第百八十三話 「人間」
その魔獣の名前は、ラヴィと言った。
ランと同じく純白の髪を持ち、短めのランと違って腰の辺りまで伸ばしていた。
おっとりとした碧眼は純粋そうに濁りなく、物腰が柔らかい雰囲気が漂ってきた。
見た目は竜魔族、ではあるものの、どこか優しさを感じる異質な存在。
実際に窮地まで助けられたランは、魔獣なのに敵意がないというギャップにひどく困惑させられた。
『どこか怪我などしておりませんか? よろしければ肩をお貸ししますけど?』
それもそのはず。
ラヴィは魔獣でありながら、人に敵意を持たない稀有な存在だった。
歴史上、人間を敵視していない魔獣は、数えるほどしか確認されていない。
魔獣は世界各地に蔓延る凶悪な生命体で、いつどこからやってきたのかわからない謎に包まれている。
突然空から降ってきたり地中から這い出てきたり、もちろん繁殖も行う。
そして等しく人間に強い敵意を抱いており、さらには言語を操るほど知能の高い魔獣ともなると、人間に対してより強い憎しみを内包していた。
だというのにラヴィは、人への敵意をまるで持たず、どころかランの命を救った。
当然ランからは疑問が出た。
『どうして、私を助けてくれたの……?』
人にもまったく助けられた経験がないランは、尚の事不思議で仕方がなかった。
なぜ見ず知らずの人間なんかを助けたのか。
人間ですら人間を助けることなんてしないのに。
人間も魔獣も全員、自分さえ良ければそれでいいと思っているはずではないのか。
その問いかけに、ラヴィは魔獣らしからぬきょとんとした顔で答えた。
『えっ? お困りのようでしたので』
『……』
ラヴィはなんでもないようにそう言った。
自分でランを食べるために黒狼を追い払ったわけでもなく。
何か見返りを期待して救ったわけでもなく。
損得勘定など抜きに、“困っている人がいるから助けようと思っただけ”だと。
ここまで濁りのない優しい心の持ち主に、ランはこの時初めて出会ったのだった。
『……困っている人がいたら、あなたは誰でも助けるの?』
『いいえ。冒険者や狩人でしたら助けていませんでした。わたくしの方が殺されてしまいますから』
ラヴィは普段、人が立ち入らない森の奥深くで暮らしている。
人に見つかれば大騒ぎになるから。
こちらに敵意がないとしても、それを簡単に信じてくれるはずもないから。
だから極力、人とは関わらないように心がけていた。
今回ランを助けたのは、見るからに魔獣討伐を生業としている人間ではなく、この森に珍しく迷い込んだ少女にしか見えなかったからだ。
『ご両親はどちらに? お家へ帰らなくていいのですか?』
『……いないよ、そんなの。家なんてのもないし』
助けてくれた後も、ラヴィは常に気遣ってくれた。
よかったら出口まで案内をしようかと親切に提案までしてくれた。
けれど、この森を出たところで居場所がないランは、その場でうずくまり続けた。
『また魔獣がやって来て食べられてしまいますよ?』
『いいよ別に。生きてたところで、楽しいことより辛いことの方が多いから』
それにどうせ自分が死んだところで、世界は変わりなく続いていく。
そう考えると、自分の命に価値なんてまるでないような気がして、生きようという意思がこれっぽっちも湧いてこなかった。
するとその場で膝を抱え続けていたランに、ラヴィが顔を覗き込みながら言った。
『行く当てがないのでしたら、うちへ来ますか?』
『えっ?』
『わたくし、お話しできる相手が欲しかったのです。人間で言うところの“家族”や“友達”といった相手が』
ラヴィはずっとこの森にひとりでいて、長らく退屈していたという。
魔獣も同種では群れを成すことがあるが、ラヴィは他の魔獣と違う価値観を持つ。
人間に敵意がない魔獣というのは、魔獣の世界においては異端の存在だった。
だからラヴィは自ら魔獣たちと距離を置き、孤独で静かな暮らしを続けてきた。
『……面白い人生を歩んできたわけじゃないから、面白い話なんてできないよ』
『では、あなたのことを教えてくださいませんか? なぜこんな場所にひとりでやって来て、そんなに寂しそうな顔をしているのか』
もう誰かと話す気力すらなかったランだが、不思議とラヴィとは気楽に話せた。
そして特に行き先も目的もなかったので、ラヴィについて行くことにした。
森の深くにある彼女の家で、言われた通りに自らの素性を明かした。
初めは助けてくれたお礼として、話し相手になるつもりだったが……
気付けばご飯をご馳走になり、湯浴みもさせてもらい、寝泊りまでしていた。
それからいつの間にか、ラヴィの家で何日も過ごしてしまっていた。
居心地がよかった。
すさんでいた気持ちが軽くなっていった。
誰かとの会話を初めて気楽だと思った。
生い立ちを話した時は深く同情してくれて、話したことで心がすっきりとした。
話し相手になるつもりが、知らぬ間に自分の方が心を救われていた。
しかしこのままでもいいのかという、罪悪感にも似た不安もよぎった。
『ただ話し相手になってるだけなのに、こんなに長くお世話になってもいいの?』
『別に構いませんよ。この家だって元は放棄されていた森小屋ですし、食べ物は近辺で充分調達できます。遠慮しないでください』
ラヴィはそう言ってランの滞在を快く受け入れてくれた。
付け加えてこんなことも言ってくれた。
『むしろランちゃんがよければ、これから一緒にここで暮らしましょう。誰かと一緒に家に住むなんて、人間ぽくて素敵ではありませんか……!』
ラヴィは何かと、“人間”という存在に憧れを持っていた。
正しく言うなら、人間そのものではなく人間同士の“絆”に強い興味を示していた。
絆や愛というのは人間独自の生態で、魔獣から見れば特異なものに映るとか。
ラヴィはその絆を誰かと結んで、人間と同じように感じてみたかったようだ。
『できればわたくしも、人間として生を受けてみたかったくらいです』
『やめた方がいいよ。人なんてろくなものじゃないし、自分のためにしか動かない醜い生き物だから』
『でも、ランちゃんは可愛らしいですよ。それでどうでしょうか、一緒にここで暮らしませんか?』
ランとしては、屋根のあるところで寝食を行えるだけでもありがたかった。
だからラヴィの提案を断る理由もなく、素直にそれを受け入れた。
ただ、ランも心のどこかでは、そこはかとない“嬉しさ”みたいなものを感じていた。
『これからよろしくお願いします、ランちゃん』
『人間と魔獣が一緒に暮らすなんて、他の人が聞いたら卒倒しそうだけどね』
人間の世界に居場所がない少女と、魔獣の世界に居場所がない竜魔族。
図らずもふたりの奇妙な生活が始まった。
初めは生物間のギャップに悩まされたこともあったが、すぐにランは順応した。
危険区域の奥底という立地の悪さも、ラヴィの竜魔族としての力がすべてを解決してくれた。
ふたりの生活は順調に続き、気が付けば二年もの歳月が流れていた。
しかしそんな生活も、長くは続かなかった。
『ラヴィ、町に魔獣が……』
なんてことないある日のことだった。
ラヴィとふたりで森を出て、食料調達をしている時、遠方での騒ぎに気が付いた。
森からそれなりに近い町に、魔獣の軍勢が押し寄せていたのだ。
唐突なその侵攻の背景には、南の勇者が竜王軍との戦いで負傷し、戦線を離れて南の軍が勢いを失ったというきっかけがある。
このまま放っておけば、確実に人々は惨殺され、町は制圧されてしまう。
ランとしては気の毒だなと思うくらいで、巻き込まれないように離れようとラヴィに告げようとした。
しかしその時……
『た、助けてください……!』
町の方から逃げてきたと思しき初老の女性が、ふたりの前に駆け寄ってきたのだ。
聞けば、女性はなんとか町から逃げてくることができたが、家族や知人が残されたままだという。
そして遠くにランたちの姿を見つけて、縋る気持ちで駆け寄ってきたそうだ。
幸いラヴィはフードとマントで魔獣的な特徴を隠していたので、竜魔族だとはバレていなかった。
どころか、女性が混乱していたこともあって、装いから腕利きの冒険者だと勘違いされていた。
『お願いします……! まだ夫や息子が町にいるんです……! お、お願いします……! お願いします……!』
涙ながらに女性に縋りつかれたラヴィは、慈愛に満ちた顔でその人を見ていた。
そして人間同士の“絆”を目の前で見せられ、憧れている人間に助けを求められたからか……
『……ランちゃんはこの人と離れていてください』
『えっ?』
それだけ言い残して、ラヴィは戦渦に飛び込んでいった。
大好きな人間に頼られたのが嬉しかったからだろう。
人間同士の絆を絶やしたくなかったからだろう。
何より、魔獣でありながら人間以上の優しさを持っていたから。
ラヴィは強かった。
竜魔族の中でも群を抜いた実力を持つほどに。
しかし軍勢の戦力もまた大きく、加えて人を守りながらの戦いはラヴィにとって不利だった。
結果として町に攻め込んできた魔獣は、ラヴィがすべて駆除してみせた。
ただし代償として、人を庇いすぎたラヴィは大きな怪我を負った。
四肢は千切れかけ、全身には複数の打撲と深い裂傷が刻まれ、純白の長髪は鮮血の赤に染まっていた。
騒ぎが落ち着いてから町にやって来たランは、倒れるラヴィを見つけて動転した。
『ラヴィ……! しっかりしてラヴィ……!』
竜魔族と言えど、それは見るからに命にかかわる負傷だった。
慌てて【大聖女】の治癒魔法での治療を試みたが、未成熟の天職ゆえに傷は塞がらなかった。
残された手は、町の人間たちに助けを求めることだけだった。
『お願い! ラヴィを助けて! 傷の治療をしてあげて!』
町には治療院があり、設備も道具も揃っている。
洗練された治癒師もいるはずで、総出で治療にあたれば助かる可能性は少なからずあった。
だが、ランの懇願に、町の住人たちは顔を背けるだけだった。
初めに泣いて縋ってきた初老の女性も、こちらと目を合わせてくれなかった。
『誰があなたたちのことを守ったと思ってるの! ラヴィが戦ってくれなかったら、今頃この町は……!』
『その魔獣が、これまで一度も人を襲ったり、食べたことがないと言い切ることができるか。これから先もそうしないと、保証することができるか』
人ごみの中からひとりの男性が歩み出てきて、淡々とした口調でそう言った。
それに対し、ランは何も答えることができなかった。
ラヴィが一度も人を襲ったことがない、食べたことがないと、ランでも証明することはできなかったから。
またひとりが出てきて言葉を紡いだ。
『魔獣を駆除してくれたのは感謝している。しかし魔獣である以上、手を貸すわけにはいかない。傷が治った後で、住人たちを襲う可能性も否定し切れないからな』
『見逃してやるから、さっさと町から出て行ってくれ』
その気持ちは他の人たちも同じようだった。
誰も彼らの意見に異を唱えることはなく、黙ってこちらを見ているだけだった。
やむなくランは、傷だらけのラヴィを背負って町を後にしたのだった。
『死ね……死ね……死ね……! あいつら全員、死ね……!』
……わかっている。
簡単に受け入れることができないということを。
町の人間たちの言い分が、“人間として”正しいものであるということを。
それでもランは許せなかった。
目の前で命を懸けて町を守った存在を、どうして無下に扱うことができるのか。
町を守った。その事実ひとつだけで助ける理由になるだろうと。
『あんな奴らのために傷付くなんて、本当に馬鹿だよ……! 結局人間なんて、自分のことしか考えてないんだから……!』
なんとかラヴィを背負って森まで戻ってくると、彼女を安全な木陰に寝かせた。
そして持っていた手巾や、【大聖女】の治癒魔法で止血を試みた。
けれどあまりにも傷は深く、竜魔族の生命力で辛うじて息を繋いでいるだけだった。
そんな中で、ラヴィが掠れた声で呟く。
『人間に、受け入れられたかったのかも、しれません』
人を助ければ、人に受け入れてもらえる。
だからラヴィは、人を庇って、町を救って、憧れていた人間に近づこうとした。
魔獣ではなく、人間に近い存在になろうとした。
そうすれば……
『それで、いつか……ランちゃんと、本当の家族に……』
『人間と魔獣でも、私たちはもう家族だよ……! 私はずっとそう思ってる!』
ランは懸命に、治癒魔法での治療を続けた。
治ると信じて。これから先もラヴィと何気ない日々を過ごせると信じて。
『こんな傷も治せないで、何が大聖女だ……! 苦しんでるラヴィを救えないで、何が家族だ……!』
それでも傷は治らなかった。
大聖女の天職はなおも成長しなかった。
ランは自らの天職と無力さを呪った。
腕の中で大切な家族が弱っていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
『わたくしを、怖がらないでいてくれたのは、あなただけでした……』
ラヴィの手が、涙を優しく拭ってくれる。
その手を握り返すと、すでに血の気が失われていて、冷たい感触が伝わってきた。
『そんなあなたと、一緒にいられた時間は、すごく楽しかったです……。人間の絆を、感じさせてくれて、本当にありがとう』
懸命に握り返してくれていた手からも力が抜ける。
必死に手を握って呼びかけても、ラヴィは返事をしてくれなかった。
そして最期に、彼女は命を振り絞って……
『それで、どうか……』
願いとも取れる一言を、ランに言い残した。
『人間を、憎まないでください』
そうしてラヴィは、ランの腕の中で息を引き取った。
しばらくそれを受け入れられず、ランは血だまりの上でラヴィの遺体を抱え続けた。
ラヴィは死に際に、人間を恨まないでほしいと言ってきた。
ラヴィの意思はできる限り尊重したかった。
だが、とてもではないが人間という存在を受け入れることができなかった。
両親に捨てられ、軍の人間に惨い仕打ちをされ、貧民窟の住人からは拒絶された。
そして最後には、大切な家族の優しさを認めてもらえず、見殺しにされた。
憎むなというのが無理な話だった。
ラヴィの死後、ランは抜け殻のように小屋で過ごした。
何もせず、ただ呆然と扉の方を見つめ続けて、ゆっくりとやせ細っていった。
まるでまだ、扉を開けてラヴィが帰って来るのではないかと、虚しい期待を抱くように。
その期待を聞き届けたかのように、久しく小屋の扉が開かれた。
しかし中に入ってきたのは、竜魔族ではあったもののラヴィではなかった。
『人間と共存している竜魔の猛者がいると聞いてきたが、少し遅かったようだな』
灰白色の髪に細身の体。劇団員の青年のような竜魔族。
彼は小屋に入ってきた瞬間に、あらゆることを察していた。
抜け殻のようになったランが、竜魔族と共存していた人間であること。
そしてその竜魔族を失って意気消沈していることを。
『そこの娘、私に協力してみないか。もしこちらが提示した条件を達成することができたら、竜魔族の間に伝わる“秘術”で……かの者を蘇らせてやろう』
『えっ……』
同族の者であれば、同じ竜魔族の命をいくつか用意することで、蘇生が可能だとその者は言った。
死んだ者を生き返らせるなんて、あまりにも荒唐無稽な話だと思った。
いくら魔獣だからといって、死者を蘇らせるなんて人間と同じく不可能なはずだと。
けれど……
『……何をすればいいの』
ランはその話に縋るしかなかった。
自分にはラヴィしかいなかったから。
またラヴィと一緒に何気ない日々を過ごしたかったから。
何より、人間よりはまだ、竜魔族の方が信用できる存在だったからだ。
『中央大陸に厄介な人間がいるんだ。その者と接触を図って、息の根を止めてもらいたい』
ランは人間を憎んでいる。
だからその申し出に、まるで抵抗感を覚えることなく、一も二もなく頷きを返した。
すべては、大好きな家族である、竜魔族ラヴィともう一度会うために。




