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第百八十二話 「理不尽」

 ランは人間を憎んでいる。

 それこそ人を敵視する魔獣と近しい感情を持ち合わせている。

 自分が人間として生まれたことにすら強い嫌悪感があるほどだ。


 ランは元々捨て子だった。

 物心をついて間もない頃に、家庭の経済的困窮が理由で貧民窟に捨てられた。

 今でもさほど珍しいことではない。

 ただランが捨てられた場所は、世界的に見ても治安の悪化が著しい南大陸だった。

 荒れた貧民窟も急増しており、荒くれ者や獰猛な野犬に溢れて生きるのが難しくなっている。

 そんな場所に物心ついて間もない子供が捨てられたとなれば、圧倒的な確率で“死”が待ち受けていた。


 しかしランは、物乞いやゴミ漁りで辛うじて命を繋ぎ止めた。

 三歳ほどの子供があの場所でひとりで生き延びたのはまさに奇跡と言えるだろう。

 自分でもなぜ当時のあの状況で死ななかったのか不思議なほどだった。

 ひとつ明確な要因を挙げるとすれば、彼女の【大聖女】の天職が関係している。

 レベルは当然最低値ではあったが、掠り傷くらいは当時でも治すことができた。

 治癒魔法は傷の治療と同時に、ある程度は混入した毒物や有害菌も除去できる。

 そのおかげで常に傷を露出させることもなく、飢えや寒さに並ぶほどに多い感染症という死因のひとつを潰すことができていた。


 とはいえ、他の貧民窟の住人よりも僅かに生存確率が高いというだけ。

 死に限りなく近い状況であったことに違いはない。

 ラン本人も【大聖女】の力で感染症の予防ができていると自覚はしておらず、常に死の恐怖と隣り合わせで生きている感覚だった。

 それでも生き延びることができたのは奇跡的であり、ランは自分をこんな状況に陥れた両親を深く恨んだ。


 それから十年が経過して十三歳になった頃、ひとつの転機が訪れた。

 ランの天職を知った王国軍の人間が、貴重な人材として彼女を拾い上げた。

 バークチップ王国の方では【聖女】の天職の価値は知れ渡っていなかったが、軍の一部の人間は中央大陸での【聖女】の活躍を耳にしていた。

 そしてランの天職に将来性を見い出し、軍医候補として軍に招き入れた。

 ランからすれば願ってもない話だった。

 王国軍の軍医ともなれば確実な安泰が待っている。

 ランはついに貧民窟から抜け出して、“普通”の生活を送れるのだと歓喜した。

 しかし……


『さっさと成長しろこの屑が! いつまで役立たずでいるつもりだ!』


 ランの【大聖女】の天職は、一向に成長する兆しを見せなかった。

 どれだけ他人の怪我を治しても、レベルが上がらず治癒魔法も成長しなかった。

 そのせいで軍医としては使い物にならず、周りから白い目で見られることになった。

 食事も最低限で与えられた宿舎の部屋も低品質。同じ軍医の立場の同僚たちからも蔑まれ、話になかった雑用まで押しつけられる始末だった。

 そして憤った教官からは殴る蹴るなど容赦のない暴力まで振るわれて、軍に来てからというもの痛々しい生傷が絶えなかった。


『お前は血税で食わせてもらってるんだぞ。それを強く自覚しろ。死ぬ気で鍛錬を行え。成長できなければここに居場所はないと思え!』


 体罰で付けられた傷を自分で治そうとしたら、さらに殴られて怒鳴られた。

 無駄に魔力を消費するなと。その程度の傷で弱音を吐くなと。

 教官の指導はますます厳しさを増し、躾に鞭や熱湯まで用いられるようになった。

 ランにはもはや人権などなかった。

 せっかく貧民窟から抜け出せたというのに、軍はそれ以上の地獄に思えた。


『ラン。貴様から軍医としての資質を見出すことができなかった。よって軍から追放する』


 やがて軍事官が、ランから軍医の才能を感じず見限る決定を出した。

 成長させられなかった教官まで厳しい処罰を受けることになり、その憤りは当然ランに向けられることになった。

 軍を追い出されるその日まで激しい暴行が繰り返され、火傷と青痣だらけで宿舎を叩き出されてしまった。

 そして再び、彼女は行く当てを失くしてしまった。


 まさに人生の絶頂からどん底まで落とされて、壮絶な喪失感に襲われた。

 それから彼女は仕方なく、元いた貧民窟に戻ることにした。

 結局、自分の居場所はここしかないのだと。

 ゴミを貪って泥水を啜る生き方しか自分にはできないのだと。

 しかし……


『軍に拾われた犬が、今さら何しに戻ってきた……!』


 同じ貧民窟の住人たちに拒絶されてしまった。

 住人たちからすれば、ランは天職の名前だけで軍に拾われた偶然の成功者。

 そして楽をして甘い蜜を啜らせてもらっていた軍の犬にしか見えない。

 当然、貧民窟で苦しい生活を続けていた住人たちから妬み嫉みの視線が集中した。

 加えて軍は最近になって貧民窟の住人に対し、非道な扱いを繰り返すようになっていた。

 疫病の蔓延を封鎖するために一部を容赦なく掃討したり、無茶な人頭税を課して強引な徴収を繰り返したり、規律違反や暴動抑制と称してただ気晴らしに暴力を振るったり……

 そんな軍の人間にノコノコついて行って戻ってきたランを歓迎するはずもなく、貧民窟の住人たちは口を揃えてランを非難した。


『出て行け……! 二度と俺たちの前に顔を出すな』


 ランが貧民窟の住人に対して何かを行ったわけではない。

 だというのに理不尽に拒絶され、ランはやむなく貧民窟を去るしかなかった。

 最後の希望であったその場所からも追い出され、ランは完全に自分の居場所を失ってしまった。

 こうなってしまえば、もう遠方の町や国の貧民窟に移り住むしかない。

 しかしランに、町や国を渡るだけの力は残されていなかった。

 仮にできたとしても、貧民窟は資源の奪い合いが激化しており、よそ者への扱いは特にひどい状況になっていた。


 行く当ても無くなった彼女が足を向けた先は、魔獣がひしめく危険区域だった。

 ここなら誰かに拒絶されることがなく、強引に追い出されることもない。

 しかし当然、魔獣に襲われるというこれ以上ない危険がつきまとっていた。

 ただランは、もうそうなったらそうなったで仕方がないと諦めをつけていた。

 なんだったら、いっそのこと殺してほしいとさえ思っていた。

 どうせ生きていたところで楽しいことなんてない。苦しいことが待っているだけ。

 自分が人間である以上、人同士のしがらみから逃れることはできないのだから。


 ランは自分が人間であることを憎み、同時にこれまで出会った人間たちを恨んだ。

 冷酷にも自分を捨てた両親。

 勝手に期待して勝手に失望して追い出した軍の人間。

 こちらの苦しみも知らず一方的に拒絶してきた貧民窟の住人。

 すべてに対して憎しみを抱きながら、ランは森の奥底でなんとか命を繋ぎ止めた。

 しかし案の定、そんな生活が長く続くはずもなく、結局魔獣に襲われてしまった。

 黒い狼のような魔獣に囲まれて、当然逃げられるはずもなかった。

 四肢に噛みつかれ、千切られそうになる感覚をどこか遠い出来事のように感じながら、ランは自分の運命を静かに受け入れたのだった。

 その時――


『ギャンッ!』


 突然、ランの腕に噛みついていた黒狼が吹き飛ばされた。

 続け様に脚に噛みついていた黒狼も勢いよく飛ばされて、魔獣たちは怯えながら逃げていった。

 何が起きたのかわからないまま体を起こしたランは、後ろに誰かが立っていることに遅まきながら気が付く。

 同時にその人が黒狼を追い払ってくれたのだとすぐにわかり、ランは戸惑いつつもお礼を言うために後ろを振り返った。

 しかし、そこにいたのは……


『あの、大丈夫でしょうか?』


 人間の女性に限りなく近い見た目ではあるものの――

 腕と脚に純白の鱗を生やし、側頭部から二本の角を伸ばした、竜魔族の魔獣だった。

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