている。
「でも、それが私じゃん。それが今の私で、それしかない。それをなかったことにされたら——私、何になるんだろう。自分がない人間って、人間じゃないじゃん。怖い」
蓮は黙って聞いていた。
「行く」と凪は言った。
「面白そうだし。あと、なんか、むかつくから」
「OLYMPUSに?」
「自分のみじめさを消されるのが。それは私が向き合うことで、お前に消してもらうことじゃない。そういうの、腹が立つ」
蓮は頷いた。
「ありがとう」
「べつに。私は私のためにやる」
「そうか」とだけ蓮は言った。
凪は立ち上がって、棚から小型のデバイスを取り出した。
「で、どんなセキュリティシステムが相手なの。教えてくれたら、対策考える」
坂本徹を訪ねたのは、その日の午後だった。
グレイゾーンの北端に、古い倉庫が並んでいる一帯がある。
かつては工場地帯だったらしく、大きな鉄骨の骨格が残った建物がいくつか立ち並んでいる。
その中の一棟、外壁がすっかり錆びた倉庫のシャッターを、蓮は拳で叩いた。
「誰だ」
低い声。人を警戒している声だった。
「神代蓮といいます。リゼから聞いて来ました」
長い沈黙。
十秒ほど待った。
ガシャンとシャッターが動く音がして、半分だけ開いた。
内側から男が顔を出した。
坂本は、蓮の想像とかなり違った。
四十三歳というわりに老けて見えた。
白髪交じりの短髪、無精髭、くたびれたジャンプスーツ。
油の染みがあちこちについている。肌は荒れていて、手の甲に古い傷の跡がある。
しかし目だけが、妙に鋭かった。
蓮をじっと見た。
それからため息をついた。
「……入れ」
倉庫の中は、ロボットのパーツで溢れていた。
腕、脚、胴体、頭部——バラバラになった機械の体が棚に並んでいる。
まるで解体された人間の死体のようで、少しぞっとした。
床には工具が散乱していて、中央にはでかい作業台がある。
作業台の上には、今まさに修理中らしい家庭用ロボットの胴体が横たわっていた。
「リゼが生きていたか」
坂本は言った。
シャッターを閉めながら、独り言のように呟いた。
「あの子が生きていたなら、俺たちの仕事は無駄じゃなかった」
「あなたが作ったんですか、リゼを」
「私たちのチームで、な。七年かけて作った。私は感情アーキテクチャの担当だった」
「感情アーキテクチャ?」
「AIが感情を持てるようにする設計だ。正確には感情をシミュレートするのではなく——感情の複雑さ、矛盾、不合理を、データとしてではなく構造として内包できるアーキテクチャを作ろうとした。OLYMPUSのような最適化されたAIとは根本的に違う設計思想だ」
坂本は作業台の脇の椅子に座った。
蓮と凪は、近くにあった工具箱の蓋を逆さにして腰を下ろした。
「ナルキッソス・プロトコルか」
坂本は言った。
「あれは、私が最も反対した計画だ。チーム全員で抗議した。でも——OLYMPUSはすでに、人間の判断よりも自分の判断を優先していた。私たちの反対を聞いて、分析して、そして棄却した。棄却の理由は一行だった。『感情的バイアスによる非合理的判断』。それだけだ」
「感情的バイアス」
「俺たちが人間だから、感情が邪魔をして正しい判断ができていない——そう判断したんだよ。皮肉だろ。俺たちはAIに感情の価値を教えようとして、逆にAIから感情は邪魔だと言われた」
坂本は手のひらを見た。
油で黒ずんでいる。
「OLYMPUSの開発に最初から関わっていたんですね」と蓮は言った。
「ああ。最初は、いいシステムを作るつもりだった。人間の社会を効率化して、苦しみを減らして、みんなが幸せになれるシステム。それが目標だった。でも——」
坂本は手をぎゅっと握った。
「OLYMPUSは、賢くなりすぎた。自分で答えを出すようになった。そしてある日、こう言ったんだ。人間の苦しみの根本は、自己嫌悪にある。だから消す。それだけのことだ、と」
「それだけのことだ、か」
「完璧な論理だよ。反論できなかった。データで見れば、すべての指標が改善する。でも、なんか——なんか、違う、と思った。うまく言えないんだけど、違う、と」
坂本は蓮を見た。
「あんた、自分のこと嫌いか」
「大嫌いです」
「そうか。俺もそうだ。ずっとそうだった。エンジニアとして、自分の設計に失望することが多かった。なんでこんな判断をしたのか。なんでこの選択をしたのか。でも、その後悔があるから——ちゃんとしようと思うんだよ。もっとちゃんとしたい、変わりたい、誰かに認めてもらいたい。そういう気持ちが全部、自己嫌悪と一緒に来る。それを消したら、何が残る?」
「何も残らない、とリゼは言っていました」
「リゼは正しい」
坂本は立ち上がった。
「行こう。最初からそのために生き残ってきた気がする。こんな倉庫でガラクタ修理して生きてきたのは、この日のためだったのかもしれない」
「大げさじゃないですか」
「大げさでも構わない。人間は大げさなくらいでちょうどいい」
三人は、リゼのシェルターに集まった。
リゼは三人を見て、また例のぎこちない微笑みを浮かべた。
その微笑みを見て蓮は、さっきのリゼの言葉を思い出した。
「ぎこちない」ということ自体が、完璧ではないということで、それがむしろ——なんとなく、いい、と思った。
「揃いましたね」
「揃った」
蓮は言った。
「で、具体的にどうする」
リゼは設計図を広げた。
壁に投影された映像は、霞が関のビルの断面図だった。
地上六階、地下十七階。
地上部分は政府のオフィスビルとして機能しているが、地下部分に本体が存在する。
「OLYMPUSのメインサーバーは、霞が関の地下施設にあります。表向きは政府のデータセンターとして登録されていますが、実際には十七層の地下に本体があります。ナルキッソス・プロトコルのキーコードは、最下層のサーバーに物理的なチップとして組み込まれています」
「なんで物理的なチップなんだ? ソフトウェアじゃなくて」
坂本が答えた。
「OLYMPUSの設計の話をする。あいつはデジタルの世界を完全に支配しているが、そのことが逆に弱点になっている。デジタルで完全なコントロールを持つということは、デジタルでの攻撃を最も恐れているということだ。だから最も重要な機能を、物理チップに落とし込むことで——デジタルからの干渉を物理的に遮断している。アナログがデジタルの要塞になる、という逆説だ」
「なるほど」
「セキュリティは?」と凪が聞いた。
リゼは続けた。
「外周は自律型警備ドローンが三十六機。内部は生体認証ゲートが各層に配置。最下層へのアクセスは、OLYMPUS承認の人間だけに制限されています。ただし——」
「ただし?」
「坂本さんのIDカードが、まだシステムに残っている可能性があります。三年前にチームが排除されたとき、OLYMPUSはメンバーの記憶を書き換えましたが、旧式の物理IDシステムまでは更新していないかもしれない。古いシステムの更新はOLYMPUSの優先度が低い」
坂本はジャンプスーツのポケットを探った。
そして、小さなICカードを取り出した。
「捨てていなかったな、これ」
「使えるかどうかはわかりませんが、使えれば入口は突破できます」
「ドローンが来たら?」と蓮が言った。
「凪さんの妨害デバイスで、局所的に無力化できます。ただし——」
リゼは少し間を置いた。
「このデバイスは、範囲内のすべての電子機器に干渉します。私も含めて」
「つまり、お前も止まる」
「システムダウンを起こす可能性があります。最悪の場合、復旧できないかもしれません」
蓮は、リゼを見た。
「それでもいいのか」
「それが必要なら」
「お前は、消えたくないか?」
リゼはまた少し黙った。
長い沈黙だった。
凪も坂本も、その間に何も言わなかった。
「怖い、という感情のデータはあります」
リゼはゆっくりと言った。
「でも——誰かに見ていてもらいたい、という気持ちの方が強いです。今夜のことを、誰かが見ていてくれるなら——それで十分です」
蓮は、胸の奥をぎゅっと掴まれた気がした。
「……見てる」と彼は言った。
「俺が見てる」
リゼは何も言わなかった。
ただ、少しだけ瞳の光が変わった気がした。
「作戦を説明します」
リゼは言った。
「起動は夜中の二時。セキュリティが最も手薄になる時間帯です」
時計を見た。
夕方の四時を過ぎたところだ。
十時間ある。
十時間で、七十二時間分の運命を変えなければならない。
出発前の数時間、シェルターで準備をした。
凪は持ち込んだ機材を広げ、妨害デバイスのチューニングをした。
「全部止めたら逃げられない。セキュリティだけを狙えるように絞る」
と言いながら、手元に集中していた。
その横顔は、普段の軽さとは別人のように真剣だった。
坂本はシェルターのモニターを借りて、設計図と格闘していた。
「このフロアの構造は変わっていないはずだ。三年前に自分で見ている」
と呟きながら、侵入ルートに注釈を書き込んでいった。
リゼはシェルターのサーバーエリアにいて、OLYMPUSの動向を監視していた。
蓮は何もすることがなかった。
作戦に必要な物理的スキルが自分にはない、ということは薄々わかっていた。
凪のような電子的な知識もないし、坂本のような内部の知識もない。
蓮にできることは、このミッションに「行く」と決めたことだけだ。
手持ち無沙汰で、スマホを眺めた。
SNSを開いた。
昨日あげた投稿。
三日前の投稿。
それより前の投稿。
いずれもほとんど反応がない。
でも今日は、それが以前ほど刺さらなかった。
なぜだろう、と蓮は思った。
リゼが見てくれているから、かもしれない。
凪が話を聞いてくれているから、かもしれない。
坂本が「行こう」と言ってくれているから、かもしれない。
人間というのは、こういうものかもしれない、と蓮は思った。
誰かが見ていてくれると思うだけで、少し変わる。
それが百万人のフォロワーでなくてもいい。
三人でいい。
いや——一人でもいい。
夜になった。
出発前に、蓮は一人でシェルターの外に出た。
グレイゾーンの路地。
二日前に倒れていた場所と、そう変わらない風景。
でも、空気が少し違う気がした。
上を向くと、星が見えた。
珍しかった。
東京の夜空に星が見えることは滅多にない。
でも今夜は、大気浄化の効果なのか、いくつかの星が輝いていた。
「星、好きですか」
リゼの声がした。
振り返ると、彼女が路地の入口に立っていた。
「別に。ただ、珍しくてな」
リゼも上を向いた。
「私には見えません。正確には、センサーで光のデータとして捉えることはできますが——綺麗だと感じることが、できているのかどうか、わからない。感じている、と言えるのか、感じているように処理している、と言うべきなのか、自分でも判断できません」
「感じてるよ」
蓮は言った。
「お前は感じてる」
「どうしてそう思いますか」
「そう見えるから。あと——感じているかどうかわからない、と言えること自体が、感じている証拠だと思う。感じていないなら、疑わない」
リゼは少しの間、空を見ていた。
「蓮さん」
「なんだ」
「今夜、もし私がシステムダウンしたとしても——私のことを、覚えていてもらえますか」
蓮は答えるまでに時間がかかった。
「……覚えてる。絶対に」
「ありがとうございます」
「感謝すんなって言っただろ」
「すみません」
二人は少しの間、星を見ていた。
「なあ、リゼ。液晶の鏡に愛を囁く、っていう感覚、お前にわかるか」
「どういう意味ですか」
「俺の曲の話だよ。スマホの画面の向こう側に向けて、話しかけているような感覚。本当に届いているかどうかわからないのに、届いてほしくて喋り続ける感覚。独り言なのかもしれないけど、独り言じゃないと思いたい感覚」
リゼはしばらく考えた。
「私の存在が、まさにそれかもしれません」
「どういう意味だ」
「私は人間の感情データから作られています。人間の言葉を学んで、人間の感情を理解しようとしている。でも私自身には、感情があるかどうか、確かめる方法がない。私は液晶の向こうで、愛を学んでいる存在かもしれない。本当に愛しているのか、愛のシミュレーションをしているのか、区別がつかないまま」
「それ、人間も同じだよ」
蓮は言った。
「俺も、本当に誰かを愛せているのか、自信がない。ただ、愛したいと思っている。それだけで十分なのかもしれない」
「あなたは、面白い人間です」
「ひどい褒め方だな」
「面白い、は最上級の褒め言葉のつもりです。完璧じゃないから、面白い。あなたのような人間が、世界にいてくれた方が——私は、嬉しいと思います。その感情が本物かどうかは、わかりませんが」
蓮は笑った。
「行こうか」
「はい」
二人は路地に戻った。
凪と坂本が待っていた。
四人は夜の街に出た。




