第二話 希望の地図
※この作品は、初作品「エリシオン·アル·レーヴ」の改訂版となっています。
ヴァイスは、カチコチに固まった硬い氷の大地をグルグルと転がり抜け、まっさらな積雪に背中から勢い良く突っ込んだ。そして、そのまま横向きに背を丸めながら、水底から必死に這い出るように、窄めた口から荒く息を吸い込む。
そのとき、避けられない尖氷から体を庇って、咄嗟に腕を立てて受けた瞬間の記憶が、鮮明に蘇った。
その直後、まるで牙で噛みちぎられたかのような痺れと痛みが、交互に押し寄せる。その腕を覗き見る瞳は、驚きと戸惑いで重心を失い、覚束無く揺れていた。
小さく丸まるように蹲り、巻き込んだ唇を力ませて噛み締めたとき、亡霊のまま根付いた種が再び双葉を芽吹かせるように、暗闇の中に閉じ籠もっていた幼い頃の記憶を呼び覚ます。
「あぁ…似てるな。あの頃と同じような景色だ。…絶望の景色。でも、もう一つ…思い出した。あのときから、ずっとシュヴァールさんが見せ続けてくれた希望は、奇跡なんかじゃなかったんだって。俺が強がらなきゃ、誰が俺に打ち勝てる?」
まるで白い群鳥が大空へ羽ばたくかのように、脳裏から高々と湧き上がる高揚感が、ヴァイスの頬を緩ませる。
そして、ふわりと膨らむ海月が澎湃と込み上げる気泡を引き連れ、彷徨える深海から浮かび上がってくるように、肘を上げて手を地に突きながら体を起こし、立ち上がる。
「俺の恩人曰く、絶望ってのは希望を探すための地図らしい。分かれ道なら迷っていい。一本道でも立ち止まっていい。後ろを振り返って別の道を探すのもいい。そこに希望の座標なんて示されてない。だからこそ、迷わず進んだ先に希望があると俺も信じたい。座標なんて無くても、一緒に歩いてくれる人がいるって分かったから。…もう迷わない」
その赤々とした炎熱を纏っているヴァイスを映したグラートの瞳は、水面が朝日を浴びて反射しているように、キラキラと輝き、頬には笑みを浮かべていた。
「…ヴァイス。お前は、あるかも分からない希望とやらが、信じるだけで輝いて見えるのか。確かに、その地図には無駄な人生なんかない。だが、決められた座標にも希望はあるものだ。それを辿らなければ見えない景色もある」
──こいつ…熱を纏っているのか。いや、本質は魔力だろう。痛みは感じているようだが…だとしても…無傷か。どうやら、感化されているようだ。クリム・ヴァイスの狂気に。
グラートは、右腕を素早く振り上げ、手のひらを空に向ける。すると、淡碧に染まる数多の氷粒が、一羽の大きな鳥が翼を広げて飛び立つように、空気を凍りつかせながら立ち昇る。
その冷気の流れを追うように、ヴァイスは視線を上空に向ける。
「嘘…だろ?」
──さっきまでの戦い方よりも雑…いや、如何にも貴族らしい圧倒的誇示。さながら天災だな。ノルク・グラート…まさか俺を試してるのか?
その瞳に映ったのは、視界を覆い尽くすほどの巨大な氷塊だった。
「一級氷魔法、アイス·メテオ」
グラートは、そう言いながら天に伸ばしていた腕をゆっくりと振り下ろす。
ヴァイスは、両足を地面に踏みつけるように腰を屈め、身に纏う炎を両足に渦巻かせる。
「炎魔法、フレイム·デバンド」
──落ちてからじゃ遅い。というか端から…迷う余地なんかない。着地のことは後で考えよう。
足から地面に向かって噴射した炎は、鈍い轟音と共に氷の大地を踏み砕き、黒煙を撒き散らした。その地面に黒焦げ痕を残すほどの爆風に身を委ね、迫り落ちてくる氷塊に向かって猛然と飛んでいく。
まるで赫閃が薄ら揺らめく星の欠片。
グラートは、その不格好な飛行魔法を反射的に目で追いかけ、ただ呆然とした面持ちで見上げていた。
「勢いだけの制御不能の飛行…。宣言通り、迷わず向かっていくとはな…」
曇天を隔てる氷塊を眼前にしたヴァイスは、剥き出しになった歯を食いしばりながら、加速に連れて強まる冷風を突き破り、ギュッと拳を強く握り締め、肘を大きく背中に引き絞る。
「炎魔法、フレイム·ブロウ」
その拳からボウッと激しく燃え上がる炎は、朧に揺らぐ高熱の空気を掻き寄せ、斑紋の幼蛇がうねり巻き付くように、細く高密に渦を成す。そこから鱗が剥がれ落ちるように、琥珀色の輝きで星々を描く火花はパチンッと小さく爆ぜる。
それは、まるで柳が香る初夏の夕闇、空気を叩く重低音を鳴らす花火が彼方の空を儚く照らし、せせらぎの涼しさを飾る蛍火を緋色に惑わすような、脆く幽けき灯りだった。
ヴァイスは、空を万遍なく喰らい尽くす怪物のような淡碧の氷塊に、その炎の拳を躊躇なく突き立てる。
その衝突の瞬間、パキンッと氷の表面が割れた音の響きに混じる、ツンと鼻の奥を痛ませる冷たい匂いと共に、白霧が噴き舞う。
パキッ…パキッ…。
亀裂の入った氷盤の隙間から溶け出た水が滴り落ち、ジワジワと染み込み割れる音が、耳元で密かに鳴り響く。その小さな騒音で、ヴァイスは卒然と目を覚ました。彼の放心とした瞳は、乾きを忘れたように瞬き一つせず、ただ真っ直ぐに写し出す、鈍色の雪雲だけが残った空を見上げていた。
二人の激動は早くも決着する。
しかし、敗北ではヴァイスの希望は枯れず──。
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