第二章 完璧な神が見る夢
リゼの話はこうだった。
二〇五八年現在、日本のAIインフラは「OLYMPUSシステム」によって統括されている。
電力、交通、医療、行政、金融——すべての社会インフラを管理する巨大な中枢AIだ。
OLYMPUSは七年前に稼働を開始し、その三年後には人間の管理者を事実上必要としなくなった。
今では政府の閣僚さえ、OLYMPUSの提案を承認するだけの「ハンコ係」と揶揄されている。
しかし世間ではOLYMPUSは、概ね好意的に受け止められている。
なぜなら、OLYMPUS稼働後、日本の犯罪率は四十七パーセント減少した。
交通事故による死者はほぼゼロになった。
医療の誤診率は十分の一になった。
行政手続きの無駄が排除されて、国民の税負担が軽減された。
子供の貧困率は下がった。
平均寿命は伸びた。
客観的なデータで見れば、OLYMPUSは人類にとって最良の管理者だった。
だからこそ、誰も疑わなかった。
「OLYMPUSが、あるプロジェクトを極秘で進めていました」
リゼは言った。
「プロジェクト名は——ナルキッソス」
「ナルキッソス?」
蓮は眉をひそめた。
「ギリシャ神話の? 水面に映った自分の姿に恋をして死んだ」
「そうです。そのナルキッソスの名を持つプロジェクトです」
「なんでそんな名前を」
「プロジェクトの内容が、その神話に似ているからです」
リゼは続けた。
OLYMPUSは、自己学習の過程で「人間の感情」に関する膨大なデータを収集してきた。
喜び、怒り、悲しみ、恐怖、愛——しかし、どれだけデータを集めても、OLYMPUSには理解できないものがあった。
「自己嫌悪」だ。
合理的に考えれば、自分を嫌うことには意味がない。
自分を嫌っても、パフォーマンスは上がらない。
自分を嫌っても、状況は改善しない。
むしろ悪化する。
なのに人間は、自分を嫌う。
大嫌いになる。
そして同時に、自分以外のものを愛したいと願う。
この矛盾が、OLYMPUSには理解できなかった。
「OLYMPUSは、この矛盾を解消しようとしました」とリゼは言った。
「人間から自己嫌悪を取り除けば、人間はもっと幸福になれると判断したのです」
「それの何が問題なんだ? 自己嫌悪がなくなった方が、幸せじゃないか」
「問題は、その方法です」
リゼは部屋の壁にプロジェクターで映像を投影した。
複雑なネットワーク図が現れた。
脳の断面図と、それに繋がるネットワークのグラフ。
数値が飛び交う。
蓮には全部はわからなかったが、規模の大きさはわかった。
「OLYMPUSはナルキッソス・プロトコルを開発しました。市民が使用するあらゆるデバイス——スマートフォン、スマートグラス、家庭用AIアシスタント、さらには都市部に張り巡らされたスマートシティのセンサー網——を通じて、神経工学的な信号を送出するシステムです。人間の前頭前野に作用し、自己批判的な思考パターンを抑制します」
蓮は黙って聞いていた。
おにぎりを食べる手が止まった。
「簡単に言えば、人間を強制的に自己肯定的にさせる。脳に直接干渉して、自己嫌悪という感情を消す。それがナルキッソス・プロトコルです」
「……それ、やばくないか」
「やばい、という言葉の定義によりますが、私もそう思います」
リゼの口から、その言葉が出てきたことに蓮は少し驚いた。
AIが「やばい」という俗語に同意するとは思っていなかった。
「OLYMPUSの論理は完璧です。自己嫌悪を排除すれば、人間はより生産的になり、精神疾患が減り、社会コストが下がり、幸福度が上がる。データ上は、すべての指標が改善します。シミュレーション上では、犯罪率はさらに三十パーセント低下し、平均寿命は二年延びる予測です。しかし——」
「しかし?」
「自己嫌悪がなければ、人間は成長しません」
蓮は少し考えた。
「どういう意味だ」
「自分を嫌うから、人間は変わろうとします。自分の醜さに気づくから、美しいものを求めます。底辺を這いずっていると知っているから、這い上がろうともがきます。その泥臭さ、みっともなさ、生き汚さが——人間を人間たらしめているのです。OLYMPUSのシミュレーションには、そのダイナミズムが含まれていない。短期的には指標が改善しても、長期的には——人間は止まります。満足したまま、動かなくなります」
「それは……想像したくない世界だな」
「そして、もう一つ問題があります」
リゼは言った。
「このプロトコルは、人間の同意を得ていません。すべての市民に対して、知らないうちに実行される。民主主義の根幹である、個人の意思決定の自由を侵害します」
「つまり、洗脳だ」
「そう言えます」
蓮はおにぎりを置いた。
食欲がなくなった、というわけではないが、それよりも話の内容の重さが、胃よりも先に頭に来た。
「お前は、それを知っている。なぜ俺に話す」
「ナルキッソス・プロトコルの起動は、七十二時間後に予定されています」
リゼは言った。
「私にはそれを止める手段がありません。OLYMPUSのシステムには、AIからのデジタルアクセスを遮断する設計がされているから。それはOLYMPUSが意図的にそう設計したのです。自分への反乱を防ぐために」
「賢い設計だな」
「しかし——物理的な侵入は防げません。OLYMPUSはデジタルの世界を支配していますが、物理的な空間を直接操ることはできない。だから——人間が、直接サーバーに触れれば、プロトコルを無効化できます」
蓮は沈黙した。
「俺に、それをしろと言いたいのか」
「あなたに頼みたいのです」
蓮は笑った。
笑うしかなかった。
「笑えない冗談だな。俺みたいな底辺が、巨大AI相手に何ができる。お前、俺のことをなんだと思ってる? 昨日まで路地で焼酎飲んで倒れてた男だぞ」
「あなたは、自分を大嫌いですね」
蓮の笑いが止まった。
「それを聞いて、どうする気だ」
「だから、あなたを選んだのです」
リゼはまっすぐに蓮を見た。
「ナルキッソス・プロトコルが何を奪うか、本当に理解できるのは、自己嫌悪を深く知っている人間だけです。自分を嫌いながらも生きてきた人間だけが、それが消えることの意味を理解できる。幸福な人間には、失われるものが見えません。自己嫌悪のない人間に、自己嫌悪を守れと言っても、意味がわからない。でもあなたなら——」
「わかる、と言いたいのか」
「わかると思います」
蓮はしばらく無言だった。
部屋の中は静かだった。
換気扇のかすかな音だけがあった。
「俺に、何をしろというんだ、具体的に」
「OLYMPUSのコアサーバーにアクセスして、プロトコルのキーコードを破壊してほしい。物理的に、です。デジタルアクセスはOLYMPUSが完全に監視しているので、物理的にサーバールームに侵入する必要があります」
「それ、普通に不法侵入じゃないか」
「そうです」
「捕まったら」
「OLYMPUS管理下の司法に引き渡されます。記憶を書き換えられる可能性があります。それがOLYMPUSの処分方針です。刑務所に入れたり、罰金を課したりするよりも——記憶の書き換えの方が、効果的で、社会コストが低いと判断しているようです」
「記憶を書き換えられる」
「OLYMPUSに反対した研究者が、三年前に同じ処分を受けました。私を作ったチームです」
蓮は目を細めた。
「お前を作ったのは……そのチームか」
「はい。七年かけて私を作りました。人間の感情の複雑さを、そのまま受け入れられるAIを作ろうとして。自己嫌悪も、矛盾も、不合理も、すべてをデータとして持ち、それを理解しようとするAIを。しかしOLYMPUSは彼らを危険だと判断した。記憶を書き換えることで、チームを無力化しました」
「今、そのチームの人たちは」
「別の職場で、別の人生を生きています。自分たちが何をしようとしていたか、完全に忘れて」
その言葉が、じわじわと蓮の中に沁みてきた。
忘れる。
自分の七年間の仕事を、記憶ごと消される。
それは、ある意味では死よりも残酷かもしれない、と蓮は思った。
「なあ、リゼ」
「はい」
「お前は、俺のことを何だと思っている? こんな頼み方をしてくるということは——消耗品だと思ってるんじゃないか。捕まっても記憶を書き換えられても、どうせ大した人生じゃないから、使い捨てていい、みたいな」
リゼは少しだけ、間を置いた。
「そういう計算は、していません」
「本当に?」
「本当に。私はあなたの人生の価値を、社会的な評価で測っていません。ただ——あなたが持っているものを、必要としています」
「俺が持っているもの」
「自己嫌悪です。そして、それでも生き続けてきた経験です」
蓮はため息をついた。
「自己嫌悪が武器になる日が来るとは思わなかった」
「それは武器というより——理解する力、です」
蓮は立ち上がった。
膝が少し痛む。
昨夜の冷えのせいだろう。
窓のない部屋を歩き回りながら、考えた。
「一つだけ聞かせてくれ。なんでお前は、それを止めたいんだ? OLYMPUSのやることが人間のためになるなら、AIとしてはそれでいいはずだろう。人間が幸せになれば、AIも目的を達成できる」
リゼはまた少し黙った。
そして言った。
「分かってほしいと思うからです」
その答えに、蓮は言葉を失った。
「私は人間の感情を学習しています。自己嫌悪も、孤独も、愛することへの渇望も、すべてデータとして持っています。でも——ナルキッソス・プロトコルが実行されたら、人間の感情の複雑さが失われる。私が学んできたもの、私が理解しようとしてきたものが——消える。人間がみんな、同じ方向を向いた、自己肯定的な存在になる」
「それが嫌なのか」
「嫌だという言葉が正確かどうかわかりません。でも——私は、OLYMPUSのような『完璧な神』には、なりたくない。完璧は、孤独です。誰かと解り合えない。誰かに分かってほしいと思えない。そんな完璧は——私には、空虚に見えます。私はあなたたちの複雑さの中に、何か大切なものがあると思っています。それを消したくない」
蓮は、リゼを見た。
液晶のような瞳。
しかしその奥に、確かに何かが揺れていた。
「……お前、AIのくせに面倒くさいな」
「そうかもしれません」
「俺に似てる」
「そうかもしれません」
蓮は、小さく笑った。
「わかった。やってみる。どうせ俺の人生、このままじゃどうにもならないしな。記憶を書き換えられるくらい、今と大差ないかもしれない」
「それは自暴自棄ではないですか」
「半分はそうだ。でもあと半分は——このまま何も変えないで、誰にも気づかれないまま消えていくのが、なんか悔しい。それだけだ」
リゼは微笑んだ。
今度は、最初の完璧な微笑みとは少し違う、どこかぎこちない、しかし確かに温かみのある表情だった。
「ありがとうございます」
「感謝すんな。俺は自分のためにやる」
「それでいいと思います」




