39.かつての。そして、眼前の。
「――アモン」
右目に紋様が赤く浮かび上がると共に、その悪魔の名を口にする。
その瞬間、魔使の魔力が変容し、肥大する。
湧き上がり、煮え滾り、全てを呑まんとするほどの膨大な魔力。
触れただけで何もかもを消し飛ばすかのような荒々しさがあった。
「……何だぁ? その姿は」
同時に、魔使の様相も変わる。
髪と眼は、燃え盛るかのように赤く。
その身体はゆらゆらと揺らめき。
まるで、人の輪郭を得た火災そのものだ。
「――『炎帝』」
吐く息は空を灼き、周囲の海が音を立てて蒸発していく。
ただそこに存在するだけで、燃やし、溶かし、灼いていく。
「熱……」
その光景に、弐番はゴクリと唾を呑む。
ゆっくりと目を閉じ、大きく息を吸い、魔使の変化を五感全てで感じていた。
「・・・・・・あぁ、目を閉じれば脂の焼ける音が聞こえるようだぁ。鼻を通り抜ける芳醇な香り・・・・・・。――お前ぇ、どこまで儂の食欲を刺激してくれるぅ」
口元が歪む。
もはや垂れる涎を拭わない。
肌を刺す熱も。
異形と化したその姿も。
全てが、食欲を加速させるスパイスでしかなかった。
故に踏み込み、駆けた。
「こんな美味そうな人間は初めてだぁ。あぁ、早く喰わせろぉ!」
「――ワイヤーか」
魔使の眼が空をなぞる。
降り注ぐように張り巡らされた、透明で細い糸。
「領域の使い方に随分慣れているな」
領域を展開した者は、いつでも領域内に存在する物を操れる。
それは地形も、環境情報も例外ではない。
故に弐番は、ワイヤーを出現させ、空中に張り巡らせていた。
無数に張り巡らせたワイヤーを、弐番は手や足をかけ方向転換や加速に利用していた。
弐番は加速を続け、無数の残像を周囲に残していく。
だが。
「稚拙だな」
更に加速していく弐番を正確に視線に捉えながら、魔使は鼻で笑った。
そんな魔使を、弐番は観察していた。
食欲が「早く齧り付きたい」と囁いてくる。
しかし、捕食者としての本能が警鐘を鳴らしていた。
奴が放つ灼熱は、ただそこに存在するだけで地を焦がすほど。
更には一本、また一本とワイヤーが焼き切れていく。
燃え盛る炎へと変色したその瞳は、ワイヤーを伝う自分を捉え続けている。
・・・・・・こんな人間は初めてだ。
だが、それでも抑えられない。
喰らいたいという衝動。
数多の人間を喰らってきた経験から、魔使の首筋に狙いを定める。
如何な生物せあろうとも、首を断てば死ぬものだ。
ワイヤーに全体重をかけ、撓る反動で最高速へ――。
魔使の背後へ。
狙うは一点。
首めがけて振るった。
――獲った!
勢いのまま地面を滑り、確信をもって顔を上げる。
そこには首を断たれ、崩れ落ちる魔使の姿がある――・・・・・・
はずだった。
「あ?」
魔使は立っていた。
それどころか、首は繋がったままだ。
ふと、その背後に宙を舞う何かが目に入った。
黒く、所々が砕け、霧散していく何か。
見覚えのある肉切り包丁を握った・・・・・・。
確かめるように視線を落とす。
「――⁉」
右腕がない。
斬り落とされた。いつの間にか。
痛みすらない。斬られたことすら認識出来ない。
頬を伝う汗と共に、何かが、心の奥底で何かがふつふつと湧き上がる。
ソレと同時に後方へ飛び、距離を空ける。
着地した衝撃であがった水飛沫が降り注ぐ。
滴る水滴を拭いもせず、弐番は魔使を再度見た。
彼の手には、巨大な剣。
荒れ狂う炎そのもののような剣。
陽炎が周囲に生まれ、あらゆる全てを焦がしていく。
あの武器は、いつから?
いつ、斬られた?
斬られた腕が再生していくのを感じながら、弐番をその疑問ばかりが埋め尽くす。
その時。
「――・・・・・・」
一歩、魔使が踏み出した。
ただそれだけ。
急激に距離を詰められたわけではない。
ただ、一歩踏み出しただけ。
それなのに、弐番は魔使から目が離せなかった。
一挙手一投足。息づかい。
あらゆる全てから目が離せない。
いや、離してはならない。
近づいてくる度、鼓動が馳せる。
近づいてくる度、視界が霞む。
汗は噴き出し、息苦しく、胃が痛み、吐き気まで襲ってくる。
魔使が一歩近づいてくる度、弐番が一歩後ずさる度、それらは加速度的に酷くなっていく。
弐番の胸の内から湧き上がる何かも、同じく大きくなっていく。
それは、人を喰った時に遠くなったモノ。
それは、怪異になったことで忘れてしまったモノ。
生物が生きる上で何よりも重要なモノ。
――恐怖。
強者への恐怖。迫り来る死への恐怖。
かつて忘れてしまったモノを、弐番は取り戻していた。
「支配領域というのは、この上なく煩わしいな」
「――ひっ」
魔使が冷めた目を弍番に注ぎながら歩き出す。
その声に、弍番は小さく悲鳴を漏らした。
一歩近づいてくる度、後ずさる。
もはや弐番にとって、魔使恵は美味そうな食糧などではない。
『死』そのものとなっていた。
足が竦む。
世界がぐにゃりと歪んだような目眩が襲う。
もはや立っている事すら難しく、へたり込んでもなお後ずさる。
――どうすれば、どうすれば、どうすればッ!
この恐怖から逃げ切る力は、地下にある。
しかし、その道中には、恐怖が立ち塞がっている。
怖い。怖い。怖い。怖い。――でも。
「ぅぁああああああああああ!!!」
がむしゃらに叫びながら、一気に駆け出した。
目指すは、胎を満たすあの場所へ――・・・・・・。
「――!」
裁断。
魔使に向かって駆け出したその瞬間、弍番の胴が二つに断たれた。
太刀筋など、ましてや魔使が動いた軌跡すら捉えられない。
気づけば斬られていた。
しかし。
「……ぅぁぁ、あああ!」
腕で這うように、それでも目的地に急ぐ。
今はただ、この場を離れなければ。
胴体を斬られても、進み続ける。
再生だけに魔力を消費、一切抵抗することなく走り抜ける。
そして、転がり込むように、弍番は地下へ落ちていった――。
その後ろ姿を見ながら、魔使は浅い溜め息を吐いた。
「逃げた、か・・・・・・。面倒だな」
そう言いながら、後を追う。
魔使は、弍番を留めることなど容易にできた。
やろうと思えば、弍番を逃がさず捕らえることも出来た。
だが、あえてそれをしなかった。
なぜなら。
「・・・・・・随分と焦った顔をしていたな」
魔使は感じ取っていた。
弍番は恐怖している、と。
自分に、いや、自身と重なる何かに怯えていることを感じ取っていた。
だから、あえて逃がした。
「全く……あぁ、面倒だ」
面倒だという言葉とは裏腹に、その口元は僅かに歪んでいた。




