第三話 足りないもの
※この作品は、初作品「エリシオン·アル·レーヴ」の改訂版となっています。
炎魔力防御が解け、倒れたままのヴァイスの肌にヒューッと冷気が触れる。息を弾ませて吸い込む空気は、鼻腔から喉奥、さらには肺に至るまで、窮屈に縛り上げられた藁細工を串刺しにされたような、潤いが涸れた痛みを走らせ、冷やされた白い吐息は視界を度々曇らせる。
彼の耳に残っていたのは、まるで雪晴れの黎明の路傍で惜しまれた粗目雪を軽く踏みつけたような、バリバリと鳴るヒビ割れ音と、氷塊を食い入るように睨みつけながら一意専心に張り上げていた掠れた叫び声だけだった。
その余韻の刹那、全身の痛みを堪えながら起き上がろうとするヴァイスを見て、溜め息をついたグラートが、悠々と一歩ずつ近づいて来る。
「もう十分だろう。今のお前に足りないのは強さではないのだから。この試験は”単純な力比べ”を過酷な環境や理不尽な脅威に晒される会場に落とし込んだもの。つまり、ここでの主役は奪う側ではなく奪われる側ということだ。あのとき、なぜ俺に向かって来なかった?…勝敗の先にある不条理の差が、まだ見えていない。そう…お前に足りないのは、何かを諦めた先にいる自分を許す弱さだ」
昇る春暁に照らされ溶けゆく残雪のように、ヴァイスは痛みと寒さで強張っていた全身の力を抜いた。そして、なだらかな山なりに膨らませた肺を均し、息を落ち着かせると、仰向けのまま両手を広げ、グラートの立つ方へ顔を少し傾ける。
「許す弱さ…か。ちょうど今…それが欲しいと思っていたんだ…なんてな。確かに、俺は執念の矛先を…見誤っていたらしい。でも後悔はしてない。勝利が誰かにとっての不条理になること…だとしても、魔法で勝つことを諦めたくなかった…それだけだ。あのとき迷わなかったことが、希望に向かって歩んだ足跡になる。……ノルク・グラート、俺の負けだ」
それを聞いたグラートは、原生林に囲まれた湖畔の汀を撫でる朔風のように、ヴァイスの側を静かに通り過ぎる。そして、背中越しに視線を向けながら立ち止まる。
「おかげで、ことのほか有意義な余興になった。現実を理解した今なら、俺との差が遼遠には思えまい。残る宝は二つ。…越えて来い」
その空気を鎮めるように重い声音は、ヴァイスの赤みを帯びて悴んだ耳に、温もりの余熱を分け与えるかの如く、穏やかに柔らかく吹き込む。
「…当然だろ?」
──そう…まだ試験は終わってない。懐の魔晶式時計は……無事だな。第二巡戦の合図まで、まだ時間はある。いや、すぐにでも…行かなきゃ。
ヴァイスは、ゆっくりと体を起こすと、反り曲げるほど背筋を伸ばし、疲労で凝った音を鳴らす肩を回しながら、全身の痛みが和らいでいることを速やかに確かめる。
背後を振り返ると、そこにはグラートの姿はなく、既に立ち去った後だった。
雪原の風景とは異質な一際目立つ空間が、黙々と歩き進むヴァイスの視界に映り込む。それは、四隅に配置された魔鉱石から放たれる赤色の輝きに囲まれた石壇だった。そして、その中心には、虹色に光が反射する魔鉱石の欠片が斑に埋め込まれた石の台座に、古びた宝箱が神々しく置かれていた。
「…見つけた。光ってるってことは…まだ宝はあの中か。それにしても、なんて分かりやすい様相…」
──無駄に派手な装飾がされている。まさに貴族の遊戯だな。
チッ、チッ、チッ。
石壇に向かう最中、魔晶式時計の秒針が時を刻む音に、ヴァイスは無性に大きく聞き耳を立てていた。その音は、まるでサンドグラスのオリフィスを水簾のように流れ落ちる砂が玻璃を伝い終えるような、物寂しい時の流れを匂わせていた。
周囲に人の気配はない。むしろ不気味なほど冷めた雰囲気が漂っている。この違和感は…まさか…。いや、あり得る。
そんな思考を巡らせるヴァイスは、石壇を刻々と登り、表面が黒ずんだ金色の宝箱に手を触れる。
その光景を、雪景色に溶け込むような白い服を着て息を潜め、遠くから凝視する男がいた。その男は、慎重な挙動で音も立てずに上体を起こし、片膝を立てて屈む。
「また一匹、盲目の鼠が罠に掛かったか。二級雷魔法、サンダーアロー」
降雪をフッと微かに揺らす静かな息吹と共に、鋭く光る稲妻の矢がヴァイスを標的にして、一直線に狙い放たられた。
パチンッ、ピリピリ。
静電気が指先で放電したような僅かな不純。その違和感は、ヴァイスの疑念を含んだ視界に、一瞬にして輝き朽ちる光明として留まる。
「炎魔力防御」
衝動的な反射で炎を腕に纏ったヴァイスは、糸の結び目を断ち切るように、迫り来る稲妻の矢を弾き払う。
「思った通り…宝箱は囮か」
──距離は…それほど遠くないな。方向も大体…。人を射抜く分、威力が抑えられていた。おそらく、痺れて動けなくなった受験者を脱落に追い込む…鼠捕り作戦ってところか。このまま宝を持って逃げることもできるが…それはグラートの言っていた『許す弱さ』や『不条理』ってのとは違う。要は覚悟だ。
まるで、鮮烈な赤に染まり切るアンスリウムから溢れ出す緑葉と千紫万紅の花々が、氷彫刻の花器に生けられるように、勝負に高鳴る鼓動を、凍てつく景色に澄んで映る静寂の深奥へと閉じ込める。
弱さの果てに覚悟を見据える。
新たな戦いの兆し──。
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