第4話 お湯通し
朝の演習林は、湿った土と落ち葉の匂いがした。
遠くで鳥が鳴いている。東門の魔犬たちは、満腹そうに腹を見せて寝転んでいた。
ダイアナは先頭を歩き、ジョシュアは半歩後ろをついていく。ハンターはその隣で、夜露に濡れた枝が制服へ触れるたび、眉間に小さな皺を寄せていた。
「つまり、部費の横領を調べたいわけだね」
「そうですわ。昨日は帳簿を調べましたの。夜には倉庫も」
「夜にも?」
「ええ。密かに」
ジョシュアは、演習林の奥を見た。
「今朝は正式な監査として、倉庫と保管記録を確認したいのです。ハンター様なら、自治規則についてもお詳しいかと」
「もちろん。学園自治八条三項。部費を生徒会費から受領する団体は、生徒会による決算監査と、それに必要な立入検査に応じる義務がある」
ハンターは淀みなく答えた。
「ジョシュア。君はそういうことを調べる前に、生徒会の仕事を覚えたまえ。いつになったら、役に立ってくれるのか……まったく」
「はい。ハンター様」
先月、その規則集を取り寄せ、読み、付箋をつけ、副会長の机へ置いたのはジョシュアだった。
ジョシュアは、特に何も言わなかった。
倉庫の前へ着くと、昨夜の荷馬車は二台とも消えていた。
石畳には、車輪の跡が残っている。
鉄の扉は閉まっていたが、錠前はかけられていなかった。
「不用心ですわね」
ダイアナが扉を押す。
中は、もぬけの殻だった。
携行糧食も、登攀索も、防寒具もない。棚の奥まで朝の光が届き、何も載っていない棚板の筋がはっきりと見えた。
昨夜、ダイアナが派手に倒した鉄棚まで、すでに立て直されていた。
曲がった支柱が一本、ほかの支柱と違う角度で棚板を支えている。それさえ見なければ、何事もなかったようだった。
「ほら。ジョシュア。わたくしの言ったとおりですわ」
「はい」
「何を言ったかしら」
「今朝、もう一度調べると」
「そうでしたわね」
ハンターは純白のハンカチで鼻を覆い、くしゃみをした。
「こんな埃っぽいところへ、愛しのダイアナ、君が来る必要はなかったのでは?」
ジョシュアは床へ膝をついた。
昨夜、サキが開けた床板を持ち上げる。
木箱もなかった。
浅い空間の底には、箱の角が擦ったらしい細い傷と、わずかな埃だけが残っていた。
「裏帳簿も、注文書も、運び出されています」
「あら。でも、持ち去ると消えるのでしょう?」
「運び出した者には、術を動かさない方法があるのでしょう。僕らのような部外者が勝手に持ち出すのを防ぐためのものですから」
ジョシュアは床へ指先を当てた。
緑の光が、その細い指の間から滲んでいく。
彼は目を閉じた。しばらく、誰も何も言わなかった。
「ジョシュア。何をしていらっしゃいますの?」
「あの木箱に、追跡用の緑の宝珠を紛れ込ませておきました。まだ反応があります」
「まあ」
ダイアナは、嬉しそうに身を乗り出した。
「さすが、わたくしのジョシュアね!」
「南の方角です。学園の外……北街区の、高台の辺りまで運ばれています」
ジョシュアは顔を上げた。
その方角には、貴族たちの邸宅が並ぶ住宅区があった。
「どのお邸かまでは、もう少し近づかないと分かりません」
「では、近づきましょう。ハンターくん。次は北街区よ」
「生徒会長。ちょっと待ちたまえ。僕たちはまだ、ここで何も――」
その声に、別の声が重なった。
「どんなドブネズミが倉庫をこそこそ嗅ぎ回っているかと思えば」
入口に、男子生徒が立っていた。
一人ではない。
幅広い肩をした上級生の後ろから、同じく山岳団の制服を着た男たちが次々と入ってくる。
手には木刀。訓練用の杖。荷役に使う鉤棒。
粗忽だが、実用的な武器ばかりだった。
彼らは三人を見ながら左右へ分かれ、空の棚の間を通って背後へ回り込んだ。
「おやおや。生徒会の皆様でしたか」
「あら。あなたたち」
ダイアナは腰へ片手を当てた。
「ちょうどよかったわ。昨夜、ここにあった物資は、どこへ運びましたの?」
「言いがかりはその辺にしてもらおう、生徒会ども。お前らこそ、いったい何を嗅ぎ回っている」
「質問へ質問でお答えになるのね。感心しませんわ」
ダイアナは胸を張った。
「さあ、白状なさい。あなたがたは部費をごまかし、物資を横流しし、その罪をヴィクラム殿になすりつけた、グロヴナーの――」
「殿下、まだ」
ジョシュアが、慌ててダイアナの口を塞いだ。
だが、もう全員が聞いていた。男たちの視線が険しくなる。ジョシュアは目を細くした。
ハンターは、ダイアナよりも一歩前へ出た。
「ヴィシー山岳団の諸君。生徒会は、決算監査のため、学園から立入検査の権限を与えられている」
よく通る、朗々とした声だった。
「学園自治八条三項。説明を拒むのであれば、その事実も監査報告に記す。まず武器を下ろし、責任者を呼びたまえ」
倉庫の中へ入っていた生徒たちが、顔を見合わせた。
ダイアナとハンター。
学園にいる者なら誰でも知っている、最上位ランクの二人だった。
それに比べれば、彼らの手にある木刀や鉤棒は、ずいぶん頼りなく見えた。
「ほーっほっほっほ。そうですわ」
ダイアナは勢いづいた。
「お分かりになったら、まず、わたくしの足元へひざまずきなさい!」
「あの、それは監査に必要ありません、殿下」
ジョシュアの訂正は、ひどく小さかった。
しかし部員たちは、一人、また一人と、腰を落としかけていた。
武器を置き、ダイアナの前に膝をつく者もいる。
生徒会の、ダイアナの威光は絶大なものがあった。
「貴様ら。何をやっている」
入口から、低い声がした。
部員たちが一斉に顔を上げる。
「グロヴナー先輩!」
人垣が割れた。
昨夜と同じ黒い礼服を着た偉丈夫が、倉庫へ入ってきた。
ヴィシー山岳団の部長。侯爵家の三男、グロヴナーである。
大きな肩と厚い胸板。紫色のマナをまとったその姿には、若い貴族というより、前線で兵を率いる軍人のような圧があった。
「誰かと思えば、生徒会長ダイアナ殿下と、副会長ハンター様ではないか」
彼は、二人の間にいるジョシュアを一度だけ見た。
挨拶はしなかった。
「この清く正しい我らヴィシー山岳団を、朝から侮辱しに来られたのか」
「あら。とってもレッドな嘘をおっしゃいませ、グロヴナー」
ダイアナは顎を上げた。
「貴公のたくらみは、もう、お湯通しなのよ!」
「殿下。『お見通し』です」
ジョシュアが耳元で囁いた。
ダイアナは咳払いをした。
「ともかく。いますぐ降伏なさい。そうすれば学園も、王国も、貴公には、めっちゃ寛大な処置を考えてあげなくもなくってよ!」
「お断りする」
グロヴナーは、短く答えた。
「会計の件なら、ヴィクラムが自白した。自分でやったと認めている。そのうえで、何を調べる?」
「え? え? えっと……」
「昨夜の物資です」
ジョシュアが言った。
「ここには、消費済みと報告された在庫がありました。それを運び出した記録と、売却代金の行き先を――」
「お前には聞いていない」
グロヴナーの声が、低く沈んだ。
「生徒会長殿。ずいぶんと、よく喋る奴隷を連れておられる」
「ええ。わたくしの代わりに、必要なことを聞いていますの」
ダイアナは即座に答えた。
「ですから、答えなさい」
ダイアナの白く美しい指が、ビシッとグロヴナーを指しえぐる。指弾を受け、グロヴナーの口元から、笑みが消えた。
倉庫の奥で、木刀を握り直す音がした。
ハンターは視線だけを動かした。
左右に十人ほど。背後にも数人。入口には、さらに数人が残っている。
「グロヴナー。監査へ応じる気がないのなら、僕たちは退去する。そのうえで、顧問のメルビン先生と、警備騎士団へ報告しよう」
「そう簡単に帰せると思うか?」
グロヴナーが、一歩進んだ。
濃紫色のオーラが、その肩から大きく立ち上がる。
「俺たちは、山で何日も食う物を節約して訓練している。お前ら生徒会が、暖かい部屋で旨い紅茶を飲んでいる間にな」
ダイアナは、少しだけ目を逸らした。
紅茶は、おいしかった。
「そのうえ、朝から乗り込んできて、罪を白状しろ、ひざまずけだと」
「ひざまずく必要は、ないそうですわ」
「そういう話じゃねえ」
グロヴナーは、腰の剣へ手をかけた。
「どこまで見たのか、どこまで嗅ぎつけたのか。ゆっくり、聞かせてもらおうじゃないか」
グロヴナーの剣が、鞘から抜かれた。
刃の縁を、朝の光が細く走った。
決闘用の模擬剣ではない。
人を斬るために研がれた、実戦用の業物だった。
「……なるほど」
ハンターも、剣を抜いた。
「そうくるならば、私どももお相手いたそう」
磨き上げられた刀身を青いマナが包む。彼の顔から、先ほどまでの恋愛気分は消えていた。
「殿下。僕の左へ」
「ジョシュア。わたくしの背中にいなさい」
ダイアナは、彼の前へ腕を差し出した。
「わたくしの剣は、必ずあなたを守ります」
「え。は、はい……」
ジョシュアは半歩下がり、倉庫の高い天井を見た。
梁の陰で、黒と白の影がわずかに動いた。
サキだった。
ジョシュアが小さく頷くと、その影は再び静かになった。
山岳団の部員たちが、じりじりと間合いを詰める。
倉庫の中へ、靴底の擦れる音が響いた。
ダイアナは聖剣ソウルクレイドルの柄を握り、堂々と胸を張った。
「さあ。わたくしの剣技、ご覧に入れますのよ!」
そして、勢いよく抜こうとした。
抜けなかった。
「……あ、あら?」
もう一度、引いた。
聖剣は、鞘の中から出てこなかった。
山岳団の一人が、木刀を振り上げた。
「ジョシュア」
ダイアナは正面を見据えたまま、ひどく小さな声で言った。
「ちょっと、手伝ってちょうだい」




