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夫婦が必死でオムツを替え、夜泣きをあやしているうちに、あっという間に赤ん坊の首が座り、お座りが上手になり、桜が咲く頃にはもうつかまり立ちがでるようになった。その間、チヨと淳には、ある素晴らしい出来事があった。
それは、チヨが仕事で翻訳を担当した童話絵本作家と、出版記念パーティーで会ったことから始まった。当初はチヨだけが出席する予定だったが、映画の受賞で話題を得たこともあり、出版社から「ご夫婦で出席して欲しい」と頼まれたのだ。
本来、淳は人が集まる場所は苦手なため、いつもなら丁重にお断りするところであるが、チヨにとっては初の大仕事であり、妻の顔を立てて出席を決めた。これが思いもよらず宝物のような出会いになったのだ。
「海東さん、さっきの話、やりましょう! うちに出版させてください、すぐ稟議書を上げます」
出版社の営業担当が、興奮して鼻の穴を膨らます。「さっきの話」というのは、パーティー会場で紹介された絵本作家さんと、いつか実現させたいねと語り合った、絵本と映像のコラボレーションである。
作家のカミンスキさんは、気の優しいポーランド系アメリカ人のおばあちゃま。チヨの通訳で話をしているうちに、娘のために映像作品を作りたい、という淳の夢を気に入って「ぜひ一緒にやりましょう」と乗り気になったのだ。その話に、横で聞いていた出版社の営業マンが飛びついた。
「翻訳は瀬川さんで、映像は海東監督で、夫婦合作なんて話題性もありますし! カミンスキさんの作品ならシェアは全世界ですし!」
カミンスキさんは人気作家だが、高齢なのでなかなか新作が出ない。そんな彼女が創作意欲を見せているのだ。このチャンスを逃すまじと、彼の頭の中では激しく電卓が叩かれているのだろう。しかし、それだけでもなかったようだ。
「僕、海東監督の映画のファンなんです。一緒に仕事がしたいです!」
その一押しで淳が陥落し、取りあえず編集部での稟議をあげてみることになった。結果は即断でゴーサイン。カミンスキさんが日本に滞在している間に契約を終わらせ、あれよという間に話がまとまった。
「まさか、私たちが奪いあった本からヒントが生まれるとはね」
チヨの言う「奪い合った本」とは、かつて学生だった彼らが古本屋の伽藍堂で見つけた写真集とDVDのセットで、本と映像の相乗効果を狙った実験的なアート作品である。それからヒントを得て今回のテーマに発展したのだ。
「俺、CGの勉強しといてよかったわ」
ミコちゃんを喜ばせたい一心で、淳は最近CGやアニメ編集の勉強をしていた。もちろん編集作業はプロの手に任せるが、その知識が今回の作品には大いに役立つ。作品内容は、カミンスキさんが書いた童話の世界観を、約10分間のイメージ映像で表現するというものだ。
これには淳の勤め先である「Seqence」が全面サポートを申し出てくれた。なんと恐れ多くも真木さんを助監につけ、ツキちゃん&ハナちゃんが外部サポート、CG編集は遠藤さんが専門のチームを組むという一大プロジェクトである。淳にとっては、今までとは予算が桁違いというのも、未体験ゾーンへの突入であった。
約1カ月間、淳はひたすら娘への愛を膨らませながら、脚本作りに全精力を注ぎ込んだ。そして出来上がったのが「マリシャ・カミンスキ×海東淳 絵本と映像の世界/ミシュとミシュコの冒険」である。ミシュとはポーランド語の愛称でクマちゃん、ミシュコはネズミちゃんである。淳の娘のミコちゃんにも響きが似ていて、チヨと淳はタイトルを大いに気に入った。
映像は実写とCGが組み合わされたファンタジーで、絵本の世界に飛び込んだ小さな女の子が、クマちゃん&ネズミちゃんと一緒に冒険するストーリーだ。カミンスキさんの絵をCGで動かし、女の子が空を飛んだり湖の底でかくれんぼをしたりする。
今回は出版社がクライアントだったので「海東監督の好きなようにやっちゃってください」と言われたのが有難かった。映像専門の会社であれば、よほど大物監督でない限り勝手にはやらせてもらえないはずだ。
「あいあいあいあいあいあー」
「見てみ、ミコちゃんが喜んでる!」
「親ばかめ!」
出来あがったデモをミコちゃんに見せて、海東監督は高い評価をいただいたらしい。相変わらず娘にデレデレの夫を横目に、その翻訳で締め切り前のチヨは猛烈な勢いでパソコンのキーを叩き続けた。
カミンスキさんと淳の作品は、英語の他に中国語と韓国語、スペイン語にも翻訳されて、全世界で発売された。もともとカミンスキさんのネームバリューがあったせいもあるが、アジアを中心にかなりのヒットを記録し、次々と他の言語にも翻訳された。
――10分だけ、子どもに戻ってみませんか。
DVDに書き添えられた文言である。これが日本のメディアで取り上げられ、さらに海東淳への注目度を高めた。デビュー作がブラックなコメディ、2作目が抒情詩的な人間ドラマ、3作目が絵本の世界を表現したファンタジー。本人は琴線に触れた事象を表現しているだけなのだが、世間では引き出しが多い不思議系アーティストだと思われているようだ。ルックスの面でも話題になり、取材の申し込みも多かった。
そんな上り調子の毎日の中、アジアの大規模な映画祭で「冥加」が特別賞を受賞したと知らされた。昨年、国内のコンテストで賞を取った時点で、配給会社があちこちの映画祭にエントリーしていたらしい。賞を取れば興行収入に影響するだけに、大会社の広報は抜け目がない。
それやこれやで、本業以外に忙殺されている淳であったが、ある日「Seqence」の社長から呼び出しがあった。末端の社員にとっては滅多に合うことのないお方である。緊張して社長室に入ると、シンプルな質問が待っていた。
「海東くん、正社員になりませんか」
現在、淳はスタジオ「Seqence」では一年更改の契約社員として働いている。ミコちゃんが無事に保育園に入れたので午後から勤務も終了し、ほぼ毎日フルタイム勤務だ。自主制作などの副業もできるし、条件としては正社員と変わらない好待遇だと思っていたが、会社側としては大きな違いがあった。
まだまだ一般ではメジャーと言うにはほど遠いが、映像業界では海東淳の知名度が急速に高まっている。最近では淳を指名してくるクライアントも増え、社長としてはぜひ正社員として取り込み、淳の作品を「Seqence」に帰属させたいという。経営者としては当然の判断だろう。
取りあえず「家族と相談してみます」と返事をし、その場を辞去した淳であったが、何だかわからない胸のつかえを感じていた。こういう時には徹底的にチヨと話し合った方がいい。その日は早めにミコちゃんを寝かしつけ、久々に夫婦でワインを開けた。
「給料が上がるし、ボーナスも出る。条件だけ考えれば、悪い話じゃないわよね」
チヨがピスタチオの殻をむきながら、淳の話に見解を述べる。彼女の言う通り、有難い申し出なのだ。条件としては今より格段に良くなるし、契約打ち切りに怯えることもなくなる。作品作りも今までと同様にやっていい。ただし、海東淳ではなくスタジオ「Seqence」の作品としてである。
「せやねん、映画は当たり外れがあるし、次も評価されるとは限らへん。その点、会社員やったら給料は保証されてるし、家族がある身としては申し分ない安全策なんやけど……」
「なんやけど?」
「自由に作品作りはできんやろな」
チヨがもうひとつピスタチオをむいて、淳の手のひらに乗せた。淳の言う通り、スタジオが作品をマネジメントするということは、安全であるかわりに自由度が奪われる。スタッフも「Seqence」のメンバーが中心となるだろう。チーム海東で撮るような一体感が望めるかどうか、どちらにしても今まで通りにはできない。
「安全策もいいと思うわよ。何をするにしたってメリットとデメリットはあるしさ。でも、もし淳が思う存分やりたいって思うなら、やってごらんなさいよ」
チヨが淳の手に、もうひとつピスタチオを置いた。口元に大きな三日月の笑みを湛えている。
「使い古された言葉だけどさ、いざとなったら、あんた1人くらい、私が食わせてやるわよ」
淳とチヨが「Studio Kaito」を立ち上げたのが、その年の終わり。よくよく考えた結果、「Seqence」の契約更改はしなかった。新事務所は映像制作と翻訳が主業務で、オフィスは伽藍堂の2階である。物置になっていた10畳ほどのスペースを、月4万円でレンタルした。ギシギシときしむ階段を上がり、開けるのにコツのいる鍵を回し、トイレは昭和のままの和式であるが、それでも二人にとっては夢に続くスタートラインである。
身内だけの事務所開きを終わらせた夜、淳が風呂から上がると、チヨがミコちゃんを抱いて窓際に座っていた。寝かしつけていたらしく、室内は間接照明だけの薄闇で、月明かりに照らされたチヨの横顔が真珠のように輝いている。
愛娘を見つめる彼女の表情が、やわらかく神々しく、淳は「聖母マリアはきっとこういう場面から描かれたものであろう」という感動に包まれた。気がついたら涙がこぼれていて、その気配にチヨが気づいた。
「どうしたの、何で泣いてるの」
「幸せやな、と思って」
チヨは一瞬だけキョトンとした表情をして、やがて「そっか」とほほ笑んだ。
「私も幸せだよ」
夫婦して足場のないフリーランスになったが、二人でいれば何とかなるという、根拠のない自信だけはあった。結婚したときもそうだったし、そのお陰で今はとんでもなく幸せである。愛する人と暮らし、可愛い娘を授かった。怖いものといえば、この時間を失う事だけである。
「これからいろんな事があるやろうし、キツいときもあるやろうけど、この瞬間を忘れたくない」
「守らなきゃね、二人で」
チヨがミコちゃんを抱いていない方の腕を伸ばし、淳をきゅっとハグした。同じシャンプーの香りになってから、もう何年だろう。これから始まる新しい航海の中、決して互いの手を離さないよう、二人は静かに体温を確かめ合った。




