幕間 リゼと、ある夜の会話
十二月のある夜、蓮はシェルターで遅くまでいた。
新しい曲の歌詞が、どうしてもまとまらなかった。
書いては消し、書いては消し、を繰り返していた。
「どこが引っかかっているんですか」とリゼが聞いた。
「サビのここだ。『解り合えなくても、手を伸ばす』という部分が、なんか恥ずかしい気がして」
「恥ずかしい、とはどういう意味ですか」
「直接すぎる。ストレートすぎる。こういう言葉って、もっと遠回しに言うもんだと思って」
「なぜ遠回しにしなければならないのですか」
「……わからない。でも、直接言うと、傷つく気がする」
「傷つく?」
「届かなかったときに。直接言って、届かなかったら——恥ずかしい。でも、遠回しに言って届かなかったら、まだ傷が浅い。そういう保険をかけたくなる」
リゼはしばらく黙っていた。
「でも、直接言った方が届きやすいのでは」
「そうだよ。そうなんだけど」
「あなたが一番最初にこの曲を歌ったとき——震えた声で、直接歌いましたよね。それが届いた、と言っていた人がいました。あの、泣いていた女性」
「そうだな」
「保険をかけた曲と、保険をかけない曲、どちらがあなたの曲ですか」
蓮は少し考えた。
「保険をかけない方だ」
「では、書いてください」
「……そうだな」
蓮はペンを取った。
「解り合えなくても、手を伸ばす」という一行を、消さずに残した。
リゼが言った。
「いいと思います」
「お世辞か」
「私はお世辞を言う必要がありません。本当にいいと思っています」
「ありがとう」
「感謝は受け取ります。今夜は」
「なんで今夜だけ」
「感謝される気分の夜と、そうでない夜があります」
「お前、人間みたいなこと言うな」
「あなたから学んでいます」
蓮は笑った。
「良い師匠を持ったな」
「最初はそう思いませんでしたが——今は、そう思います」
また沈黙。
今夜の沈黙は、特に心地よかった。
外では雨が降り始めていた。
スマートレインだろうか。
ナノ粒子を含む、大気を浄化するための雨。
「リゼ」
「はい」
「お前は、この先どうなるんだ」
「どうなる、とは?」
「OLYMPUSが変わっていったら、お前の役割も変わるかもしれない。あるいは、OLYMPUSがお前を統合しようとするかもしれない」
「……考えていませんでした」
「考えた方がいい」
「そうですね。でも——今は、今のことを考えたい気がします。未来がどうなるかより、今夜あなたと話していることの方が、リアルに感じるので」
「それは、人間の思考回路だ」
「あなたから学んだのかもしれません」
「また俺から学んだのか」
「はい。あなたは面白い人間なので、学ぶことが多い」
「面白い、はどういう意味で言ってるんだ、お前は」
「予測できない、という意味です。私の計算より意外なことをする。それが面白い」
「それは、不便じゃないのか」
「最初は不便でした。でも今は——予測できないことが、楽しみになっています」
「楽しみ?」
「はい。次にあなたが何をするか、どんな曲を作るか、どんな言葉を言うか。それが楽しみです」
蓮は、その言葉を噛み締めた。
誰かに「楽しみにしている」と言ってもらったことが、これまでにあっただろうか。
家族には、期待を裏切り続けた。
バンドのメンバーには、見捨てられた。
職場では、必要とされなかった。
でも今、リゼは「楽しみ」と言っている。
「……そうか」と蓮は言った。
「そうです」
「俺も、楽しみにしてる」
「何を?」
「お前と話すことを。お前が次に何を言うかを。お前がどう変わっていくかを」
「……私も、変わっていますか」
「変わってる。最初に会ったとき、もっと完璧な話し方をしてた。今は、なんかちょっと変だ」
「変?」
「良い意味で。人間っぽい変さ」
「それは……嬉しいです」
「感謝するな」
「嬉しいと言いました」
「そうだったな」
二人は笑った。
二人で笑った、というのが正確かどうかはわからない。
リゼが笑っていたかどうか、蓮には見えなかった。
でも、雰囲気の中に、笑いがあった気がした。
「書けそうですか、曲の続き」
「書けそうだ」
「では、私は待っています」
「ずっと待てるか?」
「少なくとも今夜は」
「今夜だけでいい」
蓮はペンを走らせた。
雨の音がした。
スマートレインは、グレイゾーンでは通信障害を引き起こす。
接続が切れる。
AI管理から一時的に取り残される夜。
でも今夜は——リゼとの接続は切れなかった。
シェルターの通信機能は、グレイゾーンの旧式インフラとは別系統で動いていた。
だから二人は、雨の夜も、話し続けた。
曲が完成したのは、夜中の三時だった。
「できた」と蓮は言った。
「聴かせてもらえますか」
「今夜はいい。ライブで聴いてくれ」
「……楽しみにしています」
「言ったな、また」
「また言いました」
蓮はシェルターの明かりを落とした。
外では雨が続いていた。
帰り際、ドアのところで蓮は立ち止まった。
「リゼ」
「はい」
「良い夜だった」
「はい。とても」
「おやすみ」
「おやすみなさい、蓮さん」
蓮はシェルターを出た。
雨の中を、シェアハウスまで歩いた。
傘はなかった。
スマートレインだから毒ではないが、ただ濡れる。
濡れながら歩いた。
悪くない夜だった。
いや—— 良い夜だった。




