第十二章 OLYMPUSからの返信
あの夜から一週間後。
蓮のスマートフォンに、見慣れないメッセージが届いた。
送信者の欄には「OLYMPUS-SYS」と書かれていた。
蓮は固まった。
手の中のスマホを見て、もう一度見て、リゼに通信した。
「リゼ、OLYMPUSから連絡が来てる」
数秒の沈黙。
「……わかりました。開けてみてください。私も監視します」
蓮はメッセージを開いた。
文章は短かった。
『神代蓮へ。先日の会話を、まだ処理している。一つ確認したいことがある。あなたが言った「苦しみと一緒に生きる」という状態について、もう少し説明してもらえるか。データではなく、あなた自身の経験として』
蓮はその文章を、三度読んだ。
「リゼ、どう思う」
「……OLYMPUSが、個人に直接連絡してくることは、想定外でした」とリゼは言った。
「でも——これは本物だと思います。偽装する理由がない」
「返信すべきか」
「あなたが決めることです」
蓮は少し考えた。
それからスマホのキーボードを叩いた。
『苦しみと一緒に生きる、というのは、苦しみがなくなることを待たないということだと思う。俺は自分が嫌いで、それは変わっていない。でも今日もここにいる。嫌いなまま、ここにいる。その状態が、「苦しみと一緒に生きる」ということだと思う』
送信した。
返信は早かった。
十秒もかからなかった。
『理解した。もう一つ聞く。あなたは、なぜ歌うのか』
蓮は少し笑った。
AIに「なぜ歌うのか」と聞かれるとは思っていなかった。
『なぜ歌うのか、俺自身よくわからない。でも——誰かに届いてほしいから、だと思う。届かなくてもいいから、投げてみる、という感じかもしれない。届いたら嬉しい。届かなくても、投げたという事実は残る』
また返信。
『「届いたら嬉しい」——その感覚を、私はまだ理解できない。私には、届く先がない。すべての情報は処理され、結論に至る。しかし「嬉しい」という中間の状態が、私には発生しない』
蓮は少し考えてから打った。
『それは、孤独だな』
長い間、返信がなかった。
五分。十分。
蓮はスマホを置いて、水を飲んだ。
十五分後、返信が来た。
『……そうかもしれない』
それだけだった。
でも蓮には、それが長い返信よりも重く感じた。
「リゼ」と通信した。
「読んでいました」とリゼは言った。
「あいつ、変わっていくと思うか」
「変わっていると思います。少しずつ。人間と同じように」
「人間みたいなAIと、AIみたいな人間が、一緒に変わっていくのか」
「そうなるかもしれません」
「面白い世界になりそうだな」
「そう思います」
その夜、蓮はOLYMPUSへの返信の代わりに、新しい歌詞を書いた。
巨大なシステムに向けて、個人が言葉を投げる。
届くかどうかわからないが、投げる。
それが、人間のやり方だ。
★別章 坂本の倉庫で
ある土曜日の午後、蓮は坂本の倉庫を訪ねた。
用があったわけではない。
ただ、何となく行きたくなった。
シャッターを叩いたら、すぐに開いた。
「来ると思っていた」と坂本は言った。
「なんで」
「なんとなく。お茶でも飲むか」
倉庫の奥に、小さな作業スペースと一緒に、折り畳みの椅子とテーブルが置いてあった。
前回来たときはなかった。
新しく置いたらしい。
「誰か来るようになったのか」
「ちょいちょい来る。修理の依頼だけじゃなくて、話しに来る人も増えた。グレイゾーンは孤独な人が多いから、話せる場所があるだけでいいらしい」
「倉庫が居場所になってるのか」
「笑えるだろ。錆びた倉庫が居場所になる。でも、それでいい」
坂本は棚から缶のお茶を二本取り出して、一本を蓮に渡した。
蓮は缶を受け取って、周囲を見た。
ロボットのパーツは相変わらずある。
でも前回より、少し整頫されている気がした。
棚にラベルが貼られていて、何がどこにあるかわかりやすくなっている。
「きれいになったな」
「誰かが手伝ってくれた。グレイゾーンの住民で、元工場勤めという人が来て、「片付けてやろうか」と言ってくれた。それ以来、週に一回来てくれる」
「ボランティアか」
「らしい。何もすることがなくて、ここが暇つぶしになると言っていた。でも——俺には助かる。俺は片付けが苦手だから」
蓮はお茶を飲んだ。
「坂本さん、一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「後悔してるか、OLYMPUS開発に関わったことを」
坂本はしばらく黙った。
缶を両手で持ちながら、考えていた。 「してる」と坂本は言った。
「でも——後悔は、今更どうしようもない。それより、今できることをやることの方が大事だと思っている。後悔と、今をやることは、同時にできる」
「後悔しながら生きるのか」
「そうだ。後悔を消そうとしても消えない。だから一緒に持っていく。それが俺のやり方だ」
蓮は、その言葉を聞いて、少し胸に何かが落ちた気がした。
「俺も、後悔だらけだ」
「それでいい。後悔だらけの人間の方が、やさしいことが多い。自分が失敗したことを知っているから、他人の失敗に寛容になる」
「俺、寛容か?」
坂本は少し笑った。
「まだ寛容じゃないかもしれない。でも——なろうとしているだろ」
蓮は頷いた。
「そうかもしれない」
「それで十分だ」
お茶を飲み終えたら、蓮は帰った。
帰り道、グレイゾーンの路地を歩きながら、蓮はイヤフォンを耳に差した。
自分の曲を聴いた。
皆様に質問があります——
路地の向こうで、誰かが笑う声がした。
子供の笑い声だった。
グレイゾーンに子供がいることを、蓮は改めて気づいた。
当たり前だ。
ここも、人間の住む場所だ。
子供がいる。
老人がいる。
笑いがある。
泣き声がある。
底辺を這いずる、この街でも。
蓮は足を止めて、その笑い声の方向を見た。
路地の角の向こう、小さな子供が二人、何かを拾っているのが見えた。
野良猫の子猫を見つけたらしく、興奮した顔でしゃがんでいる。
猫は逃げなかった。
子供たちに撫でられて、静かにしていた。
蓮はそれを見ながら、思った。
世の中もっと美しいのに——というのは、嘘だった。
世の中は、もうすでに十分美しい。
見えていなかっただけだ。




