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女はお腹が大きくなるにつれ母親の自覚が芽生えるが、男は生まれるまで当事者意識がない……などと、誰が言ったのだろう。
チヨの腹がいよいよせり出し、マタニティウェアが必要になるころ、淳にもはっきりとした父親の自覚が育っていた。それを実感したのは、先日妊婦検診に行った病院の待合室でのことだった。
「妊婦さんが立ってはるんで、席ゆずってあげませんか」
混雑する産婦人科の待合室。妻の付き添いで来ている男性が、座ってスマホに熱中している。その近くでは、お腹の大きな妊婦さんが立って順番を待っている。たまらず淳が声をかけた。
「はあ」
男性はのろのろと立ち上がったものの、見るからに渋々という体だ。やがて淳の立っている通路に来て、ぼそっと恨めし気につぶやいた。
「……妊娠は病気じゃないんだし」
彼の妻を含む待合室中の女性が、鬼の形相で睨みつけるより、淳の返しの方が早かった。
「病気やないから言うとんやないか」
予期せず言い返され、男がびっくりして淳の方を見た。にっこりしているが、その目の奥には「しばき倒すぞ」オーラが伺える。見た目はアイドル系でも、中身は河内のあんちゃんである。
「病気やったら治療ができるけど、妊娠はどんなにしんどくてもどうにもならんやろ。3キロくらいの物を体から一気に出すんや、心臓の10倍の重さなんやで。自然の仕組みではあってもノーダメージなわけないやろ。江戸時代の妊産婦死亡率どんだけ高いと思うてんねん」
何か言い返そうと男が口をパクパクするが、淳は続けざまにぶちかました。無口な彼がこれだけ喋るのは珍しい。よほど頭に来たのだろう。
「しかも、女性は子供産むために何カ月もしんどい思いをするんや。生理かてそうやで、40年くらい毎月がまんして、ほんであんたの奥さん、あんたの子どもを産んでくれるんやないか。ここにいてはる奥さんたちもみんなそうや。妊娠の原因は俺たち男にもあるんやから、せめてサポートせなあきませんやん。違うん?」
待合室が水を打ったようにシーンとして、ようやく我に返った淳が「やっちまった」と冷や汗を流しかけた時、診察室の方からパチパチという拍手が聞こえた。なんとナースステーションで「ロッテンマイヤーさん」と仇名がつけられているベテラン婦長さんだった。
「おっしゃる通り」
婦長さんは待合室のみんなを見渡した。
「医学が進歩したから死ぬ人が減っただけで、健康な妊婦さんでも体内は損傷しますし、人によっては後遺症が残ります。それがわからないようでしたら、どうぞマタニティスクールに来てください。父親も大歓迎です」
そう言うとまた診察室に戻ってしまった。件の男性はしょんぼりし、自分の妻に睨みつけられている。きっと、後でこってり絞られるだろう。
帰り道、車の中でチヨはさっきの淳の言葉を噛みしめていた。出会った頃はまだ10代で思春期をこじらせていた彼が、今は頼もしいパートナーとしてチヨの人生を支え、尊重してくれている。きっと育児でも愛情深い父親として、共に子どもを育んでくれるだろう。
「私、淳と結婚してよかった」
淳が大きく右にハンドルを切る。妊婦のチヨを乗せているので、普段より一層なめらかな運転だ。学生の頃はチヨが運転を教える立場だったが、今は淳の方がはるかに上手い。その横顔の口角がキュッと引き上がり、「俺も」と同意の言葉を紡いだ。
こうして刻々と日々は流れ、夜が冷え込む季節になった。この頃から、淳の心の中にある感情が芽生え始めた。自分の子が生まれるという、人生の大きなステージを前にした戸惑いかと考えたが、どうもそれとは別のようだ。
やがてそれはひとつの結論に達した。創作意欲である。義憤で爆発しそうだった「オーディエンス」の時とは全く違う、静かに内側から湧き出すようなエネルギーを感じる。チヨと出会って家庭を持ち、新しい家族を迎える過程を体験することで、無意識に命についての問答をしていたのかもしれない。父親になる、そのプロセスが淳に大きな課題を与えた。
そして新しい年が明けるころ、淳は一本の脚本を書き上げた。題名は「冥加」。仏教用語で仏様から知らないうちに受けている加護をあらわす。
未婚で自分を生んだ母を嫌い、寂れた地方都市から都会へ出てきた主人公が、自らが母親になることで、いかに母から愛されていたかに気づくストーリーである。主演は「オーディエンス」で主演をしてもらった伊佐山さんの奥さん、玲子さんにお願いした。ちょうど彼女も昨年長女を産んだばかりで、脚本を読んで感情移入し、涙してくれた。
撮影は東京都内、そして雪の降りしきる新潟で行われた。伊佐山夫妻の伝手で、路地裏のスナックや傾きかけたアパートなど、市内のロケ地が無料で使用できたのが有難かった。資金はチヨが見つけてきた芸術助成金、クラウドファンディング、そしてチヨの父から300万円を借りて乗り切った。
「新潟ってめっちゃ雪が降るのな!」
「美味しい米ができるところは雪深いんだよ、ほらこれ使いな」
寒さに弱いツキちゃんに、福井さんがカイロを渡す。今回の撮影メンバーも、もちろん前回と同じくチーム海東である。みんなメジャーどころの仕事を請け負う実力派の面々なのだが、淳の作品には万障を繰り合わせて馳せ参じてくれる。しかもギャランティは後払いである。
彼らの協力に毎度恐縮しきりの淳であったが、実際は皆好きで集まっているのだ。それほど淳の脚本にはクリエイターの嗅覚を刺激する引力があった。
彼らは週イチのペースでバンに機材を積み込み、東京と新潟を1泊で往復しながら、春が来る頃にはワンシーンを残して、全カットを撮り終えた。その間、妊婦のチヨだけは温かくして留守番であったが、事務手続きや広報関係、お金の管理など、マネージャー業務を一手に請け負い淳をバックアップした。
やがて空が澄みわたり、木々の若葉が輝く頃、チヨは女の子を出産した。体重3900gの丸々とした赤ちゃんである。
チヨも出生時は4kg近かったので、体格は母親似かもしれない。出産に立ち会った淳は、頭が出た瞬間から泣き出してしまい、看護師さんが撮ってくれた記念写真では目が真っ赤に腫れている。片や大仕事を終えたチヨは晴れ晴れと満面の笑みである。何とも二人らしいコントラストは、見舞いに来た両家の親族に大うけだった。
彼らの娘は「命」と名付けられた。愛称はミコちゃんである。1カ月泊まり込んで手伝いをしてくれたチヨの母や、八尾から飛んできた淳のオカンは、早速どんなベビー服を買ってやろうかと目をギラつかせている。
そして淳のオトンや弟、チヨの父でさえ、ミコちゃんの動画がスマホに送られるのを待ちかまえているらしい。赤ん坊とは、これほど周囲の人々を幸せにするものか。そんな彼らをさらに喜ばせたのが、ミコちゃんの女優デビューである。
作品の中で、主人公が生まれたばかりの赤ん坊を抱くシーンがある。さすがに新生児のキャスティングは難しいため、そこだけ最後まで撮影を残しておいたのだ。ミコちゃんは玲子さんにおとなしく抱っこされ、大きな可愛いあくびまで披露してくれた。生後10日目にして、堂々の演技である。
「はい、オッケーです!」
淳が我が娘にテイクワンでOKを出し、「冥加」はクランクアップした。この後、遠藤さんのスタジオで編集を行い、国内の中規模コンテストに挑戦する。もし上位の賞を獲得すれば、今度は尺が105分あるので一般劇場への営業がかけられる。欲を出してはいけないと思いつつ、淳は出来上がりに前作以上の手ごたえを感じていた。
スタッフ全員が脚本に惚れ込み、意見を交換しながら淳の世界観を共有したことで、作品の訴求力を飛躍的に上げたのに加え、主演の玲子さんが神がかり的な芝居をしてくれたのが大きかった。
とりわけ、物陰から年老いた母を見て、声をかけられずに立ち去るシーンと、出産後に勇気を出して母を訪ねた先で、既にこの世の人でないことを知って茫然と歩き続けるシーンは、夫の伊佐山さんをして「鳥肌が立った」と言わしめるほどの名演技だった。
淳の予感が正しかったことを証明する知らせは、冬の声を聞くころに届いた。いつもの会議室という名の居酒屋に集結したメンバーは一斉にグラスを掲げ、「冥加」の最優秀作品賞受賞を祝った。
「すごいよ。いろんなニュースサイトに載ってる。私、全部PDFにスクラップしてるから、近いうちクラウドにアップするね」
チーム海東のデータ処理班、ハナちゃんが興奮気味に語るように、作品は各方面から非常に高い評価を受けた。前作である程度のファンがついていたのもあるが、二作目で欲を出してコケるケースが多いだけに、個性を突き通して成功させた若干27歳の監督に、業界内部からの期待が一気に膨れ上がったのだ。
「天才子役、映画監督デビューで世界が注目、だってさ」
「やめてくれ、まだ国内にしか出してへんのに」
前作が海外で評価されたため、その成功を取り上げた記事も多く、海外メディアからも10件以上問い合わせが入っている。そちらは全てチヨが引きうけ、来年には字幕をつけて英語圏でも公開する予定だ。しかし、祝うべきはそれだけではない。
「何と、配給会社の方からお声がかかるとは!」
いつもは渋くダンディな遠藤さんが、興奮気味にテーブルを叩く。前回「オーディエンス」を上映してくれたミニシアターの親会社から、早々に契約の打診があったのだ。賞を取ったらこっちからプレゼンするつもりだったので、これは淳にとっては階段を10段飛ばしで駆けあがるくらいのステップアップであった。
しかし、それはプロフェッショナルとして興行的に評価されるということでもあり、今までのように趣味の延長では済まされない。これからどうやって映像に向かい合っていくのか、ビジョンを決める時期に淳は来ていた。
ぎりぎり終電で帰宅して、眠る娘を眺めながら、淳は自分の心の中で様々な決心が固まりつつあるのを感じていた。今後、世間が自分を見る目は自主制作をしている素人ではなく「映画監督 海東淳」としてである。
どうあがこうが、前に進むしか道はない。かつて感じたことのない大きなプレッシャーだが、はるかにモチベーションが上回っている。覚悟を決めた夫の背中を、チヨは寝たふりをしながらそっと見守った。




