第三百二十三回 藩主は浪人の娘を正室に選びけり
財津右衛門は太田孝介とともに栗山善三郎に引っ張られて蔵屋敷へ戻った。
留田仁右衛門〈雪岡冬次郎〉を強制切腹させるという悪だくみの責任は、財津右衛門丞が目下の太田孝介を半殺しにすることで、不問とされた。
うまく危機を逃れたと財津右衛門は大喜びをした。
自分が他人を酷い目にあわせているということに快楽主義上の悪の自覚は彼にあるのだろうか?
上位者から断罪されないかぎり自分が好きに振る舞う資格があると財津右衛門はケルゼンの法段階説のようなことを考えているのだろうか?
多文化共生社会においては、ヨコのコミュニケーションによる【物の道理】を説くことは困難である。
AとBが殺しあい、AとCが仲が良く、BとCが殺しあい、BとAが仲が良く、といった状況でも、AとBとCは共存できるとするハーバマスのネットワークの考え方は、通用する場面が限定される(AI支配の共産主義による監督管理を理想とする見解が近年に増えている。しかし、【上に政策あれば下に対策あり】と言うように、その方向は簡単にはうまくいかない。情報統制による国民の愚民化も考えられるが、いったん崩壊すれば長期にわたって国力は低迷するというのが歴史のお約束である)。
現実の世の中においては、真理を追求すべきと言ったような近代科学合理精神のような【統合】の哲学のないかぎり、AとBとCの間の抗争は避けがたい。
日本においても、鎌倉時代までは、証拠裁判で最下級の地下浪人が時の最高権力者の執権に所領争いの裁判で勝つ『太平記北野通夜物語』のような【物の道理(法の支配)】と【評定所に集えば身分の高下なし(法の下の平等)】の尊重は絶対にありえないことだった。
近代的な鎌倉文化と古代的な平安文化が併存して日本の歴史は発展した。
いわゆる非近代の文化からすれば、財津右衛門のような男は、盛岡藩で五十石の知行取りの藩士になったというのだから、賢い【勝ち組】であろう。
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寛永年間の筑前には新しい風が吹いた。
若者たちの政治的冒険。
元和八年、寝る前に酒を飲みながら「俺たちの時代になったら」と議論を戦わせていた黒田忠之と倉八長之助が、いよいよ本格的に政治の世界に乗り出す。
あらためて寛永三年諫諍書を読み直すと、そこで問題にされている兵庫の宴は寛永三年に黒田忠之が京で従四位下の官位を得た帰路のことだったようである。
ただ、講談『栗山大膳』や怪談『お網門』では兵庫の宴は寛永二年のことにされる。
そこで、この物語世界においては、寛永三年だけでなく寛永二年にも兵庫の宴は行われたということにした。
兵庫の宴で傀儡子(芸能人)を呼んで商人を接待したことからわかるように、黒田忠之は自分の眼力に異常な自信を持ち、【上下の別】へのこだわりが薄かった。
これぞと思った相手とは身分に関係なくつきあった。
寛永三年には、浪人者の娘と恋愛した。
メチャクチャである。
当時の黒田忠之の正室が将軍の妹のお久だったことからすれば、松平忠直の例によると、藩のお取り潰しにもつながりかねない危機であった。
その浪人者の娘を隠すべく、黒田忠之は年配の家老の黒田美作と連絡を密に取り合うようになり、普通に親しくなり、結果的には、二十代の新藩主の黒田忠之がスムーズに筑前で藩政を行える状況が調った。
寛永四年にお久が急死し、黒田忠之は、浪人者の娘を正室にして、二人の間に生まれた子どもを跡取りにした。
その時の子どもが三代目の福岡藩藩主である黒田光之である。
黒田光之は両親に非常に感謝し、光之の命令で編纂された藩の正史では、黒田忠之は【近世稀に見る英武の君主】として記録された。
兵庫の宴が寛永三年に行われたと寛永三年諫諍書をに明記されているのにかかわらず、多くの栗山大膳の支持者の書いたフィクションでは寛永二年とするのは、兵庫の宴が寛永三年に行われたことを認めれば、鳳凰丸事件が寛永二年ではなく寛永五年に行われたと確定してしまうであろう。
寛永三年に黒田忠之が従四位下に任官しているのであり、鳳凰丸事件が寛永二年に起きたという説は信じがたい。
吉田久太夫『栗山大膳記』にあるように鳳凰丸事件が寛永五年に起きたとすれば、『西木紹山居士碑銘』にある寛永五年の栗山大膳の一時隠居は事件処理に怯えたがゆえに職務放棄の逃亡だ。
事件処理が終わった寛永六年に『倉八宅兵衛由緒書』によれば、倉八十太夫〈長之助〉が三千石の加増を受けており、事件処理は倉八十太夫が中心になったと推察するのが自然である。




