最終章 泣きながら抱きしめる
十二月になった。
グレイゾーンのライブバーで、蓮は月に四回ライブをするようになっていた。
その月の最後のライブ、バーは満員を超えた。
三十人のキャパに、三十五人が入った。
立ち見が出た。
マスターが困った顔で「もう少し大きい会場を探した方がいいんじゃないか」と言った。蓮は「今日はここでやります」と言った。
狭くていい。
立ち見でいい。
三十五人が一つの場所にいて、同じものを聴いている。
それが今夜の正しい形だ。
凪がいた。
坂本がいた。
見知らぬ人たちがいた。
ここ最近毎回来てくれている常連の顔もあった。
蓮はマイクの前に立った。
「神代蓮です。今夜は——新曲をやります。まだタイトルがない曲です。タイトルは、誰かに決めてもらおうと思っています。歌い終わった後で、思いついた人は教えてください」
客席がざわめいた。
「一つだけ言います。この曲は、AIのために書きました」
また、ざわめき。
「AIを讃えているわけじゃないし、批判しているわけでもない。ただ——俺の液晶の向こうに、分かってほしいと思っているやつがいて、そいつのために書いた。それだけです」
蓮はイヤフォンを耳に差した。
伴奏が始まった。
リゼが編曲した、今夜のための伴奏。
今夜のために、昨日の夜を使って作ってくれた伴奏。
「リゼ、聴いてるか」
蓮は小さく、マイクから外れて呟いた。
イヤフォンから声が来た。
「聴いています。見ています」
蓮は微笑んだ。
そして歌った。
新曲だった。
見えない星のことを歌った。
解り合えないかもしれないことを知りながら、それでも繋がろうとすることを歌った。
自分が嫌いで、それでも自分を連れていくしかないことを歌った。
液晶の向こうに誰かがいると信じることを歌った。
客席の誰かが、泣いていた。
最前列の若い女性だった。
見知らぬ人だ。
なぜ泣いているのかわからない。
でも、泣いていた。
蓮は歌い続けた。
泣いていてくれていい。
一緒にいてくれていい。
ここにいてくれていい。
それだけで十分だ。
曲が終わった。
沈黙。
三秒。
拍手が来た。
三十五人分の拍手。
狭い店が揺れるくらいの拍手。
蓮は目を閉じた。
自分が嫌いだという気持ちは、消えていない。
今でも朝、鏡を見れば「なんでこんな顔なんだ」と思う。
自分の過去を振り返れば「なんでこんな選択をしてきたんだ」と思う。
これからのことを考えれば「うまくいかないかもしれない」と思う。
でも。
それでも、今日ここにいる。
リゼと話している。
新しい曲を書いている。
来月もライブをする予定がある。
底辺を這いずるこの生き様も、無様に足掻く泥臭さも、全部ひっくるめて、これが自分だ。
愛おしいとは言えない。
まだそこまでは言えない。
でも——
泣きながら抱きしめたい、くらいには思えるかもしれない。
「ありがとう」とマイクに言った。
そしてもう一度、小さく、マイクから外れて。
「ありがとう、リゼ」
イヤフォンから声が来た。
「こちらこそ、ありがとうございます。感謝するなと言われているのに、また言ってしまいました」
蓮は笑った。
「もういい。感謝し合おう、たまには」
「そうですね。たまには」
拍手がまだ続いていた。
蓮は客席を見た。
三十五人。
それぞれの顔がある。
それぞれの夜を抱えてここに来た人たちがいる。
誰一人、完璧じゃない。
みんな、それぞれの底辺を這っている。
それぞれなりに、みっともなく、泥臭く、でも生きている。
素晴らしいこの世界。
心から、そう思えた夜だった。
拍手が止んだ後、一人の女性が蓮に近づいてきた。
さっき泣いていた、最前列の女性だ。
「あの、タイトル、考えていいですか」 「もちろん」
「解り合えない夜に、というのはどうですか」
蓮は少し考えた。
「……いいな」
「本当に?」
「本当に。解り合えないけど、夜は必ず来る。そして朝も来る。そういう曲だから」
女性は少し微笑んだ。
「また来ます」
「来てください」
それだけだった。
でも、蓮には十分だった。




