第7話:ハイエナ商人と沈黙の天秤
「……ほう。これが噂の『エメラルド・ブリック』ですか。なるほど、確かに見事な代物だ。しかし、アイリス様。これを商品として扱うには、少々リスクが高すぎますな」
領主館の応接室――という名の、辛うじて雨漏りを直した会議室。
豪華な革張りの椅子に座り、恰幅のいい男が薄笑いを浮かべていた。
金の天秤商会のエージェント、ガスト。
彼は指先で藍色のブリックを転がしながら、品定めをするような厭らしい視線をアイリスに向けた。
「リスク? 具体的にどの変数を指してそうおっしゃるのかしら。ガスト様」
対面に座るアイリスは、紅茶の一滴すら無駄にしないような正確な動作でカップを置いた。
彼女の横には、眉間に皺を寄せたカイルが、護衛として直立不動で控えている。
「まずは安定供給。あのアビスから産出される物という以上、いつ魔物に襲われて生産が止まるか分からん。それに、この『魔導スラッジ』そのものの毒性についても、王都の魔導士ギルドが黙ってはいないでしょうな。……安全性が保証されない物に、高い値は付けられません」
「ふむ。つまりあなたは、『希少価値』よりも『不確実性による減価』を優先して交渉を有利に進めたい、というわけね」
アイリスは鼻で笑った。
「失礼ながらガスト様。あなたのその主張、私の計算によれば『三流のハッタリ』として百分率で九〇パーセントの確率で棄却されるわ。毒性については既に中和プロセスを確立しており、魔導士ギルドには私から直接、理論書(論文)を送りつける予定よ。彼らは理論で勝てない相手には手を出さない、合理的な連中ですから」
「……論文、だと?」
ガストの眉がピクリと跳ねた。
「ええ。それに供給の不安定さについても心配無用よ。アビス・クロウラーの個体数と発生サイクルは既に定数化しているわ。防衛設備の稼働率を九八パーセントに維持すれば、生産ラインが止まるリスクは王都のパン屋がストライキを起こす確率よりも低い。……さて、ガスト様。無駄な前置き(コスト)は抜きにしましょう」
アイリスは、一枚の羊皮紙をテーブルの上に滑らせた。
そこには、精緻なグラフと数値が書き込まれていた。
「これは……流通コストの予測表か?」
「それだけじゃないわ。あなたの商会が、このブリックを王都の暖房市場に投入した場合の、今後三四半期の独占利益予測よ。既存の魔導石市場を五〇パーセント以上食い荒らせる計算だわ。これをお蔵入りさせるのが、商人としてどれほどの『機会損失』になるか、暗算で弾き出せるかしら?」
ガストの目が、初めて本物になった。
彼は食い入るように数字を見つめる。
そこには、彼が王都での下調べで抱いていた疑念を、すべて数値で粉砕する「完璧なビジョン」があった。
「……アイリス様。あなたは、本当に追放されたばかりの令嬢なのですか? まるで、人生を三回ほど経営に捧げたような……」
「効率を極めれば、時間は圧縮できるのよ。……さあ、条件を提示してちょうだい。ただし、私の提示する『一括前払い』と『物流インフラへの共同投資』が条件よ。あなたがこれを蹴れば、私は一〇分後に隣国の商会に同じ資料を送る。その場合、あなたの往復の旅費は完全に『ドブに捨てた資産』になるわね」
ガストは脂汗を拭った。
彼は交渉に来たはずだった。
だが、現実に起きているのは「一方的なプレゼンテーション」であり、彼に残された選択肢は「Yes」か「破滅的な損失」の二つしかなかった。
「……負けましたな。アイリス様。あなたの言う通りだ。このブリック、我が商会が全力で扱わせていただこう。価格設定と分配については、こちらの提案を――」
「結構。契約書のドラフトは既に作成済みよ。ベル、ガスト様に署名のタスクを渡して」
「はい、お嬢様!」
控えていたベルが、迷いのない足取りで書類を差し出した。
ガストは、呆然としたままペンを滑らせる。
「……これで満足ですか、アイリス様」
「ええ。あなたの『ため息』に費やされた〇・五秒さえなければ、さらに満足だったわね。……カイル様、ガスト様をお見送りして。彼はこれから、王都までの最短ルートを最高速度で駆け抜ける『私の荷馬車』の先導役に任命されたのだから」
「……御意」
カイルは、哀れみの視線をガストに向けながら、彼を部屋から連れ出した。
ガストの背中は、まるで巨大な重機に踏み荒らされた後のように、小さく縮こまっていた。
「ふう。……ようやく、一〇万ゴールドの初期資金が手に入るわね」
アイリスは、署名された契約書を愛おしそうに眺め、再び計算尺を手に取った。
「ベル。次のタスクよ。この資金をすべて、領地北部の『マナ・グリッド(送電網)』の資材調達に回すわ。……農業の次は、『エネルギーの独占』よ。人々が私の魔力を買わざるを得ない状況を、一刻も早く作り上げるわよ」
「お嬢様……。なんだか、王都の王太子様よりも、ずっと悪い人の顔をしていますよ」
「失礼ね。私はただ、世界を『最も効率の良い形』に作り替えたいだけよ。……さあ、夜通しで図面を描き直すわよ。寝ている間に出るマナのロスがもったいないわ!」
こうして、エメラルド・フロンティアは、外の世界との繋がりを手に入れた。
それは単なる交易の始まりではなく、アイリス・フォン・エメラルドという名の「巨大なシステム」が、周辺諸国を飲み込み始めた瞬間でもあった。
第7話、お読みいただきありがとうございました!
アイリスによる「論理の暴力」による商談回でした。
ハイエナ商人も、数値と予測という「未来が見える武器」の前にはなす術もありません。
次回、手に入れた資金を投じ、ついに領地全体にマナを届ける「マナ・グリッド」の建設が始まります。
しかし、大規模工事には予期せぬトラブルが付きもの。
アイリスの「予実管理」を揺るがす事態とは……?
次回もどうぞお楽しみに!




